12年前、私は仙台に住んでいた。東日本大震災では、街中に住んでいたので津波被害は受けなかったけれど、しばらく電気もネットもストップしていて、スーパーでも商品はほとんど置いていなかった。信号も街灯も消えていて、夜の街は闇に包まれていた。
3月11日は確か大雪で、次の日は晴れていたと記憶している。機能の停止した街を私は歩いていた。他の人たちも大勢、さまようように歩いていた。大きな橋のところまで来て、川を見下ろした。橋のすぐ下のコンクリートの壁からは、何かの管が破損したのか、排水がゴボゴボと流れ落ちていた。でも、川はいつものように流れていた。空もきれいだった。今日食べるものも無いのに、不思議と心が落ち着いていたのを覚えている。
自然は背景のように、いつも人間のそばにいる。普段は意識されることはない。これを書いている私は今、PCのディスプレイをじっと見ていて空なんて見ていない。だけど、今また大地震が起こったら、私は外を見るだろう。空を見て、川を見に行く。図と地が入れ替わる反転図形みたいに、自然はときどき、背景であることをやめて前面にせり出してくるのだ。
私は人間にとって自然がかけがえのないものだと思っている。人が生きることの背景には常に自然があるのだから、自然がなければ人は生きていけなくなるだろう。生物的に生きていけないということではなくて、この世界において自分の座標軸を見失ってしまうようなことになるのではないか。
自然は必ずしも剥き出しのままで人間の前に現れるのではない。人間の文化のなかに自然は染みこんでいる。たとえば風は、風鈴の音色を通して現れる。雨は屋根に打ちつける水のはじく音と切り離せない。そして昔から人間はそんな自然に美を見出してきた。人間が持つ美意識の多くは自然現象に根付いたものだ。心地よい音楽が持つリズムや間は、雨や風や波の音、鳥たちや虫たちの声を想起させるものだ。
こうした考え方は、地理学者オギュスタン・ベルクの風土論に基づいている。ベルクの言葉に「文化をふたたび自然に」というのがある。自然と文化は別々のものではなく、お互いに絡み合うように影響し合い、切れ目もなくつながっている。こうした自然と文化の絡み合いを、ベルクは「風土」という用語で表現する。
本当の意味での自然破壊とは、単に樹木を伐採したり二酸化炭素を排出したりすることではなく、風土を損なうことなのだ。前回、スーパー堤防の建設に対し「海が見えなくなる」と言って反対する住民のエピソードを紹介した。スーパー堤防をつくることは、風土を破壊することになる。そしてそれは、住民のそれまでの生き方を否定することにもつながる。彼らの多くは幼い頃から、ずっと海を見て生きてきたのだ。海が見えることは、彼らの文化の一部であり、風土の特徴なのだ。だから、海が見えない生活をするということは、彼らにとって耐えがたい。たとえスーパー堤防を建てないことで、津波による死亡リスクが高まるのだとしても。風土を失うことのつらさは、リスク換算できるものではないのだ。
ここで環境倫理が問題となってくる。環境のよしあしをリスクで評価できるのなら、倫理を持ち出す必要はない。それは経済学や医学、そして統計学の問題だ。「自然とはなにか?」「自然のそばで生きるとはどういうことか?」そうした根源的な問いを持たない限り、環境に関してどこに倫理問題が発生するのかがぼやけてしまう。これまでの環境倫理学が無力なのは、根源的な問いを忘却しているからだ。「内在的価値」のような空虚な言葉を弄んでしまうのは、自然をきちんと見ていないからであり、それを裏返せば、文化や身体に対して無関心だからだ。
しかし、風土を視野に入れれば環境倫理学が現実に影響を与えられるようになるわけではない。ベルクはすでに、『地球と存在の哲学―環境倫理を越えて』という、風土論の視点から環境倫理学を批判し再構築しようとする試みを行っている。しかし同書はすでに絶版になっているし、環境保全に関わる文献の中で引用されることもほとんどない。風土論もまた、既存の環境倫理学と同様に無力なのだ。
なぜそうなってしまうのか? それは、多くの人が自然や身体を忘却して生きているからだろう。震災のような特異な現象が起これば、人間は嫌でも自然の荒々しさと鷹揚さ、そして自分の身体のちっぽけさを意識せざるを得ない。しかし、日常において、それらは背景に沈み込んでいる。そして、「リスク」や「コストベネフィット」といった、明示的な指標だけによって環境が扱われてしまう。風鈴が鳴って風が吹いたと知ることができるような生活よりも、森林面積や二酸化炭素濃度の方が、社会問題として重視されやすいのだ。
紹介はしないけれど、私がこれまでやってきた研究のテーマは、人々に風土の価値を想起させるための方法を開発することだ。その上で、リスクやコストベネフィットといった視点も含めて、人々が環境のあり方について広い視点から構想できるような仕組みを作ろうとしてきた。今の時代は、環境の価値やリスクの「見える化」が無反省に称揚されているように思う。私は、そうした傾向に警戒心を持っている。もっと「見えないもの」の価値に目を向けた方が良いのではないかと考えている。「見えないもの」とは風土のことだ。震災が起これば人は嫌でも、自分たちが風土において生きてきたことを想起する。震災がなくても、ときどき想起するべきなのだと思う。そうでなくては、そこに環境倫理など何もないだろう。
コメント
どんどん文学になってきてるな。しかたない。私はもともと文学の人間なのだ。経済学やゲーム理論だって割と無理して勉強したのだ。
ベルクの本がそこそこ人気があったのは1990年代だ。2000年以降も本は出しているけれど、あまり話題にならない。バブル崩壊後、自分たちのアイデンティティを失っていた日本人たちには、風土論のような新しい「日本人論」が求められていたのだろう。ベルクの初期の本では日本の風景は「ポストモダン」という観点から評価されている。そこらへんも懐かしい感じだ。
だけど、そういう時代的な文脈から外れて、もう一度ベルクの言っていることを真剣に受け止めてみるべきだと思う。環境とは何か、という大事な問いを置いてけぼりにして、SDGsみたいな軽薄な言葉が消費されていると思う。なんでもかんでも消費しないで、昔の人が真剣に考えたことをきちんと噛みしめた方がいい。