【用語集】社会契約説

社会契約説とは?

 正義は、誰もが納得できるものでなければならない。たとえばプーチンは自分の正義を信じてウクライナに攻め込んだのだろうけれど、その正義は多くの人々にとって理解不能なものだ。あるいはジャイアンは「お前の物は俺の物、俺の物は俺の物」という正義を振り回すが、のび太からすれば追い剥ぎに遭ってるのと同じだろう。

 私の正義とあなたの正義は必ずしも同じとは限らない。つまり、正義にも多様性があるということだ。一般に、多様性は素晴らしいことだとされている。確かにその通りだ。人々が好きな格好をして、好きなものを食べて、好きな人同士でつきあえる世界は良い世界のように思える。こうした、人々が「好き」とか「好ましい」と思うものやことを「善」と言うのなら、善は多様であるべきだろう。しかし、「正義」はちがう。正義は多様であってはならない。なぜなら、正義が複数存在すれば、異なる正義同士が対立してしまうからだ。「私の正義」はあなたから見れば「悪」に見える。正義の多様性を認めることは、それと同時に、悪に対抗する論理を手放してしまうことにもなるのだ。

 そういうわけで、「たったひとつの正義」を決めなければならないことになる。しかし、あなたが頭をひねってせっかく正義を考えてみても、人々がそれに従ってくれるとは限らない。たとえば「人々はみな平等でなければならない!」と言ったところで、それに従わない人はたくさんいるだろう。金持ちからしたらそれは自分の財産を貧しい人に分け与えることを強要されることなので、断固として反対するだろう。あるいは、イケメンは醜男マスクを常時装着しなければならないなどと主張したりしたら、イケメンとイケメン好きの人々に大きめの岩石を投げつけられることになる。

 現代社会にはいろんな人々がいる。豊かな人もいれば貧しい人もいる。友だちの多い人もいれば少ない人もいる。農家もいればITエンジニアもいる。もちろん男性もいれば女性もいる。そういういろんな人々に納得してもらえる正義でないと、どんなに立派な正義を考えたところで絵に描いた餅なのだ。

 社会契約説はもともと、国家の根拠を考えるための論理だった。しかしそれは20世紀後半に、ロールズという哲学者にとって、様々な人々の暮らす現代社会において誰もが納得できるための正義を導き出すためのツールに作り直された。

 「社会契約」とは、「社会をつくるに当たって、社会のメンバー同士で取り交わす契約」ということだ。もちろん、社会はすでにできあがっているので、実際に社会契約を結ぶことは想定していない。あくまで思考実験だ。「もし、社会が全くない状況で、ゼロから社会をつくるとしたらどういう社会にするべきだろうか?」という思考実験をすることで、国家の根拠や社会に必要な正義の原理を導き出すのが社会契約論だ。ここでは、国家の根拠にはあまり興味がないので、正義の原理を導き出そうとするロールズの議論を追ってみよう。

ロールズの正義論

 社会契約論を用いて正義の原理を導き出すには、まず、初期条件の設定が必要だ。つまり、あくまで思考実験とはいえ、どういう状況を想定しているのかをきちんと決めておかないと、適切な原理を導き出すことができないのだ。

 そこでロールズは、そうした初期条件(原初状態)を「そこそこ豊かだけど、すごく豊かなわけではない」という風に設定した。もし初期条件で、人々がみな飢餓寸前の貧しさだったら、そもそも社会なんて作りようがないだろう。少ない食料をお互いに奪い合って、血で血を洗う争いが繰り広げられるだけだ。一方、逆にものすごく豊かだったらそもそも社会をつくる必要なんてない。南の国で、一日浜辺で寝っ転がりながら椰子の実ドリンクでもチューチュー飲んでればいいのだ。そこそこ豊かだけど、すごく豊かなわけではない、というのは、たとえば、土地はあるし、そこそこ気候は温暖だけど、農業や漁業をしないで生きていくのはちょっとつらい、というような状況だ。そういう場合、人々は協力し合って、農業をしたり漁業をしたりしなければならない。つまり、社会をつくらなければならないということだ。

 初期条件は決まった。でも、まだ正義の原理を導き出すには早い。というのは、この段階で正義の原理を求めようとしても、誰もが納得のいくものは出てきそうにないからだ。たとえば魚を捕るのが下手な人は「捕った魚はみんなで平等に分配するべきだ」という正義を訴えるかもしれない。でも、逆に魚を捕るのが上手な人は「魚を捕るチャンスは平等でいいが、捕った魚を平等に分配するのはやり過ぎだ」と文句を言うだろう。両者は平行線のままで、とても合意に至りそうにない。

 そこで登場するのが無知のヴェールだ。これは不思議なヴェールで、こいつをかぶると自分が誰だかわからなくなってしまうのだ。名前も、性別も、職業も、そして財産のことも。ヴェールを取り去れば元に戻る。だから、一時的な記憶喪失アイテムみたいなものと考えてくれ。なんでそんな物があるのか? まあ、思考実験だからいいんだよ。ロールズの脳の中にはこんな宝貝(パオペエ)があるのだろう。

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 さて、このスーパー宝貝「無知のヴェール」のおかげで、みんな自分が誰が誰だかわかんなくなってしまった。さあ、これでそれぞれが自分に都合のいい正義を提案する動機がなくなった。なぜなら、自分が金持ちなのか貧乏人なのかわからない以上、無知のヴェールを取ったとき自分の正体が金持ちであっても貧乏人でも受け入れられるような正義でないと、大後悔することになるからだ。

 それでは、どんな正義の原理が導き出されるのか? ロールズは次のような原理が導き出されるだろうと主張している。

  • 第一原理:平等な自由の原理
  • 第二原理
    • その1:公正な機会均等の原理
    • その2:格差原理

 平等な自由の原理は、基本的人権みたいな、どんな人生を送るのにも不可欠で役に立つものを平等に分けようという原理だ。まあ、確かにこれが選ばれるのはそれなりに妥当のようだ。「人権いらない。きっと俺の正体は王さまで、たくさんの奴隷を従えなきゃならないから」とかほざいてたら、無知のヴェールを取り去ると実は奴隷でした、みたいなことになりかねないから。

 第二原理はこの平等主義を調整するものだ。完全な平等だとちょっとしんどい。たとえばピアノの才能があっても「へたな子に合わせなさい」とか言われたら悲しいだろう。社会全体も活力を失ってしまう。

 第二原理の1つ目は、まあそのまんまだ。まずは誰にでもチャンスを与える。ピアノが得意な子にも、へたな子にも、まずはチャンスを与える。そして、うまいこといけば、得意な子はどんどんピアノの腕を伸ばせていけるだろうし、へたな子も、また別の分野に挑戦するチャンスがある。

 だけど、そうやってみんなにチャンスを与えて好き放題やらせてると、どんどん格差が生じてくるだろう。何やってもうまく行く人もいれば、何やらせてもあかん奴はいる。そこで、第二原理の2つ目だ。これは、社会的・経済的に最も不遇な人の状況を改善しようというものだ。つまり、みんなにチャンスを与えるだけでなくて、チャンスを生かせなかった人のためのセーフティネットを張っておこうというものだ。

ロールズへの批判1:マキシミン原理について

 さて、この正義の二原理はすべての人に受け入れられるものだろうか? まあ、受け入れる人が多そうだという気はする。でも、全員が受け入れるかと言われると、ちょっと疑問もある。たとえば、「自分が奴隷になるリスクを冒してでも、自分が王さまになって奴隷をこき使える人権のない世界」を夢見るバクチ野郎がいるかもしれない。

 実はロールズは、人々はマキシミン原理に従うだろうと仮定している。つまり、「Min(最小)」を「Max(最大)」にする、ってことで、最悪の事態をもっともマシなものにしようという行動原理だ。たしかにそういう人は多いだろうけど、世の中にはマキシマックス原理に従って、「Max(最大)」を「Max(最大)」にしようとする攻めた人たちもいる。少年漫画の主人公なんかだいたいそんな感じだろう。老後の蓄えをしっかり準備するよりも海賊王になりたいのが彼らなのだ。

 ロールズの正義の二原理は多くの人に受け入れられると思う。しかし、これに従わない人もいるだろうという点では、完璧なものではない。というか、おそらく、完璧な正義なんてものは存在しないし、そんなものを追い求めても現実の正義を実現するにはあまり役立たないのではないか。そうロールズを批判したのがアマルティア・センだ。しかしそのことは、また別のところでまとめたい。なんかすごく記事が長くなって手首が痛くなってきたから。

ロールズへの批判2:グローバルな視点が弱い

 ロールズに対する批判は他にもある。ロールズの議論は伝統的な社会契約説に従っているので、あくまで「国」という単位で正義を考えている。でも、今の時代はグローバル化が進んでいるので、もう少し視野を広げる必要がある。たとえば、直接利害関係のない遠くの国のことであっても、その国で差別や迫害が行われているのなら、国連などを介して介入する必要があるだろう。国を超えた正義の必要性をセンは訴える。そのために必要なのが、公共的討議、つまり、議論の場にいない他者にも配慮した理性的対話だ。だけどこれは、センについてまとめるときにもう少し詳しく述べることにしよう。

ロールズへの批判3:世代間倫理をうまく扱えない

 もうひとつは、世代間倫理の問題だ。社会契約説は「今、生きている人」同士が取り結ぶものと仮定している。だから、まだ生まれていない100年後の人は考慮から外されてしまうことになる。

 それでは、「自分が今の人間か100年後の人間かもわからない」という風に無知のヴェールをパワーアップすればいいのだろうか? ロールズは、世代間の問題に無知のヴェールを適用するときは、適切な貯蓄率を決めることが問題となると述べている。つまり、決めるべきなのは正義の原理ではなく、自分がどの世代に生まれても納得できるような貯蓄率なのだということだ(浪費をせずに、次の世代のためにきちんと貯蓄をしようという意味)。ただ、ここまで来ると思考実験としてかなり認知的負荷の高いものになってしまうのではないだろうか。100年後の世界がどうなっているかなんて誰にもわからないし、その貯蓄率をどう決めるかによっても100年後の世界のあり方は大きく変わる。さらに言えば、100年後の人間のことだけ考えるのでは不十分だ。200年後、300年後の人間のことも考えなければならないだろう。これではあまりに不確定性が大きすぎて、まともな推論ができるとは思えない。

ロールズへの批判4:個別具体的な問題にどう適用するのか

 最後に、正義の二原理を個別具体的な問題に適用することはできるのかという問題もある。これはヒースによる批判だ。

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 ロールズの契約主義はマクロ契約主義、つまり、正義の原理という、一般的な社会制度のレベルでの契約主義だ。しかし、マクロレベルで正義の原理が成り立っていても、ミクロの個々人の相互作用にもその正義の原理を適用できるとは限らない。あまりに抽象的過ぎて、個別の判断では指針として役に立たないことがあるからだ。

 逆に、ミクロレベルでの社会契約を考えてみたらどうだろう? つまり社会全体でなく、個別の問題の当事者だけで無知のヴェールを使ってみるということだ。そうして、ミクロレベルで正義の原理を考えてみて、それを個別の問題に適用するのだ。だけど、これだとただの談合のようなものになりかねない。つまり、その社会契約に参加していない人に対してはひどく不公正な対応がなされる可能性があるのだ。

 という風に、マクロとミクロの両レベルで正義が貫徹されるかどうかというのは、ロールズの正義論ではよくわからないままなのだ。それではどうすればいいのか? まず、マクロとミクロでずれがあってもあまり気にしないことだ。両者を同時に適用しようとするから問題が起こるのであって、そうしなければいいだけのことだ。でもそれだと、マクロレベルの正義は現実の問題に対して何の役にも立たないガラクタということになってしまうだろう。

 そこで、ヒースはもう少し突っ込んだところまで考える。おそらくミクロレベルでの正義というのは、文化進化的に形成されてきたものなのだ。たとえば、「平等性」と「効率性」に関わる規範は多くの社会で広く受け入れられている。それは、こうした規範が比較的人々の不満を招きにくいものだからだろう。つまり、これらの規範が継承されるように、文化進化上のバイアスがかかっているのだ。

 しかし、私たちはこうした規範を意識的に変えていくこともできる。マクロレベルの正義は、そうしたときに役立つ「説明的語彙」なのだ。つまり、私たちがふだん無意識に従っている規範の構造を明示して議論するときに、ロールズが考えたようなマクロレベルの正義はさまざまな視点を与えてくれる。そうすることで、文化進化において「導かれた変異(guided variation)」というさらなるバイアスを与えることができるのだ。

 冒頭でもすでに関連することを述べたけど、そもそもマクロレベルの正義が必要になってきたのは、近代国家が発展するとともに、世界がグローバル化してきたからだ。たとえば私的所有権制度が確立すると、持てる者と持たざる者の格差が顕在化してくることになる。すると、貧しい人を見殺しにしてよいのかどうかという、マクロレベルの契約主義が必要になってくる。あるいは気候変動対策のグローバルな制度(炭素税など)を構築するにも、国家間の負担の格差が焦点になってくる。こうした状況には、これまで文化進化的に形成されてきたミクロレベルの正義ではうまく対処できない。だから、マクロレベルの契約主義によって、文化進化の方向性にバイアスをかけ、より多くの人を取り入れることのできるような正義を目指すことが必要になってくるのだ。

 ロールズの正義論はそのままでは個別の問題に対して何の役にも立たない。しかし、ミクロレベルで文化的に継承されてきた規範を軌道修正するための議論を行うときに、ロールズの議論はさまざまな役に立つヒントを与えてくれるのだ。

メモ

 思ったより長編になった。そして、まだまだ十分にまとめきれてないところが多い。派生する話題もだいぶあるので、それはまた別記事にまとめる。

 ホッブズとかルソーの社会契約説は完全に端折った。詳しくないし、現在の倫理的問題に直接役立ちそうにないから。

 世代間倫理のところとか、最後の「説明的語彙」とかのところは、自分でもよくわからないでまとめてるな。いつか補足しよう。