理想を唱えるのは楽しいけれど

 環境倫理について私がここ数日書いてきたことは、自分でもただの理想論のように思える。

 社会のなかに遊びがあればいい。それはそうだろう。商店街が無くなればいいなんて考えている人はあまりいないはずだ。ただ、しょうがない、それが時代なのだと、みんな諦めているというだけのことだ。

 すみずみまで徹底的に効率化した社会を望む人は割と少数派だと思う。FAXを使っていた時代は、それなりに便利でほとんどの人は不満なんて持っていなかったはずだ。しかし、電子メールやwebフォームが活用されるようになると、それまで気づかなかったFAXの不便な点が気になるようになる。自分はFAXを使い続けたくても、取引先がメールを使うのならそれに合わせないと商売にならない。自分は前と同じようにやりたくても、周りが先に進んでしまったら、自分もそれに合わせなければならない。そうしているうちに、社会はどんどん効率化して、遊びがなくなってしまうのだ。

 そもそもなぜ効率化を目指すのだろう? ひとつには、リソースに限りがあるからだ。「ひとつには」というか、これだけが唯一の理由かもしれない。もしリソースが無限にあったら、そもそも効率化する必要なんてない。たとえば人間が不死だとしたら、メールもFAXも使う必要なくて、徒歩で直接言いに行けばいい。相手がアルゼンチンの人なら船を使ってもいい。言葉が通じなかったら何年もかけて勉強しても構わない。しかし現実には時間に限りがある。また、お金にも限りがある。商売をしている人なら、少しでも多くの取引を素早く成立させないと、会社が潰れてしまうかもしれない。

 そして、リソースに限りがあるからこそ、多くの理想は理想のままに留まり、実現されることがない。社会に遊びがあった方がいいという理想は、それなりの人の支持を集められるだろう。しかし、それでは具体的に何をどうすればいいのかとなると、良いアイデアは何も浮かばない。

 リソースがどこかに余っているのなら、それを回せばいい。たとえば商店街に補助金を与えるとかだ。しかしその補助金は誰が出すのだ。国だ。国はどこからお金を集めるのか? 国民から税金として集めるのだ。リソースに余裕があるということは、かなりの金額の税金が国民から搾り取られているということなのだ。そしてそのお金が、自分がほとんど利用することのない日本中の商店街にばらまかれるのだ。そんな状況を受け入れられるだろうか? 多くの人は大反対するだろう。

 また、経済学者なら、そもそも補助金を与えること自体が非効率だというだろう。市場で競争しても勝てないような商店街がいつまでも残存していては、競争が成り立たなくなってしまうし、効率的な経営をしようというインセンティブも失われてしまう。人々の買い物体験をより効率的なものにするためには、心を鬼にして、市場原理にすべて任せるべきなのだ。おそらく彼らはそう考えるはずだ。

 リソースに余裕がない以上、効率化の要求はどこまでもつきまとってくる。遊びがあるというのは、余裕があるということでもある。日本社会はもう豊かではない。少子高齢化が極限まで進み、基幹産業も衰退しつつあり、大学での研究成果の質や量も年々落ち込んでいる。遊びなんて非効率なものを残しておく余裕はない。むしろ、日本は印鑑やFAXやエクセル方眼紙のような非効率極まりない悪習を撤廃していって、効率化を徹底していくべきなのだ。常識的な人ならそう考えるだろう。

 そうした常識に対し、さらに徹底した理想を唱えることもできる。たとえば「定常型社会を目指そう」とか「資本主義を撤廃しよう」とかだ。資本主義社会は誰もが効率化を目指さなければ生き残れない残酷な仕組みだ。だから、この社会の仕組みを変えてしまえば、われわれはもう効率化を迫られることもない。本当の豊かさを問い直し、お金とはちがう価値観を身につける。少々不便であってもみんなで助け合って生きていけばいい。資本主義社会以前の社会ではそうやって生きてきたのだ。今のわれわれにできないはずがない。

 しかしこの徹底した理想論は、徹底しているがゆえに、ますます現実から乖離している。資本主義をやめることについてどうやって社会的合意を得るのか? 合意が得られたとしても、資本主義をやめたらいったいどれだけわれわれの生活水準は下がるのか? そもそも、80億人近い地球人口を養うだけの生産力を維持できるのか? 共産主義みたいな独裁体制の出現を防げる保証はどこにあるのか? 問いはいくらでもつづけることができる。そして理想論には、これらの問いに答えることができない。この理想論には、現実社会の成り立ちに関する知見がほとんど反映されていないからだ。

 理想は大事だ。理想をもたずに盲目的に効率化を目指す人々は社会を壊してしまいかねない。だけど、理想しか見ないのも間違っている。大事なのは、理想を考えながらも、リソースについてもきちんと考えることだ。環境倫理学はこれまで、理想を提案することにばかり終始してきた。それをどう具体化するかは他の人が考えればいい、ということだろう。しかし、そうやって自分のテリトリーに内向してしまったことで、環境倫理学は現実社会から乖離してしまった。今の環境倫理学に欠けているのはリソースについて考える視点、つまり、経済学なのだ。

コメント

 私がセンやヒースやコースの議論を最近まで勉強してきたのは、彼らの議論が、経済学をきちんと踏まえた上での理想論になっていると思ったからだ。もちろん、そのままだと風土論や環境倫理にはうまくつながってこない。自分なりの工夫が必要になってくるのだと思う。

 自分としては理想だけ考えて生きていられたら楽しいだろうなあと思っている。そしてそういうタイプの人は私以外にも少なからずいる。だけど、彼らと話してみると強い違和感を覚える。この人たち、けっきょく、理想を共有できる人たちとつるんで楽しくおしゃべりしたいだけなんじゃないの? そして自分にもそういうところがあることに気づくのだ。

 何も考えずに、理想を信じる人たちの輪に飛び込めたら楽だろうなあ。そうして、「資本主義をぶっ壊せ」とか「政治家どもはインチキばかりだ」とか合唱できたらさぞかし爽快だろう。でも、そうはできない自意識が私の中にはある。だから孤独になってしまうのだ。そして、こんな風に孤独をつづけることは、大事なことであるとも思っている。孤独を恐れるあまり盲目になってしまってはいけない。