【用語集】機能とケイパビリティ

 「不便益」という考え方がある。「不・便益」ではなく、「不便・益」。つまり、不便であることは、悪いことばかりではなく逆に良い面もあるのではないかということだ。

 キャンプに行く人を見て、「なんでわざわざ不便な思いをしに行くのだろうね」と首をかしげる人はいるだろう。でも、当の本人からしたらむしろその不便さがいいのだ。電気がない、ガスもない。トイレだってウォッシュレットじゃないし臭いもきつい。近くにコンビニもレストランもないから食事は自分で全部作らなければならない。寒ければブランケットをかぶるかシュラフにくるまるしかないし、天気が荒れたらテントがバタバタあおられまくって怖い。しかし、そういう不便さを体験するからこそ、自分の身体や感性がいかに鈍くなっていたか、そして都市の生活に自分がいかに束縛されていたかに気づくことができるのだ。

 これが不便益だ。不便だからこそ、自分の五感をフルに使い、自然と直接ふれあい、そしていくらかの自由を感じることができる。しかし、キャンプする人が不便益を見出すことができるのは、帰ろうと思えばいつでも文明世界に帰れるという安心感があるからだろう。もし帰る家が無かったら? 体もシュラフもどんどんへんな臭いがしてくるし、食べ物は無いし、乱暴な人に襲われる危険だってある。「キャンプをしている」という点では同じなのに、帰る家がないというだけで、不便益はただの不便でしかなくなってしまうのだ。

 こう考えると、キャンプの不便益を生み出しているのは「帰ろうと思えば帰れる」という選択肢の存在だと言えるだろう。選択肢のないキャンプはただの貧困だ。選択肢があるということがキャンプの豊かさの正体なのだといえる。

 これは別の例で考えることもできる。恐ろしく過保護に育てられて、食べる物も着る物も、さらには友だちまでもぜんぶ親が選んでくれる。その人は、親が選んでくれるものには何の不満もない。だけど、そういう人生が面白いかというと、かなり味気ないものだろう。何しろ、自分で何かを選ぶ前にすべてが親から与えられてしまっていて、選択肢は無いのだから。この場合、「選択肢のないキャンプ」とは違って貧困という感じはしない。しかし、満たされているようにも見えない。「選択肢のない贅沢」もまた、豊かさにはつながらないのだ。

 自由には「機会」の側面と「過程」の側面がある。より自由な人は、自分にとって価値のある「機会(チャンス)」を持っている。また、なんらかの結果を押しつけられるのではなく、自分で何かを選択するという「過程」自体を人は求める。「選択肢のないキャンプ」も「選択肢のない贅沢」も、自分で何かを選択するという「過程」を奪われているという点では同じだ。「選択肢のない贅沢」に関しては、一見、「機会」が満たされているようにも見える。なぜなら、他の選択肢があったとしても、親が与えてくれるものはすべてその人にとって不満のないものだからだ。それでも、もし自分で何かを選ぶことができるのなら、その人の機会はもっと広がるかもしれない。たとえば自分で着る物をあれこれ選ぶことで失敗しながらもおしゃれのセンスが磨かれて、親が選ぶのよりもっと自分に似合う服を選ぶことができるようになるかもしれない。そう考えると、「選択肢のないキャンプ」にしても、「選択肢のない贅沢」にしても、「機会」と「過程」の両面で自由が損なわれているのだと言える。

 アマルティア・センは自由を捉えるための概念として「機能」と「ケイパビリティ」を提案している。

 「機能」とは人がある財を用いて何をなしうるかを示すものだ。たとえば、リンゴという財を使えば「空腹を満たす」「味や香りを楽しむ」といった機能が生じる。ここで注意するべきなのは、財があれば必ず機能が生じるわけではないということだ。たとえば胃の手術をしたばかりで点滴で栄養を摂取している人にリンゴが与えられても「空腹を満たす」という機能は生じない。あくまで、人と財の相対的な関係において生じるのが機能だ。

 ケイパビリティは機能の集合だ。たとえば、同じ「移動する」という機能でも、徒歩、自転車、車、電車など、選択肢は様々ある。機能=選択肢と考えるなら、ケイパビリティとは選択肢の幅の広さであり、人の自由の度合いを表すものだと言える。

 機能やケイパビリティという概念は、人の状態の良し悪しを包括的に評価してくれる視点を与えてくれる。その人が豊かかどうかを「所得水準」で評価することはできる。だけど、所得がどんなに高くても、その人が本当に豊かどうかはわからない。さっきの例みたいに、恐ろしく過保護に育てられて自由も何もないかもしれないし、あるいはそのような子どもの育て方をめぐって両親がいつも言い争いを繰り広げているかもしれない。あるいは、最近だったら「幸福度」という指標で人の豊かさを評価するアプローチもある。でも、センによれば幸福はあくまで様々な機能のひとつに過ぎない。センは機能の例として、「栄養を充たせる」「読み書きができる」「自分に誇りを持てる」「恥ずかしくない身なりができる」といったものを挙げている。「幸福でいられること」はこれらの機能のうちのひとつに過ぎない。幸福ではあっても読み書きができない人がいたとして、その人が豊かどうかを判断するのはきわどいところだ。ただ、読み書きの能力が無い人は社会で様々なチャンスを失うし、他人に搾取されるリスクも高まる。そう考えると、やはり幸福であるだけでは何か足りない気がしてくる。

 もちろん、このアプローチに従って社会を運営していくのは難しい。ケイパビリティを数値で評価しにくいのは明らかだろう。うまいこと数量化したとしても、異なる機能同士の間では比較ができなくなる。たとえば、「栄養を充たせる」が70点で、「読み書きができる」が50点だから、平均するとこの人の機能の総合得点は60点だ、みたいな計算は無意味だろう。明らかにケイパビリティの大きさが拡大するという場合は、それは良い変化だと言える。たとえば街をバリアフリーにして、障害のある人にも動きやすくすれば、「移動できる」という彼らのケイパビリティは拡大する。でも、世の中の多くの決定はトレードオフ関係を伴うものだ。気候変動対策で、二酸化炭素削減のコストを考慮して、ある程度の気温上昇を許容するとしよう。その場合、経済発展することで「栄養を充たせる」「恥ずかしくない身なりができる」などの機能にかかわるケイパビリティは拡大するとしても、海面上昇のため「住みたい場所に住む」という機能に関わるケイパビリティは縮小するかもしれない。したがって、機能やケイパビリティという尺度がいつも役に立つとは限らない。とはいえ、限定的な場面ではやはり強力な尺度となるだろう。

 もう少し言えば、ケイパビリティ・アプローチに基づく優先順位の決定は、機械的に行うべきものではなく、「公共的討議」を通して行うものだ。つまり、なるべく様々な人の意見を取り入れることで、ケイパビリティ同士をどのようにトレードオフするかを決めていくのだ。もちろん、公共的討議を行ったからといって、誰もが納得できる解が出てくる保証はない。しかし、完璧な答えが出てこないならそのアプローチは無意味だと考えるのは極論だ。それこそがセンの批判する先験主義なのだ。

メモ

 今回はセンの『正義のアイデア』に全面的に依拠してるけど、できれば批判的な立場の意見も入れてみたいな。ローマーの『分配的正義の理論』あたりをいつか勉強したら追記するかもしれない。

 あと、機能とケイパビリティの関係をうまく理解し切れてない気がしてきた。それぞれの機能ごとにケイパビリティがあるってことでいいんだよね? たとえば「移動できる」という機能のサブカテゴリーとして「電車で移動できる」「自転車で移動できる」とかがあって、それらのサブカテゴリーがどれだけ多いかを表すのがケイパビリティ…でいいんだっけ? あと、「機能が生じる」という言い方でいいのでだろうか。