【読書ノート】『風土学はなぜ何のために』4章

第四章 通態化

 デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言ったとか言わなかったとか。いや、言ったのだ。言わなかったにしても、『方法序説』には確かにそう書いてある。

 彼はこう考えた。目の前に見えるこの現実は、もしかしたらただの幻かもしれない。この机も、ペンも、ミカンの皮も、誰かが私見せている幻なのかもしれない。それを言うならこの体だってそうだ。この手は本当に存在するのか? ただの幻では? 鏡に映るこの私のテカテカした顔。これもまた、幻では? そして、そう考えたとしても一応つじつまは合ってしまう。これが幻でないという絶対的な根拠は見つからない。そんな風に考えていくと、私が現実だと思っていたもののほとんどが幻だと疑えることになる。しかし、どうしても疑えないものがある。それは、こうしていろんなものを疑っている私だ。「思考する私」は確かに存在するのだ。だから、「我思う、ゆえに我あり」なのだ。

 しかしデカルトの言うことを認めると、「私」が存在するためには風土なんて必要ないということになる。場所とか物質とかとは無関係に、私は私だけでぽつんと存在している、というわけだ。

 風土論はこうしたデカルト的な発想に真っ向から異を唱える。われわれは風土から切り離されて存在しているのではない。むしろ、われわれは風土においてのみ、われわれとして存在できるのである。

 たとえば、「物に寄せて思いを陳(の)ぶ」という言葉があるけれど、日本人は俳句で、風景を通して自分たちの思いを表現してきた。デカルトみたいに「私が」「私が」と主張するのではなく、環境全体、日本の風土全体に日本人の主体性は浸みこんでいる。逆に、日本という風土の風土性が、あらゆる日本人に浸みこんでいる。こうした、「私」と「風土」のあいだが切り離されず、お互いに浸透し合っていることを指して、わたしは「通態」という言葉を作ったのだ。

コメント

 前回出てきた「風土性」という概念によると、人間はこの生物的な身体(動物的身体)だけでなく、風土的身体も併せ持つ、ハイブリッドな存在だ。だとすれば、「私」という存在はこの動物的身体でもあるし、動物的身体の外側に広がる風土的身体でもある。つまり、「私」という存在はデカルトの考えるみたいにポツンと独立して存在しているわけではなくて、風土と相互浸透しながら存在しているのだということになる。ベルクが「通態」という言葉で言おうとしているのはそういうことだと思う。

 風土論は分散認知の議論と似てるなあ、と前回書いたけれど、分散認知はあくまで思考に関する話だ。つまり、生物は脳だけで考えているのではなくて、道具を使ったり、空間の中で身体を動かしたりすることを通して思考する、というような話だ(たとえば、紙とペンという道具を使うことで、脳のリソースを越えた量の計算をすることができるようになるとか)。だけど、ベルクが「通態」という言葉で言おうとしているのは「思考」というよりも「存在」に関する議論だ。つまり、「私」という存在はこの動物的身体を越えて、風土全体に浸みこんでいる、ということだ。

 たぶん、分散認知の研究者たちはそこまでは言ってないと思う。たとえば「あなたは紙とペンを使って思考しているわけだから、この紙とペンはあなたという存在そのものですね?」なんてことは言わないだろう1。だけど、ベルクはこの風土そのものが「風土的身体」という意味で「私」なのだという。だからこそ、風土を守るということはそこに住む人々のあり方を守るということにもなるし、したがって、風土は守られなければならないという倫理的主張にもつながってくる(ベルクは『地球と存在の哲学』の中で、西洋の環境倫理学を批判しながら風土と倫理の関係を考察している)。

 しかしここらへんになってくると、「もうついていけない」という人も結構出てくると思う。分散認知は科学的に実証できることだ。実験で確かめることもできるだろうし、分散認知の発想に基づいたロボットを作ることもできる。だけど、風土論は存在論、つまり哲学であって、実証可能な主張ではない。「私とは、この意識なのか? それとも風土性の中に私はあるのか?」と問うたって、そもそも何がどうなったらこれらの仮説を反証できるのかが明確でない以上、実証科学の問題にはなり得ない。

 で、風土論をベースにして環境倫理を構築することの困難もこの辺りにある。どの存在論が正しいかは決着の付けようがない。だから、風土論が存在論である以上、それを「正しい」と思う人もいれば、「くだらねー」と思う人もいるということだ。「くだらねー」と思う人からすれば、風土論をベースにした環境倫理を示されても、受け入れようとはとても思えないだろう。「結局それはあんたの趣味の問題でしょ?」の一言で終わりだ。存在論って、一般社会ではただの趣味でしかないのだ。


  1. と書いたけれど、後から考えると、そうでもないのかもなあと思い直している。『現れる存在』のp340-341のあたりでは、筆者は「環境に何らかの危害を加えることは、普通は人物に危害を加えることを連想する、道徳上の重大性があるかもしれないという主張」に納得すると述べている。「ある神経科学的機能不全のエージェントが、いつも持ち歩いているノートにひどく頼っていて、日常いろいろな場合にノートの内容に従っているというケースである。この場合、悪ふざけでノートを破ることには、特に憂慮すべき道徳的側面がある。つまり、これはまさにその人物に危害を加えているのだ。それも、思いつく限りの文字どおりの意味で」。ただ、風土論とちがって分散認知の方が拡張される「私」の範囲がある程度明確だとは思う。つまり、その人が使ってるノートとかだ。これに対して、風土論はどこまで「私」が拡張されるのかがかなり曖昧だ。たとえば、その人の住んでいる町のどこまでが「私」なのだろうか? 隣町は「私」に含まれるのだろうか? この曖昧さのために、「風土的身体」という言い方を比喩以上の意味で用いるのにはちょっと抵抗感を覚えてしまう。