【読書ノート】Morality Competition and the Firm 第6章

第6章 ミクロとマクロの契約主義

イントロ

正義の原則はなぜ存在するのか? それは、「協力による便益と負担」をうまく分配するためだ。

契約主義の中心的なアイデアは、正義の原則は個々人が自発的に従う条件を特定するものでなければならないというものだ。でも、こうした原則はどのレベルに適用すればいいのだろう?

自然なやり方は、具体的なレベルの相互作用にこれらの正義の原則を適用することだ。こういう風に個人の行動を制約するレベルで正義の原則を適用するやり方を、ミクロ契約主義と呼ぶことにしよう。

だけど、こういうやり方には批判もある。というのは、自分たちが協力しないと考える相手に対しては再分配の義務を負わなくて済むからだ。つまり、正義の原則を操作することで自分たちに都合のいい利益を得ることも可能になってしまうのだ。

そこで、そういう特定の協力ではなくて、もっと一般的な社会制度のレベルで契約主義を適用しよう、というやり方もある。これをマクロ契約主義と呼ぼう。マクロ契約主義にシフトすることで、協力関係を自分たちの都合のいいように結んでしまうという問題は最小化することができる。

ミクロレベルで見て、個々の相互作用や制度が公正だとしても、それがマクロレベルでみても公正な社会であるとは限らない。逆にマクロレベルから出発して、公正な社会が実現されていると主張したとしても、ミクロレベルでどうなっているかはわからない。本章の目的は、この難問がどこから生じるのかを明らかにし、その解決策を提案することだ。

6.1. 論争を最小限に抑えられる契約主義

契約主義者は、利他的な行動を取ってくれない人たちに対してどう言うべきかを考える。これが彼らの思考の特徴だ。契約主義は、動機付けの点で効果があるのであれば、その規範がそれほど高尚なものでなくても構わないと考える。

平等の原則に対しても、契約主義は懐疑的な立場を取る。哲学者の中には、「平等にコミットしよう! 以上!」で済ませてしまう人たちもいる。これに対し契約主義は、そうしたコミットメントをまだ共有していない人たちに対し呼びかけるものだ。

この問題に対する契約主義者の対応は、かなりシンプルだが非常に強力なものだ。契約主義の基本的主張は、人々の合意を取り付けるために満たさなければならない対称的な条件から平等の原則は生まれる、というものだ。人と協力をするとき、「妥協する」「均等に分ける」「コイントスで決める」みたいなことは誰だってやるだろう。そういう「均等化」のためのテクニックを使うことで、反対意見が出ないようにするのだ。平等は究極的な価値として出てくるものではない。むしろ、合意を得るために満たさなければならない制約として出てくるものなのだ。

この状況を示すには囚人のジレンマを考えるのが一番いい。

自白 黙秘
自白 (1, 1) (3, 0)
黙秘 (0, 3 ) (2, 2)

両プレイヤーがランダムに戦略を選択したとしよう。そのときに生じうる帰結の範囲を示したのが図の菱形の部分だ。そして、(1, 1)の北東部分の色塗りした部分が実現可能集合だ。

両プレイヤーが利己的に振る舞うと想定する限り、ゲームは永遠につづくことになる。つまり、自分の番では自分に有利なオファーを出して、相手はそれを拒絶する、というのが無限につづくのだ。だから、どうすれば合理的な合意といえるかを特定するための規範原則が必要になる。

もちろん、こうした問題を解決するのに役立つ「分厚い」文化的資源は様々あるだろう。たとえば代々受け継がれてきた社会規範とかだ。でも、そういう文化的資源の無い状況だったらどうなるだろう? 

1つ目のやり方はこういうものだ。もし両プレイヤーの状態をよくするような戦略がありうるのなら、両プレイヤーの状態が悪くなるような戦略は明らかに劣ったものだろう。このアイデアを原則に昇華させたのが、おなじみのパレート優位の原則だ。そうして残されたパレート最適集合を示したのが次の図だ。

2つ目のやりかたは、こういう風に分配してはどうか、という提案に対する反対を最小限に抑えるために、他の人と立場を変えてみるのだ。このやり方を厚生の観点で扱うなら対称性(あるいは匿名性)の原則が生まれる。つまり、誰も他の人と立場を変えたいと思わないような対称的な分配を是とする考え方だ。いずれにしても、プレイヤーが他のプレイヤーと立場を変えたいと言い出すような分配を実現可能集合の中から捨ててしまうのがポイントだ。これを平等性の原則と呼ぼう。

単純なケースなら、パレート最適の直線と平等性原則の直線の交叉する1点を確定することができる。いわゆる、効率的な平等配分だ。この配分点を選ぶのが契約主義だ。別にこの点自体に何が特別な意味があるんじゃない。単に、この点を選ぶ限り誰からも文句が出ないのだ。

現実の世界の場合、効率性が非常に高まるが平等性が悪化するとか、あるいはその逆に平等性が非常に高まるが効率性が悪化するような事態は普通に発生する。だから問題は、どの程度の悪化なら受け入れ可能なのかということだ。

ひとつの解決法は、効率性か平等性かいずれかの理想的な現状から離れるにしたがい、プレイヤーたちがより強硬に反対するというものだ。こうしたトレードオフに関するよく知られた常套手段がナッシュ交渉解だ。これは、両プレイヤーが得る利得の積を最大化するというものだ。

これを示したのが次の図だ。Nは両プレイヤーの利得の積がkとなる無差別曲線だ。Uは両プレイヤーの利得を足し合わせたもので、功利主義者はこいつに注目する。そして直角に折れ曲がっている線は(ロールズの)格差原理を示している(あるプレイヤーの状態がより改善される限り、その改善の度合いには無関心)。

このときナッシュ交渉解はどういう風に使われるのか、Taurekの提案した思考実験をつかって考えてみよう。

Aという島に5人の人々が住んでいて、Bという島には1人の人が住んでいる。あなたはいずれかの島を救うことができるが、両方を救うことはできないという状況を考えよう。このとき、Uの基準で最大化をする場合、5人の命を救うべきだといことになる。 しかしロールズの基準を使うなら、どの個人にも平等に生き延びるチャンスを与えるべきだということになる。

Uとロールズ基準、どちらを採用すべきだろう? ここで必要なのは、2つの考え方をバランスさせることなのだ。そうしたバランスのとれた解を導き出すのがナッシュ交渉解だ。つまり重み付けをしたクジで誰が救われるべきかを決めるのだ(1人しかいない島に住んでいる人には、6分の1で自分が救われるクジをひかせる)。

でも、これが議論の余地の無い解決策と言えるだろうか? わたしにはそうは思えない。これが論争を最小限に抑えられる解決策だとしたら、それは、これがロールズやゴティエといった契約主義者たちが提案したものよりもずっと一般的なレベルで定式化されたものだからだ。

実は、契約主義者たちがつくってきた理論は、効率性と平等性というより抽象的なレベルの原則を具体化したものに他ならない。わたしがここで描いてきたのは、より「ジェネリックな(まだ具体化されていない)」意味での契約主義なのだ。

6.2. 契約主義の難問

「論争を最小限に抑えられる契約主義」があったとして、それにある人が合意したとしよう。今後はこれを「正義の原則」のテンプレとして使えるわけだ。でも、それを日常生活に適用するにはどうすればいいのだろう?「合理的」はどうやったら「現実的」になるのだろう?

一番自然なやり方は、その人の実践合理性に直接この原則を植え付けてやることだ。これがゴティエのアプローチだ。この場合、均衡点がパレート最適ならプレイヤーたちは合理的選択理論に従う。潜在的に次善の均衡にいるなら協力解を目指して行動をシフトする。相手プレイヤーが協力してくれそうなら、ゴティエの言う「ミニマックス基準での相対的譲歩」によって協力解を目指すのだ。

これは直観的に極めてわかりやすい。しかし、こうした原則は、あなたが協力する相手にどう振る舞うべきかを教えてくれるが、そもそも誰と協力するべきかは教えてくれない。

誰と協力するべきかを考えるには、協力ゲームの枠組みを導入するといい。協力ゲームでは、個々のプレイヤーは自分たちで勝手に行動を選択するだけでなく、他のプレイヤーと提携して共同戦略を立てることもできる。この場合、均衡が安定であるためには、どの個人も裏切りのインセンティブがないというだけでなく、どの提携も裏切りのインセンティブがないという条件が必要になってくる。そうした均衡をゲームのコアと呼ぶ。しかし多くのゲームはコアを持たない。つまり、たいていの場合、提携を抜け出した方が個々のプレイヤーにとって良い帰結になるのだ。

簡単な例で考えよう。ジャングルの奥深くにある宝箱を探そうとする3人の冒険家がいる状況だ。宝箱を運ぶには2人必要だ。3人でかわりばんこに宝箱を運んで宝を3分の1ずつ山分けするという戦略が考えられる。しかしそれよりも、2人だけで運んで2分の1ずつ山分けする方が魅力的だろう。だから、3人で協力するという戦略を採用する必要はない。1人をのけものにして2人だけで運ぶ方が望ましい。だからこの場合、コアは存在しない。

もちろん、誰と協力するかというのは正義論となじまない発想だと感じる人はいるだろう。再分配の義務を最小限にするために関わる相手を選り好みするような仕方はまちがっている、というわけだ。だから、正義の原則はもっと広い範囲をカバーするような提携に適用されるべきだということになる。

となると、あとはおなじみのマクロ契約主義のフレームワークを使うことになる。個人がどう選択するかというのは問題にならなくなり、仮想上の「社会契約」によって正義の原則が合意されたということになってくる。こうした社会の「基本構造」は、人々を平等に取り扱う。そのとき、人々がどれだけ貢献したかは問われない。

でも、こういう風にして協力の問題を解決すると、別の問題を生むことになる。社会全体ではそれでいいとしても、われわれは個別の協力の取り組みについても判断を下さなければならないのだ。そしてそのとき使われる正義の原則は、社会全体に適用されたものと同じでなければならないだろう。

ロールズのフォロワーたちはあんまり注意を払っていないようだが、ロールズ本人は、「個々の取引だけみて正義がどうこういうのは間違いだ。判断されるべきなのはあくまで基本構造だ」ということを言っている。だから正義の二原理を受け入れるときに理解するべきなのは、日常生活における複雑なさまざまな出来事は考えないようにすることなのだ。

契約主義が抱える難問は、正義の原則(特に平等という概念)をミクロとマクロの2つのレベルに同時に適用することによって発生するのだ。どうやってミクロとマクロのあいだをスムーズに行き来できるのだろう? そこはぜんぜん明らかでない。

ミクロレベルで正義の原則から外れていないのであれば、それらを総計すればマクロレベルでも正義の原則から外れていないのだ! と考えるのはいわゆる「合成の誤謬」だ。逆に、社会全体で何らかの正義の原理が尊重されているとしても、ミクロレベルでもそのようになっているとは限らない。

これは難問ではあるけれど、解決できないわけではない。特定のレベルでは正義の原則を適用し、他のレベルでは気にしなければいいのだ。ミクロ契約主義者は、マクロレベルでの正義を忘れてしまえばいい。両方のレベルで同時に正義の原理を適用しようとするから問題が発生するのだ。

6.3. 文化進化の観点から見ると

私自身にはなにか解決策があるわけではない。でも、正義と協力の結びつきを私としては断ち切りたくないので、もう少しジタバタしてみよう。

わたしは先に、「論争を最小限に抑えられる契約主義」について述べた。それは、契約主義の伝統にならったまでだ。つまり、「より一般的な道徳原則から、個別の道徳原則を導き出す」という伝統だ。これは契約主義者の標準的な考え方だ。合意を達成するために満たさなければならない制約は、いわば「上位規範」として機能する。そしてそこから、「嘘をついてはいけない」「盗んではいけない」といった個別の規範が生まれてくるのだ。

こうした一般的な原則をもっとちがった風に捉えることもできる。つまり、規範的推論のパターンについて語るための「説明的語彙」と捉えるのだ(これは、道徳的語彙の一般的特徴だ。たとえば、「べき(ought)」という言葉は、義務を宣言に変換するという説明的役割を担っており、この言葉を用いることで推論をすることが可能になるのだ)。

この考え方を使うなら、最上位の規範的権威はより低いレベルの道徳規範に宿っていることになる。そうした道徳規範は文化的継承を通して再生産される複雑な人工物の一部だ。たとえば、結婚に関する義務と労働に関する義務がそれぞれちがうやり方でもいい。民俗学や文化進化論の研究によると、文化継承では、規範的に強制された行動パターンについて、ほとんどどんなものでも維持することが可能だ。そして、そうした規範には分野間での一貫性が見られないのが普通である。

文化は「変化を伴う継承」というシステムを形成しているので、生物進化と同様に、進化上のダイナミズムが見られる。それぞれの社会規範は、その社会規範を受け入れてくれる人々をめぐって競争しなければならない。しかしこの競争構造はあらゆるタイプの社会規範に対して中立的なわけではない。たとえば人間の心理的性質について言えば、あるパターンの方が他のパターンよりも統計的によく見られるものである。「近親相姦の義務」と、「近親相姦忌避の義務」を比べると、後者の方が一般的に見られる。こうした心理的傾向があるために、文化的継承システムにはバイアスがかかるのだ。

文化進化は、社会における人々の相互作用の構造から発生するバイアスも受ける。私の考えでは、文化進化のプロセスにおいて、効率性と平等性を表す規範は優遇されるものだ。なぜか? それは、効率性と平等性という2つの規範が、あまり人々の不満を招かないものだからだ。社会規範は強制されるものであるが、人々が自発的に遵守するものでもある。言い換えると、社会規範は人々にとって同意しやすいものでなくてはならないということだ。

いったんこうした説明的語彙を身につけてしまえば、規範をより効率的で平等なものに進化させていこうという意識的な取り組みが可能になる。たとえば、人々の意見の相違を最小限に抑えなければならないというとき、正義の原則を意識的に「政治的な」やり方で利用することもできる。そして新しい協力システムをデザインする際には、平等と効率性が配慮されることになる。そうして、文化進化においてさらなるバイアスがつけられる。文化進化論者たちの言う「導かれた変異(guided variation)」というやつだ。

この自己触媒的プロセスは、啓蒙主義自由主義的秩序によって、われわれの社会に生じたものだ。こうして、道徳に関する以前の考えは安定性に欠けた過去の遺物となってしまったわけだ。だから一般的な規範原則は余分な歯車なのではない。しかしその一方で、個別の道徳判断においてはあまり中心的なものとなっていないのだ。

6.4. 含意

われわれの平等主義的な直観は、むしろ人々の相互の関わりに関する多様な領域における文化進化の産物なのだ。そしてそうした文化進化は、社会批判や社会改善の実践において反省的に用いられる説明的語義によって促進されるのである。

だから、多様な領域におけるわれわれの平等主義的な直観が社会全体というレベルで見ても一貫性を持つことはたまにしか無いのだ。われわれは、平等主義という抽象的な原則にコミットしているわけではないのである。

たとえば、「タイタニックの難問」というのを考えてみよう。

これはシェリングが考えた難問だ。タイタニック号では3等客室の乗客の分までは救命ボートが用意されていなかった。その分、料金が安いというわけだ。さて、お金を払ったかどうかによって救命ボートに乗れるかどうかが異なってくる、というのはわれわれにとって受け入れがたいやり方のように思える。でもその一方で、タイタニック以外の船に乗るとき、乗船料が違えばその船の安全性基準が異なってくることについては不満を訴えないのが普通だろう。しかしこれでは、払うお金で安全面の待遇に差別があるのは許されるのか、それとも許されないのか、わからなくなってくる。これが、タイタニックの難問だ。

標準的なミクロ契約主義・マクロ契約主義の枠組みでは、この難問をうまく扱うことができない。

ミクロ契約主義の観点からは、同じ船でも乗客によって救命ボートを使えるかどうかが異なることに何の問題もない。逆に、すべての乗客に救命ボートを提供すべきだとなったら、チケットの価格が上がるから、タイタニックに乗れたはずの人が乗れなくなってしまう。つまり、死荷重が発生するということだ。

乗客の一部がホワイト・スター・ライン(タイタニックの運営会社)と交渉し、相互に利益になる取り決めをしたのなら、それは公正な取り決めだ。そして、別の乗客たちがまた別の取り決めをしたのなら、それもまた公正な取り決めだということになるだろう。救命ボートを使えるかどうかに関して、乗客の間に平等が成り立つと仮定することはできない。というのは、救命ボートの供給に関して彼らは互いに協力しているわけではないからだ。

これに対して、マクロ契約主義なら三等船室の乗客を見殺しにすることを批判できる。それでは平等の原理を侵害することになるからだ。だけどその一方で、船によって安全性の基準になぜ違いがあるのかは説明できないし、人々がチケット料金のちがいで船を選択していることも理解できなくなる。

料金によってなぜ待遇が変わってくるのか。それを説明するための一般原則を探し回るよりも、簡単にこう言ってしまえばいい。これは特定のタイプの協力的企てなのであり、長い年月をかけて進化し適応してきた規範に従ったものなのだ、と。

タイタニックの事故のような緊急事態では、日常よりもより高いレベルの社会的団結が喚起される。そのため、そこで適用される規範はしばしばより平等主義的なものになるのだ。歴史的事実として言うと、タイタニックからの避難において適応された規範は「女性と子供が先」というものだった。それで、船の片側にいた男性たちは救命ボートに乗ってはいけないということになった。シェリングは、三等船室の人々は船と共に海の藻屑になるのだとか言ってたが、それははっきり言って間違いだ。三等船室だろうと一等船室だろうと男性より女性の方が助かる確率が高かった。三等船室の生存率が低かったのは、そもそも女性があまり乗ってなかったことと、三等船室が甲板から遠かったというのが理由だ。

ここで適用された規範は、完全に平等主義的なものではない(だって、女性と子供を優遇しているのだから)。しかし、男性、女性、子供というそれぞれのカテゴリー内では差別なしだ。それぞれのカテゴリー内では「列の先に並んだ人が先に助かる」という規範が適用されているのだから。

この例を考える一番のやり方は、「船で旅をする」ことを、一種の協力的実践と捉え、そこには特定の規範が適用されるのだと見なすことだ。救命ボートに乗れるかどうかを客室の等級で決めるのはこの規範に違反している。それは、カネにものを言わせて映画館で並んでいる人たちの間に割り込むのが「列に並べ」という規範に違反しているのと同じ事である。ところがそもそも船が違う場合となると、規範は船ごとで違ってくる。そうした規範は、協力構造を持つ一般化された互酬性システムの一部だ。だけど、それぞれの規範の目的は異なっている。

特定の規範が特定の協力システムに結びついているというアイデアは重要だ。それはひとつには、このアイデアによってなぜ平等主義的な原則がローカルな場面で適用されることが多いかがうまく説明できるからだ。文化進化モデルが示唆しているのは、分配の義務は協力活動に直接参加している人に限定されるということだ。なぜかというと、彼らこそが規範に自発的に従うことを保証されるべき人々であり、したがって、規範を再生産するために不満をきちんと聞き入れられなければならない人々だからだ。だから、同じ船に乗り合わせた乗客たちの行動に特化して適用される「特別な目的」の規範があってもおかしくない。

協力の範囲を決定するのは哲学的な問題ではない。というのも、個々人が日々のあれこれに対処できるのは、目の前の状況に文化的テンプレートを当てはめたり、自分たちがどういうタイプの状況にいるのかを特徴づけたり、適切な規範を適用したりする能力があるからなのだ。義務の範囲はつまるところ、これらの規範とそれにともなう制度によって決定する。

わたしたちが平等主義的な規範をより抽象的なレベルで適用しようとする理由には2つある。

第1に、近代国民国家の発展により、社会のあらゆる人々を包括する協力システムが誕生した。たとえば、私的所有権システムがいったん確立すると、このシステムによって社会に生まれる不平等は正統な懸念と批判の対象となる。

第2に、より大規模な協力関係を築くための制度構築にわれわれが取り組み続けてきたことだ。これは意識的なプロセスであり、制度デザインは効率性と平等性の原則を明示的に用いて行われる。なぜなら、ある規範に対して人々の合意を促すための文化的資源が共有されていないからだ。こうして、われわれは自分たちが解決したい集合行為問題に関して、効率性と平等性という語彙を用いて、自分たちがどうしたいかを表現するのだ。こうした試みは、協力の原則とシステムが非常に様式化されたやり方で構想されるという点で、マクロ契約主義に似てくるだろう。

こんな風に制度を発展させていくと、形式的には矛盾していなくても、少なくとも緊張関係をはらんだ一揃いの規範的コミットメントに行き着くことになる。ある正義の基準に適うように特定の制度をどう設計するか、ということについて、われわれは強い意見を持つものだ。でも、こうした制度がもたらす結果の総計に対しては不満を持ち、軌道修正の方向性を探ることも珍しくない。そうすることで、社会全体にとっての帰結がわれわれの正義の概念に適うものにしようとするのだ。規範的コミットメント同士の対立を緩和するのは哲学の問題ではなく、もっと実践的な問題なのだ。

6.5. 結論

ここ数十年のあいだ、正義に関する議論は漂流し、社会全体あるいは人類全体での「平等性」という、ますます抽象的な関心の方に流れている。その傾向に逆らおうとする人は非難される。というのは、そういう人は「しょせんお前は金持ちの西洋人だから、自分たちの金を誰にもわたしたくないという算段なのだろう」と邪推されるからだ。

でも、そういう邪推をやめるなら、今の哲学の潮流に逆らおうとする人々の動機に気づくはずだ。そうした動機の中でももっとも目立つのは、哲学がお花畑的な正義論に堕してしまうことへの懸念だろう。エリザベス・アンダーソンの言うように、平等主義に関する最近の哲学文献は全宇宙にまたがるような広範囲のレベルでの不正義を頭の中ででっちあげることばかりに夢中になって、平等主義の本当の政治的狙いをすっかり忘れているのだ。

一方で、もう少し狭い範囲でだが、もっと哲学的な懸念もある。その主なものは、平等性の原則をそこまで抽象的なレベルに適用してしまうと、個人間の関係性や制度に関する意思決定を仲裁する平等性という概念の役割が見失われてしまうことだ。

たとえば、大学教授は隣の研究室の教授がどれだけ給料をもらっているかは非常に気にするが、その公正さを世界規模での平等性という観点から評価したりはしない。学校が偏りのない受験手続を実施しようとするのは、入学志願者が定員よりも多いからであって、社会全体としての不平等を気にしているからではない。

なぜ人々は平等主義的な規範に惹きつけられるのか。それは、これがコンフリクトを最小限に抑える規範だからだ。これは、こうした意思決定状況に陥ったことのある人なら誰でも納得できることだろう。これこそが、契約主義というアイデアの根柢にあるものだ。つまり、平等性の原則(あるいは効率性の原則)は、人々が協力して何かを成し遂げようとするときに合意を得やすいのだ。

これをきちんと理論化するのは難しい。もしマクロレベルでの抽象的な原則をよりミクロの具体的な問題に適用しようとしたら、これまで説明してきたように厄介な問題が出てくるだろう。つまり、ミクロとマクロの間に一貫したリンクを作ることは不可能なのだ。

でも、そんな風にむりに理論化しようとしなくても、文化進化論の枠組みを使えばいい。つまり、マイクロとマクロの間の一貫性は、理論から得られる論理的要請ではなくて、社会における協力の試みなのだ。

感想

ひさしぶりにまとめてみた。

この本、面白いけど読みにくくてまとめるのがつらい。ひとつひとつのセンテンスが異様に長いんだよ。しかも、どこが重要な記述で、どこが補足的な記述なのか、見分けにくい。普通に読んでるだけだと論理の流れが追えないので、ほぼ全訳しながら読んでる。

ロールズの正義論はいろんな人がいろんなところで引用する。でも、そもそもロールズの議論にどんな価値があるのか、というのはあまり理解されていないのではないか。正義の2原理は有名だけど、じゃあそいつを現実の政策にどういう風に応用すればいいんだい、というのはロールズの入門書を読んでも何も書いてないのが普通だ。

現実の政策づくりに応用できないんだったら、それはただの理論のための理論で終わってしまうのではないか。数多のロールズ入門書にはそういう不毛さが感じられる(わたしも何冊か読んだことあるけど、面白いものは1冊もなかった)。で、アマルティア・センなんかは、ロールズの正義論が抽象的な「完璧な正義」を追い求めるものだと批判して、もっと個別具体的な不正義をちょっとずつ解消していくべきだと説くのだ。わたしは、センの批判は極めて妥当だと思う。

今回のヒースの議論によれば、ロールズの論じたようなマクロレベルでの正義をミクロレベルにトップダウンで適用するのは不適切だ。むしろ、ミクロレベルでの正義の判断に暗黙的に含まれている考え方を明示化したものが、マクロレベルの正義なのだ。ミクロレベルで適用される社会規範は、倫理学者たちが頭の中で考えた倫理論を個別具体的な事例に応用したものではない。そうではなく、個別具体的な集合行為問題を解決するために文化的に進化してきた構築物なのだ。「平等性」や「効率性」は、そうした文化進化の過程で有利な特性をもつ(つまり人々の対立が発生しにくい)から生き残ってきたわけだ。

じゃあ、マクロレベルの契約主義はまったく無意味なのかというと、そうでもない。マクロレベルでの普遍的な正義についてああだこうだ議論するからこそ、ミクロレベルでの社会規範を互いに矛盾しないものに変えていこうという文化的バイアスをかけることができる。ここらへんは、公共的討議を通して不正義を発見し、是正していこうというセンの正義論と整合する発想でもある。

この本はビジネス倫理の本なのだけど、ここらへんからビジネス倫理と関係ない議論がちょこちょこ入ってくる。でもとても重要な議論が展開されていると思う。「ロールズって何の役に立つの?」とわたしのような不遜なことを考える人にとってはためになるところが多い。本当はロールズの入門書でもこういう議論をちゃんと紹介するべきだと思うのだけどね。

なお、記事中のグラフはGeoGebraというアプリで作った。本に掲載されてた図をそのままコピペしてもいいのだけど、「無断転載」という言葉を聞くと小心者のわたしは胸が苦しくなるので、こんな小手先のことでごまかしてる小心者の小者だ。でも、今回初めて使ってみたアプリだけどすごく便利。時短まっしぐらだ。