【読書ノート】『地球と存在の哲学』序論、第1章

 ベルクはもう読まない! というつもりでいたけれど、やっぱりもうちょっと読まないとなあという気持ちになった。

 風土論によって気候変動みたいな環境問題が解決されるとは全く思わないけれど、風土論のような視点を持たないで環境問題について論じるのはなんか片手落ちのように思えてならない。ベルクは「風物身体」という独自の言い方をしているけれど、ようするに、人間と環境というのは簡単に切り離せるものではないということだ。たとえば、生まれ育った土地の川や森や原っぱのことは、それらが別に生態学的にはどうってことない普通の自然だとしても、その人にとってはかけがえのないものになる。

 環境の価値っていうと、最近は「生態系サービス」とか洒落臭い言葉を使う人が多いのだけど、そういうのは物事を常に打算を通してしか見ることのできない人々の悪い癖だと思う。その人にとって大切な環境とは、それが役に立つかどうかとはまた別の次元で見えてくるものだと思う。ようするに、「環境への愛」ということなのだけど。愛抜きで環境について語るのって、環境に対する接し方として、根本的に間違っているんじゃないかと思うんだ。ということで、私は愛に飢えるとベルクに回帰するのだ。

序論

 わたし(ベルク)は「環境」について語りたいのではない。むしろエクメーネ(風土としての地球)の倫理について語りたいのだ。

 エクメーネとは、人間の居住する、地球上の部分を意味する。エクメーネを所有するのは人間だけだ。エクメーネとしての地球は、私たちを人間たらしめる条件なのである。エクメーネがなければ、私たちは動物と同じだ。

 エクメーネは倫理学の問題だ。なぜなら、私たちがエクメーネに住んでおらず、単に環境に規定されて生きているだけだとしたら、そこには善も悪もないだろう。そうではないからこそ、私たちには倫理があるのだ。

コメント

 「エクメーネ」が連発されて何が何やらわからないけれど、「エクメーネ」は「風土」と言い直していいと思う。最近の本だと、ベルクは「風物身体」という言葉を使い、人間は動物身体と風物身体のハイブリッドだというようなことを言っている。風土(エクメーネ)がないということは、風物身体を失うということであり、したがって、人間は存在できなくなるということになる。

 ただ、ここから倫理の話に辿り着くには少し距離があるように思う。そこはここから少しずつ議論を深めていくのだろう。

第1章 ヒューマニズムからその対局へ

1 近代性の危機

 環境危機を前にすると、近代批判を始める人は多い。ここでいう近代というのは、「近代は世界を分解する」という公式で要約できるようなものだ。ようするに、事物と人間を分断することで、ものごとのバランスを崩すということだ。

 近代西洋と異なる文明においては、事物と人間はこんなにきれいに分断されてない。たとえば中国では「気」が人体内部と環境の事物のなかを同じように循環していると考える。だから、「気」の問題は医学の問題だけでなく、美学や倫理学の問題にもなり得るのだ。

 ヨーロッパでは、環境世界から科学知識が次第に分離してきた。たとえば、18世紀以降は雨天晴天に関することわざがあまり生まれなくなってきた。これは、昔は気候と道徳の問題がそれほど分離されていなかったが、やがて気候が科学だけが扱う問題に変化してしまったからだ。こうして、人間は世界から分離することによって、大きな自由を手に入れたのだ。

2 理性の危機

 環境を重視する人たちは「人間中心主義」という言葉をよく使うけれど、この言葉には2つの意味がある。混同しないように整理しておこう。

 最初の意味は、「自民族中心主義」だ。つまり、自分の文化の色眼鏡で世界を捉えるということだ。

 もうひとつの意味は、人間の普遍性を前提とする、西洋文化特有の発想だ。近代的主体は、こちらの方の人間中心主義から生まれた。

 後者の意味の人間中心主義は、実は宇宙中心主義でもある。何を言ってるかというと、主体と客体が分離しているということだ。人間は人間、環境は環境、それぞれは別物です、両方のあいだを流れてる「気」なんてものはありません、ってことだ。

 たとえばヨーロッパの数学者たちは、自然は数学の言葉で書かれていると考えた。だから、数学理論を極めていけば宇宙に到達できる、というわけだ。これに対し、中国では逆に、常に実践が理論に先んじていた。だから、「そんなのわざわざ証明しなくたってわかるよ」というような数学の問題には彼らは興味を持たなかった。イエズス会の宣教師がヨーロッパの数学を中国の数学者に紹介したとき、「証明が無駄に網羅的で退屈」と呆れてたという。

 実践を介さず、理論だけを通して環境をみる、というのは、ようするに、感受性を排除しているということだ。ということは、そこに倫理の入り込む余地はないのだ。

 だけど、20世紀にはいると数学も物理学もだんだん変わってきた。近代のパラダイムから外れていって、相対論的世界像に到達している。また、哲学の世界でも、フッサールが「地球は動かない」なんて言い出している。これはガリレオの「それでも地球は動いている」のパロディだ。フッサールが言いたかったのは、環境世界には固有の真実があり、その見地は科学の抽象的な見地と同じものではないということだ。

 というわけで、状況は変わりつつある。近代と決別して、倫理の問題をもう少しきちんと考えてみよう。

3 ヒューマニズムの危機

 実は、近代に固有の基盤の再検討を促したのは近代それ自体だ。自然科学は、人間を決定論的に扱うようになった。地理決定論とか、あるいは、社会生物学だ。一方、社会科学は人間の振る舞いを社会的・文化的な条件付けで示そうとしてきた。たとえば60、70年代の構造主義では、「人間の死」という公式が示された。これは、「人間」、つまり広い意味でのヒューマニズムにおける「意識的で責任能力のある個別の人格」とは、近代西洋の文化を特徴づけるモチーフに他ならない、というものだ。

 近代は、世界の脱象徴化を進めながら、新たな象徴装置を生産してもいる。しかしそれは、限られた領域における効率をねらうような象徴でしかなく、世界の全体的な秩序を象徴するようなものではない。たとえば「道路交通法」という装置によって、人々は信号に機械的に反応するようになる。効率的ではあるが、人々の行動は機械的で自覚のないものになってしまう。近代の技術体系はそうやって人々の選択の可能性を奪い、倫理の条件自体をも排除しているのである。

コメント

 近代は人間と環境の分離を推し進めた揚げ句、皮肉なことに、近代が称揚していた「ヒューマニズム」を自ら破壊することになってしまった。そうして、人間は機械のようになり、倫理もまた失われることになった。その流れがコンパクトに解説されている。

 難しい言い方をしているし、思想史的な部分が専門家からみて正しいかどうかはよくわからないのだけど、感覚的には納得いく論旨だと思う。人間と環境が分離して、環境は科学の領域だけで扱われる対象になってしまった。柳田國男折口信夫なんかを読んでいると、昔の日本人にとって、山とか木というのは、神様の住まう場所だったわけだ。だから、生態系サービスがどうたらと言う以前に、山を荒らしたりご神木を切ったりしてはいけなかった。つまり、環境とは自然科学の問題なのではなく、倫理の問題だったのだ。いちいち「生態系サービス」なんて滑稽な言葉を使わないと環境の大切さを示せなくなってしまったのは、環境は人間にとって大切なものなのだという当たり前のことが、もはや当たり前ではなくなってしまったからだ。

 私はこのブログで環境倫理学の悪口をたくさん書いているのだけど、そもそも環境倫理学が無力なのは、今の人々にとって環境はもはや倫理の問題ではないからだ。「生態系サービス」って言葉からもわかるように、環境は人間に対して奉仕(サービス)するものと見なされているのだ。そういう風に見なして環境の価値を見える化していかないと環境を守っていけない、ということもあるんだろうけれど…。でも、なんか根本的なところでずれてないか? という気持ち悪さが拭えない。それで私は何度もベルクを読み返すことになるのだ。