【研究ノート】風土論の使い道

 前回もちょろっと風土論の使い道について書いてみたけれど、もうちょいと考えてみたい。

使い道1:地域づくり

 地域づくり系の文献を読んでいると、地域づくりをするにはまず地域のことを知ることだ、と言う話がよく出てくる。それで、住民たちで町歩きをしたり、それで発見したことを大きな付箋に書いてホワイトボードにはっつけてく、みたいなことをやるわけだ。風土論の観点から環境倫理について論じる以下の本でも、町歩きは風土性を自覚するための取り組みだみたいな風に解釈している。

 個人的にはあまりこういう使い道に魅力を感じていない。だって、この程度のことだったらわざわざ風土論なんか持ち出す必要はないから。ビジネスの世界でも、新商品を開発したり新しい工場を建設したりするときは、まずは現場に足を運ぶものだろう。現状を変革するには、まずは現状について当事者間で理解を共有しておくべきだ、というのはどんなことにも言えることであって、風土論の視点はまったく必要ないと思う。

使い道2:環境倫理

 さっきの本の趣旨は、風土論をベースにして環境倫理を構築していこうというものだ。ちょっとややこしい議論なので、わたしもあちこち忘れてるから、いろいろ引用しながら検討していくことにする。

 まず、著者の問題意識として、近代社会において自然と人間の関わりが失われているということがある。

以上の問題は総括的に言えば、環境問題の根底的課題は近代的な都市型ライフスタイルが喪失した自然と人間との直接的で全体的な関わりの回復であり、それを可能にする生活的自然の回復であり、人間の自然性・身体性の回復である。 p124

 だから、風土という、自然と人間社会を一体的に捉える視点から環境倫理を捉え直さなければならない、ということだ。

 まあ、この時点でかなりツッコミどころはある。たとえば気候変動やエネルギー問題みたいな最重要レベルの環境問題は、どう考えても風土の問題とはリンクしてこない。筆者によると、気候変動みたいなグローバルな問題に焦点を当ててしまうと、「環境問題のグローバル化が自然のエレメンタール化をもたらすという陥穽にはまる」(p122)のだそうだ。「エレメンタール化」ってなんのこっちゃって感じだけど、「要素還元主義」みたいなことらしい。つまり、二酸化炭素排出量の基準さえ守っていればいいんだろ、みたいな形式的な発想にはまってしまうのがよくないのだということだ。正直なところ、哲学に多少好意的なわたしから見ても、これは無理筋なイチャモンだろうとしか思えない(要素還元しないで、どうやって気候変動に対処しろってんだよ)1。筆者の考えによる環境問題の優先順位はかなりずれてるし、その優先順位づけの根拠もだいぶ疑わしいものだ。

 とはいえ、こうした議論を気候変動みたいなグローバルな問題には適用せず、ローカルな環境問題だけに適用するのであれば、筆者の主張にはある程度同意できる。風土論にもとづく環境倫理をグローバルな問題に適用するとトンチンカンになってしまうのだけど、そこのところだけ気をつけていれば、まともな議論はできると思う。

 もうひとつ引用。

環境倫理の課題の一つは、人間による自然改変を前提とする対自然関係の規範的原理の構築(発見)にあるが、その点では既成風土の単純維持や風土の中の自然の不可侵性を原理とすることにはなりえない(…)問題は風土の枠組み(土地の一体性・個性)を維持しながら、その内実、とくに自然の改変のあり方をどう規範的に限界づけるか、である。 p148

 言い方が難しいのだけど、言ってることはようするにこういうことだ。自然を不可侵のものとして神聖視してしまうような環境倫理はクソだ。風土論の視点からいえば、そもそも不可侵の自然などありえず、風土というのは歴史とともに変わっていくのだから。だけど、だからといって風土の変化を何もかも認めてしまっては風土が壊れてしまう。だから、風土の変化を限界づけるような倫理が必要だ。

 では、風土はどうあれば良いのか? それは、客観的には決められない。というのは、そもそも風土は客観的なものではなく、住民がなんとなく感じているものだからだ。

風土全体の記述は本質的に不可能であり、人々にはただ多様に直感・体感されるだけであり、そこから環境倫理を体系的に基礎づけるのは無理である。可能なのは、人々の多様な風土の理想像の内に暗黙の内に含まれる共有可能な内実の明確化であり、それぬきには風土そのものが解体し、人々の多様な理想像自体が存立しえない風土の構造的骨格を析出し、そこから共通の最小限規則を基礎づけることである。 p154

 基本、地域任せにせざるを得ないところがある。風土は住民にしかわからないからだ。だから、どんな地域にも通用する普遍的な環境倫理をつくることはできない。それでも、どんな地域も通用する最小限の規則は示すことができる。

 で、それがどんな規則なのかというと、p154-157にだらだら書かれているのだけど、正直あんまり頭に入ってこない。

  • 風土的環境倫理の規範(1)――風土の公理と風土的自然の原理
    • Ⅰ:地域の自然との関係において風土が確保されていなければならない。(風土の公理)
      • Ⅰー1:地域の自然において生活的自然としての性格と質が確保されていなければならない。
      • Ⅰー2:地域社会・人々の自然との関わりにおける共同性・共同関係が確保されていなければならない。
      • Ⅰー3:地域の自然と人々との関係において、一体性と身体的関わりが確保されていなければならない。
    • Ⅱ:地域の自然において風土の中の自然という性格と質が確保されねばならない。(風土的自然の原理)
      • (この中に小項目が9つもあるのだけど、ダルいから省略)
  • 風土的環境倫理の規範(2)――風土性の原則
    • Ⅲ:風土性原則:風土性(風土のおもむき)は、風土の歴史的・生態系的傾向を逸脱・乖離してはならない。
      • Ⅲ-1:風土性は風土の歴史的・生態的傾向から一義的に導出されてはならない。
      • Ⅲ-2:風土性は地域住民共有の風土感覚・意識を指標として、その都度確認されなければならない。
      • Ⅲ-3:風土性の確認において、風土の歴史的・生態的傾向の共通理解の前提を欠いてはならない。

 さて、これが風土論に基づく環境倫理の概要なのだけど、改めて見てみると、うーんという感じだ。最小限の規則って言ってるけど、かなり厳しすぎないだろうか? たとえば「地域社会・人々の自然との関わりにおける共同性・共同関係が確保されていなければならない」ってあるけど、そんなの個人の自由では? という気もする。

 たとえば、昔だったら農業の生産性が低くて、農作業は村の人々が総出で行っていた。この場合、自然との関わりにおいて共同関係が確保されているといって良いだろう。でも、やがて社会が近代化していくとサラリーマン世帯も出てくるし、農業も機械化が進んで少人数でも作業をこなせるようになってくる。この場合、明らかにこの最小限の規則から外れることになるけれど、それもダメだということだろうか? どんなに社会が近代化してもみんな農家を続けて、手で田植えをしたり刈り取りしたりしなければならないということだろうか。それは、人々に貧困を強要するということだ。そうした倫理が正当化されるとは思えないし、そもそも、人々に受け入れられないだろう。

 あるいは、「ちょっとでもいいから自然との関わりにおいて共同関係が確保されてればいいんだ」と解釈することもできる。でもそれだと、そもそも倫理としてほとんどインパクトが無くなってしまうと思う。つまり、こうした最小限の原則を文字通りに理解するとあまりに厳しすぎるものになってしまうし、ゆるめに理解すると倫理としてほとんど無意味なものになってしまうということだ。前者であればそれを倫理として人々に受け入れてもらうのが困難になるし、後者であれば倫理として無意味になってしまうのだ。

 どうするべきかを決めるのはあくまで住民なのだから、最小限の規則にそこまでこだわる必要はない、という解釈もできる。だけど、だとしたらそれはもう倫理でもなんでもないのではないか。「地域が決めたことなのだから、地域に従おうではないか」というのでは何でもありになってしまう。p160あたりに、風土の担い手は地域住民だけではない、みたいなことも書いてあるけど、それでも住民は「風土的主体のコア」だとされている。「住民の意見を尊重すべき」という倫理なのかな? でもそれだけのことなら、別に風土論を持ち出さなくても良いのでは? 自己決定権を尊重すべきだということは多くの倫理において共有されている発想だろう。

 という風に検討すると、風土論に基づく環境倫理というのはどうもうまくいかないのではないかな、と思えてくる。一番の問題は、従来の環境倫理と同じで、それを人々がなぜ受け入れるのかという動機がまったく検討されていないことだ。ヒースは市場の失敗アプローチというのに基づいて独自の環境倫理を構築しているけれど、そこでは「パレート原理」という、誰からも文句が出ないであろう原則をベースとしていた。人々がどうしてその倫理を受け入れるのかという動機に踏み込まない限り、どんな緻密な論理で環境倫理をこしらえても無意味なのではないだろうか。

odmy.hatenablog.com

使い道3:環境教育

 「使い道2」が長くなってしまったけど、今回の趣旨は、風土論の使い道を考えようというものだった。

 今のところ、環境教育ならそれなりに使い道があるのではないかと思っている。つまり、「環境保全において、風土という視点もあるんだよ」ということを教えるということだ。

 今の環境教育がどうなってるのか詳しくは知らないけど、ちょっと論文を検索してみると、少なくとも2014年時点の日本の環境教育研究では、環境に関して文化や社会的側面に焦点を当てたものが非常に少ないのだそうだ。逆に、「生物物理学的」カテゴリーの中の「自然系」に関連する論文が非常に多い。ようするに、自然科学的な側面に焦点を当てた論文が多いということなんじゃないかなと思う(ちゃんと読んでない)。

www.jstage.jst.go.jp

 環境保全に風土という側面もあるんだよ、と教えることは、別に「風土という視点に従って環境保全に取り組むべきだ」という環境倫理を教え込むことではない。あくまで、「そういう視点もある」というのを教えるということであって、選択肢の幅を広げるということだ。たぶん、これくらいが風土論にできるぎりぎりのラインだろう。これ以上踏み出してしまうと、多くの人に合意できない倫理を押しつけようとして無視される、みたいなことにしかならないと思う。

 風土という視点に気づかせるための環境教育手法を考案するという研究もできるだろうし、あるいは、そもそも風土という視点を人々は持っているのだろうかという現状を明らかにする研究があってもいい。

 風土という視点に気づいた上で、風土を破壊することを選択するという人もいるだろう。それはそれで仕方の無いことだ。「風土を守るべき」という議論がある程度説得力を持つのは、豊かな先進国だけだと思う。先進国だって、戦争で食料の輸入が途絶えがちになったら、自国の風土を破壊してでも、まっすぐに規格化された田んぼや畑を拡大する選択をするかもしれない。でも、多少余裕のある時期であれば、風土に配慮することもできるかもしれない。そういう時の選択肢のひとつとして風土という視点を教育しておくことは、それなりに意味のあることだと思う。

 もう少し風土論に寄せていうなら、それは、自身の風物身体のあり方に気づかせる教育ということでもある。それにどういう意義があるのか? つまり、人々のケイパビリティを拡大するということだ。自身の風物身体のあり方に気づくからこそ、自分がどういうふうに生きていくかを決めることができる。薪ストーブのある家で暮らす未来を描く人もいるだろうし、風物身体に気づいているにも関わらず、空調の効いたタワーマンションから都会を見下ろす未来にうっとりする人もいるだろう。どっちもありだ。ともかく、自分の選択肢を広げられるということが重要なのだ。


  1. ついでにいうと、ここらへんが哲学者の悪い癖なんだと思う。哲学者は基本的に逆張りで議論を進めようとする。ソクラテスも、「無知の知」なんて逆説的なことを言ってたわけだし、逆張りは哲学の伝統なのだろう。だからこそ哲学は驚くような世界観を見せてくれるわけだけど、それをそのまま現実に適用しようとすると、「逆張り」はただの「世間知らず」になりがちだ。わたしもやらかしがちなので気をつけないと。