問い:長期にわたって持続的で自律的な共的資源管理を可能にする社会規範は、どうして維持されてきたのか?
入会地とか里山とか、なんだか素晴らしいもののように語る人たちのことがちょっと苦手だ。「協働」とか「絆」って言葉も、目の前に突きつけられるとちょっとビビる。
吉本隆明が「人間は本当はひとりで生きたいのだが、仕方なく社会をつくった」みたいなことを言っている。たしか『中学生のための社会科』という本の中に書いてあったと思う。 吉本さんがそういうことを言うのは、「孤独」というものが人間の核にあるのだという人間観を持っているからだろう。吉本さんに影響を受けている糸井重里は「ひとりでいるときの顔が想像できない奴のことは信用できない」と言っているけれど、同じような意味だろう。私はこのふたりにだいぶ影響を受けている。
なんでオストロムを放置してこんなことをダラダラ書いているかというと、オストロムの「みんなが自発的に協力し合えばコモンズの悲劇なんて回避できる」という考え方になんだか居心地の悪いものを感じているからだ。私がこのブログで散々悪口を書いている『人新世の資本論』の「コモン」という考え方にも近寄りがたいものを感じる。
この手の議論は突き詰めれば「ソーシャルキャピタル」というところに行き着くのではないだろうか。だけど、冷静なソーシャルキャピタル論者なら必ず指摘してくれることだけど、ソーシャルキャピタルって、負の側面も持っているものなのだよ。
たとえば昔の日本の農村は人々が貧しいながらも助け合っていたので、ソーシャルキャピタルは非常に豊かだったと言えるだろう。でも、よそ者に対しては冷たかったし、村の掟を破った者への寛容さだって皆無だった。ようするに、仲間内ではソーシャルキャピタルは人々を協力に導くけれど、その範囲を越えるとむしろ人々を疎遠にしてしまったり、場合によっては対立を招いたりすることもあるということだ。
このことについて、そういえばヒースも同じようなことを書いてたな。
ハーディンの議論はよく誤解される。そうした誤解は、インフォーマルなコモンズではコモンズの悲劇は発生しないという、ハーディンに対する批判にみられるものだ。エリノア・オストロムによれば、単にコモンズが存在する(つまり私有財産権がない)というだけでは、必ずしも悲劇を生み出さない。もし、その集団がインフォーマルな規範や道徳的な制約など、その他の制度的な取り決めによってフリーライドを防ぐことが可能であれば、それは問題を解決するための完全に合理的な方法となる。
しかし、そうしたインフォーマルなコモンズで成り立つことは、一般的に言って拡張性に欠ける。 つまり、人々が互いによく見知っていて、信頼し合っている小規模な定住型コミュニティではうまく機能したとしても、関係者の数が多くなるにつれて維持が難しくなる。見知らぬ人々の間ともなれば実質的に維持が不可能になるだろう。
まあ、そういうことなんだろうな。だから、オストロムの提案する理論やモデルはしょせんは小規模なコミュニティでしか通用しないものだよ、ということになるだろう。そして、そうした小規模なコミュニティが衰退し、グローバルな資源管理や環境汚染の方が問題となっている現在では、むしろオストロムが批判するような教科書通りのゲーム理論のモデルの方が現実をうまく説明してくれるのではないだろうか。今の気候変動なんてもろに囚人のジレンマだし。
さて本題。オストロムは「長期にわたって持続的で自律的な共的資源管理を可能にする社会規範」の維持についてどんなことを書いているだろう?
オストロムは3章の最後に、そうした資源管理を可能にする制度の設計原理として次の8つを挙げている。
- 明確な境界
- 地域的な条件と調和したルール
- 集合的選択への参画
- 監視
- 段階的な制裁
- 紛争解決メカニズム
- 組織化における最低限の権利の承認(外部の政府権力が制度づくりに介入しないということ)
- 入れ子状の組織(より規模の大きな共的資源の場合)
明確な境界がないと、よそからどんどん人が入ってきて資源が取られてしまう。すると早い者勝ちになってしまって、資源管理なんか成り立たなくなるのだ。だから明確な境界は絶対に必要だ。
また、ルールは地域的な条件と調和していないとならない。一律なルールを押しつけてはダメということだ。そして、その地域と調和するルールをつくるためには、ルールの影響を受ける人たち自身がルール作りに参加できないとならない。
ところで、こうしたルールに人々はなぜ従うのだろう? 狭い社会だから、周囲に対する自分の評判が傷つくのを恐れてルールに従うというのはあるだろう。だけど、それだけではない。監視と制裁活動も必要だし、実際、人々はそうしたことにずいぶん労力をかけている。
この問題についてもちゃんとオストロムは論じている。それは、ルールがうまいこと作られていて、監視の費用が少なかったり、あるいは監視すること自体が監視者に便益をもたらしたりするからだ。
たとえば、灌漑の輪番制だ。この場合、利用者は利用時間が決まっていて、順番に取水する。先にAさんが使っていて、次の順番のBさんが自分の番を待っているとしよう。このとき、ふたりは図らずも相互監視をしていることになる。なぜなら、Aさんがまだ取水している以上、Bさんはずるして取水時間を早めにして取水量を多くすることはできない。また、Bさんが待っているわけだから、Aさんもまた取水時間をだらだら引き延ばして取水量を増やすことはできない。ふたりは別に正義感から相手を監視しているわけではないが、結果的に、相互監視をしていることになるのである。つまり、監視費用が少ないということだ。
また、監視者は違反者を見つけると報酬が与えられることがある。監視により便益がもたらされるということだ。日本の村の例でも、監視者は違反者から酒をせしめることができる。
違反者に対する制裁は段階的なものになる。つまり、あっけないほど軽いものである場合もあれば、かなり重い場合もある。これは人々がルールに従おうとする気持ちに配慮したものだ。たとえば、何度もルール違反を繰り返す人に対してはそれなりの厳しい制裁が必要だ。そうでないと、他の人からしたら「あれだけ違反してるのにあんなに緩い制裁しか与えないんだったら、こんなルール守るだけ無駄だな」と思われてしまうからだ。だから、見せしめとしての厳しい制裁が必要になってくる。その一方で、たまたま違反してしまったような不運な人に厳しい制裁を加えたら、その人は腹を立ててもう二度とルールに従おうと思わなくなるかもしれない。制裁はケースバイケースでなくてはならないのだ。
これに関連して、紛争解決メカニズムの存在も重要だ。これは、ルールの解釈をめぐる紛争解決という意味だ。悪意のないルール違反まで厳しく追及するようでは、そのルールは不公正だと思われ、誰も従わなくなる。だから、みんなが納得するようなルールの解釈をするために、紛争解決メカニズムが必要になってくるのだ。
あと、こうしたルールづくりに外から政府が口出ししないようにしないとならない。さもないと、政府の力を借りて自分たちのルールをひっくりかえそうとする輩が出てくるからだ。
最後の入れ子状の組織というのは省略。資源管理が複雑なときはこうなるというだけのこと。本質的なのは1~7の原理だ。オストロムの3章での議論はこれで終わり。
こうしてまとめてみると、思ってたよりも「絆」みたいな話が出てこなくて、個人的にしっくりくる議論だな。よく知りもせずに悪口書いてすみません。オストロムはゲーム理論の既存の研究を批判しているけれど、その割に、ゲーム理論にちゃんと回収することもできそうな議論になってる。今回の議論で各プレーヤーは利他的であるとか身内に優しいとかの仮定はぜんぜんされてないのだ。
その一方で、ヒースの言うとおり、これをもっと大きなコミュニティの問題にまで拡大するのは難しそうだ。たとえば日本の憲法や法律をぜんぶチャラにして、相互監視と段階的制裁だけでやっていこう、という風にしたら、日本はヤクザか新興宗教に乗っ取られることになるだろう。
あるいは、単なる規模の問題だけでなく、その社会の近代化の度合いも関係してきそうだ。日本の部活動で相互監視と段階的制裁だけでやっていったら、すごく強くて一体感のあるチームができそうな気もするけれど、体罰とハラスメントの横行するブラック部活になりそうな気もする。近代的な部活動なら、体罰やハラスメントがあれば相談窓口に行けばいいということになる。しかし原理7が満たされている場合、ルールづくりに外部は口出しできないのだ。
こう考えると、よくできた議論だなあと思う一方で、なんだかオストロムの見ている世界がとても懐古趣味的なものにも見えてくる。それとも、ここらへんの難点は第4章の制度変化のところで扱われるのだろうか?
そこで次の問い。
次回の問い:オストロムの議論はただの懐古趣味なの?