【読書ノート】Morality Competition and the Firm 第5章

第5章 Buisiness Ethics and the "End of History" in Corporate Law

なぜ株主は優先されるべきなのか?

企業の所有権は株主のものだと言われることは多い。でも、それはなぜなのだろう?

このことについて、ヘンリー・ハンズマンは次のように論じている。

  • 企業の所有権は、所有権をもっとも低いコストで行使できるグループが持つのが自然だ
  • グループメンバーが同質的だとそうしたコストが低く抑えられる
  • 企業のステークホルダーの中でもっとも同質的なのは資金の貸し手(つまり株主)だ

本章では、ハンズマンの主張がビジネス倫理学にとってどういう風に役に立つかを考えてみたい。

道徳を持ち出してもうまく説明できない

ハンズマンが株主を最優先すべきだと主張するときのロジックは普通のやり方とはちがう。普通ならリバタリアニズムを矮小化したようなやり方で株主の権利に訴えるところだ。これに対しハンズマン社会福祉の視点からロジックを組み立てている。つまり、株主を最優先するのが「社会にとってベストだ」というのだ。

なぜ株主の利益を特別視しなければならないのだろう? 素朴に考えれば、それは株主が会社の所有者だからということになる。だけどこの考え方には問題がある。なぜなら、これは所有権を一枚岩のもの見なす考え方だからだ。所有権というのはむしろ権利の束であり、簡単にばらばらにほどけてしまうものだと考えた方がいい。たとえば、株主だからといって勝手にその会社に足を踏み入れてはいけないし、その会社の設備を勝手に使ってはいけない。だから、株主に所有権があるからといって、それを根拠に株主の利益が優先されるべきだということにはならないのである。

所有権以外にも、株主の利益を優先すべき根拠はいろいろ挙げられる。たとえば、「株主が持っているのは残余請求権に過ぎずお金が戻ってくるとは限らないから」、「株主はリスクにさらされている度合いが他のステークホルダーより強いから」、あるいは、医者と患者の関係のアナロジーで考えて「患者(株主)は医者(企業)に対して弱い立場にいるからだ」という主張もある。これらは何らかの道徳的な理由を持ち出して株主利益を擁護しようとしている点において、所有権に訴える論法と変わらない。

こうした道徳的な理由を持ち出す議論の仕方の問題は、株主とその他のステークホルダーがどう違うのかをきちんと示していない点にある。たとえば「立場が弱いから」という主張をするのなら、他のステークホルダーにだって同じ事が言えるだろう。従業員は全生活をその企業に依存しているが、株主はそうではない。その企業の経営の仕方が気にいらなかったらさっさと株を売って他の企業に乗り換えればいいだけだ。

このように、道徳的な理由を持ち出してもなぜ株主を優先すべきなのかうまく説明できないのだ。

契約を持ち出してもうまく説明できない

そこで、企業と株主のあいだの契約に着目する理論が登場してきた。つまり、株主は経営者を雇用し、株主利益を最大化させる義務を負わせる契約を結んでいる、というのである。

でも、会社の定款に株主利益の最大化を定めていない企業はいくらでもある。そしてそれにも関わらず、株主はそうした企業に投資しているのである。それに、そもそも権利というのは契約当事者間で確定されたものではなく、新しい法律や判例によって事後的に変更されるものだ。だからたとえ企業と株主のあいだに契約があるのだとしても、それで他のステークホルダーの利益が無視されて良いということにはならない。

このように、株主の利益が優先されるべき理由は道徳によるものでもないし、契約によるものでもない。それでは、なぜ株主の利益が優先されるべきなのか? 

それは、その方が企業がうまく機能するからだ。つまり、経営に問題が起きたときに経営者を追及する役割を担う存在として、株主は他のステークホルダーよりもうまくやれるのだ。

株主が企業の所有者であるのが一番安上がり

ハンズマンによれば、企業と協同組合は基本的には同じものだ。たとえば、酪農の協同組合の場合、協同組合の所有者は酪農家たちだ。酪農家たちは市場価格よりも安い水準で協同組合に牛乳を売り、(協同組合が牛乳を売って得たお金を)年度終わりに分配される。一般企業も同じだ。株主は企業に、市場よりも安いコスト(つまり利子率ゼロ)で資金を提供する。そして、企業が収益を出せば、株主はその分け前を受け取るのだ。

このように残余請求権1をもつ株主はリスクを引き受けることになる。なぜなら、投資したお金がちゃんと返ってくるかどうかは企業が収益を出せるかどうか次第だからだ(銀行がお金を貸す場合なら、その企業が潰れないかぎり貸したお金は必ず返ってくる)。だから、そうしたリスクを伴う役割を担うことは、企業をコントロールする公式の権限を与えられなければ、誰も引き受けないだろう。

ハンズマンによれば、この「企業をコントロールする公式の権限」と「残余請求権」こそが、企業の所有権を形作るのだという。これらが割に合うと思えば投資家は株を購入して所有権を得るだろう。逆に、割に合わないと思えば株を売り払って所有権を放棄するだろう。

こういう例を考えよう。ある賃貸のアパートを分譲マンションにするかどうかという状況だ。じつは分譲マンションも顧客たちによる一種の協同組合だ。彼らは共同でマンションの所有権を手にしているのだ。

マンションの所有権を手にするよりも、アパートで部屋を借りているだけの方が不利な点はいろいろある。でもその一方で、その建物の資産価値がこれからどうなるか、みたいなことは心配しないでいいのだから気楽な身分だともいえる。そういう意味で、所有権を持つというのはリスクを持つということなのだ。

だから、アパートを借りるかマンションを買うかで悩んでいる人は、賃貸契約の固定されたコストと、所有権を持つことのコストを比較しているのだ。企業の場合も同じことがいえる。銀行のようにお金を貸すのか、それとも株主としてお金を投資するのかで悩んでいる人は、所有権を持つことのコストについて悩んでいるのだ。

ここでハンズマンが強調するのは、集合的な意思決定をするためのコストだ。酪農の協同組合でいえば、酪農家だけじゃなくて鶏卵業者やら畜産家やらを入れたりしたら利害関係が一致しなくなって集合的な意思決定のコストが高くなる。企業も同じだ。集合的な意思決定をするためのコストが高くなったら、所有権を得ることのメリットが相殺されてしまうだろう。だから、所有権を持つグループは同質的でなければならないのだ。

株主は他のステークホルダーに比べたらずっと同質的だ(これに対して、たとえば従業員は職階があるため異質的だ)。そして、誰がどれだけ報いられるべきかというのも株主の場合の方が決めやすい。そういうわけで、株主が企業の所有者であるのが、一番コストのかからないやり方であり、社会的厚生を最大化するやり方なのである。

企業の所有権は民主的とかどうとかという問題ではなくて

利益最大化は非道徳的なものだと思われやすい。でも、協同組合だったら、組合員の利益最大化を目指すことが非道徳的だなんて誰も言わないだろうし、組合員以外の利益を考えようなんてことも誰も言わない。企業もそれと同じなのだ。

株主が他のステークホルダーと比べて特別な点は何も無い。単に、株主が企業の所有者である方が何かと効率的であるというだけのことだ。

Ronald Dahlは、企業は民主的に運営されるべきであり、従業員が企業を民主的にコントロールするべきだと主張する。でも、だったら従業員が株を買えば良いだけの話だ。従業員は企業の所有権を購入するのが割に合わないと考えているからこそ、株主ではなく従業員でいるのだ。逆に、従業員に「だけ」権利を与えるべき理由は何もない。Dahlは単に、特殊な形態の所有権について論じているだけなのである。

労働者だけでなく、権利をあらゆるステークホルダーに広げることで「もっと民主的に」しようという主張もある。だけど、それはハンズマンが指摘するように、異質な関係者が入ってくることによる調整コストの問題にぶち当たる。

集合的な所有権というのはコストのかかるものである。だから、もっともコストのかからない所有者が選ばれれば、すべてのステークホルダーにとってありがたいことなのだ。従業員が企業の所有者になろうとしないのは、分譲マンションを買うよりもアパートを借りる方を選ぶのと同じ事なのだ。

株主が企業の所有者でもカルドア=ヒックス基準で効率的とは限らない

でも、ハンズマンが明らかにしているのはあくまで「株主が企業の所有者であれば所有のコストを最小化できる」ということだ。「株主が企業の所有者である方がステークホルダー全員にとってのコストが最小化できる」とまでは言ってない。

このことを考えるために、こういう状況を考えよう。企業をオークションに出して、もっとも高値を提示した主体が企業を購入できるという状況だ。従業員や株主などさまざまなステークホルダーたちは、いったいどれくらいこのオークションに乗り気だろう?

企業がどれくらいの価値を持つか、そして他のステークホルダーとの契約にどれくらいのコストがかかるかは、誰が企業の所有者であるかによって変わってくる。だから、誰が企業の所有者であるかというシナリオを分けた上で、それぞれのステークホルダーが企業の所有者になりたがるかどうかを考えないとならない。こういう状況を整理したのが次の表だ。それぞれの数値は利得の大きさだと考えてほしい。

従業員の利得 サプライヤーの利得 株主の利得 顧客の利得
株主が所有者 1 3 5 2
従業員が所有者 3 1 2 2

このとき従業員の利得は、株主が所有者であるときの利得(1)よりも、従業員が所有者であるときの利得(3)の方が、3-1=2だけ多い。一方、株主の方は、従業員が所有者であるときの利得(2)よりも、株主が所有者であるときの利益(5)の方が、5-2=3だけ多い。だから、3>2なので、株主の方がオークションでより高い金額を提示し、企業の所有権を手に入れるだろう。この結果はパレート基準では効率的でないが、カルドア=ヒックス基準では効率的であるといえる。おそらく、ハンズマンが考えていたのはこういう状況だ。

それでは、下の表のような状況だとどうだろう? このとき、従業員が所有者であれば、サプライヤーと労働者の双方がより大きな利得が得られる。

従業員の利得 サプライヤーの利得 株主の利得 顧客の利得
株主が所有者 1 2 5 2
従業員が所有者 3 4 2 2
サプライヤーが所有者 1 4 2 2

従業員が所有者なら、従業員の利得(4)とサプライヤーの利得(4)を足したら8だ。これは、株主が所有者のとき株主が得る利得(5)よりも、8-5=3だけ大きい。しかし、だからといって従業員が所有者になるとは限らない。なぜなら、従業員とサプライヤーが提携するとは限らないからだ(4+4=8という風に足し合わせて考えてよいかどうかはわからないということ)2

だから、ハンズマンの「株主が企業の所有者である方がすべてのステークホルダーにとってのコストが最小化できる」という主張はこの場合成り立たないのだ。従業員とサプライヤーが提携した方がコストを低くできるとしても、彼らが結託する理由がない以上、結局のところ株主が企業の所有者になってしまうのだ。ようするに、カルドア=ヒックス基準での効率性が必ず成り立つとは限らないということだ。

ハンズマンはおそらく、こういうとき従業員とサプライヤーが提携できると前提していたのだろう。でもそれなら、オークションは競争ゲームではなく、協力ゲームでなければならない。つまり、従業員とサプライヤーが提携できるゲームだ。しかし提携には取引コストがかかる。そのため、所有権を持つことのコストはますます高くなってしまうのだ。

だから、利得がもっとも高くなる主体の手に所有権が渡るとしても、それによって他のグループにとっても市場での契約に関わるコストが最小化されるとは言えないのだ。

他のステークホルダーを無視していいわけではない

とはいえ、ハンズマンの議論を注意深く扱うなら、ビジネス倫理学にとって役立つ知見を引き出すことは可能だ。

逆に、ハンズマンの議論を表層的に理解する人は、「経営者は株主のことだけ気にしていればいいのであって、それ以外のステークホルダーのことは無視していいのだ」なんて言い出すかもしれない。こういうのを私は「やつらには契約でも食わせておけ!」式の議論と呼んでいる3

株主や従業員やサプライヤーたちは、それぞれが何かを企業に提供している。だから、企業の資産から得られるリターンは守られるのが当然だと考える。リターンを守るために、株主は企業に対する支配権を行使する。これに対し、従業員やサプライヤーたちは支配権は持たないが、なんらかのセーフガードはある。そうしたセーフガードは、それぞれの主体が企業と自発的に契約して得たものだ。自発的なものなのだから、それは道徳的に正当化されるものだ。株主が支配権を持つとしても、(他のステークホルダーたちは契約によって守られているのだから)それは他のステークホルダーたちにとっても有益なことなのだ。

しかし、他のステークホルダー「たち」という言い方には曖昧さがある。つまり、個々のステークホルダーではなく、ステークホルダーたちを集合体として考えているのだ。

個々のステークホルダーの状態が良くなるのでなければパレート改善とはいえない。だからハンズマンは、これはカルドア=ヒックス改善であるとしか言わないのである。となると、従業員などの株主以外のステークホルダーたちが「企業の支配権」よりも「企業との契約」を自発的に選んだとは言えないことになる。より正確に事態を表すなら、従業員たちは「企業オークションにおいて株主よりも高値を提示できなかった」というだけのことだろう。

本当は、株主が所有者にならない方が社会的厚生が最大化できるというケースもあるだろう。しかし労働者やサプライヤーが所有者になることは、取引コストが大きすぎるために妨げられているだけなのかもしれない。だとしたら、株主が企業の所有者になることで社会的厚生が最大化できるというハンズマンの主張は成り立たなくなるだろう。つまり、「あいつらには契約でも食わせとけ」という議論は正当化できないものなのだ。

所有権の構造をいじくってもしょうがない

では、ハンズマンの議論は何の役に立つのだろう? 所有権の構造をいじくることでステークホルダーたちの問題を解決しようとする誘惑を退けられるのに役に立つのだ。たとえば「企業の意思決定プロセスに従業員を入れれば問題解決だ」などという安易な解決策は退けることができる。というのは、それでは所有に伴うコストの問題に何も答えていないからだ。そもそも、そうした所有形態を実現するための取引コストが高いからこそ、従業員は企業の所有者になろうとしないのである。

また、企業全体の取引コスト4を最小化できるような主体に所有権を自発的に割り当てることができないとき、何らかの法的メカニズムで対応できる可能性は極めて低いだろう。なぜなら、先に示した表のようなものを各企業ごとに現実につくることはまず不可能だからだ。だから、「○○が企業所有者である」というルールをすべての企業に一律に適応するしかないのだ。

株主の利益が優先されるのは誰の陰謀でもなくて自発的な取引によるものだ

ハンズマンの議論から示唆されるのは次の3点だ。

  1. 経営者が企業や協同組合の所有者の利益を優先することには何ら道徳的問題はない。だから、株主が企業の所有者であるのなら、経営者が株主の利益を優先することに問題はない。そして株主が企業の所有者であるのは、企業からもっとも大きな純利益を引き出せるのが株主だからだ。
  2. 株主以外のステークホルダーに所有権の再割り当てをしても意味が無い。そうすることに取引コストがかかるからこそ、従業員やサプライヤーは企業の所有権を求めないのだ。
  3. その企業の所有権を手にすることがどれだけ有利なことなのかは、取引に直接関わっている当事者にしかわからない。外部から強制的に介入しようとしても非効率な結果を生むだけだ。

そうは言っても株主に所有権を与えることの弊害もいろいろあるじゃないかと批判する人たちはいる。でも、彼らの出す代替案はどれもこれもインセンティブの問題をまともに捉えていないので使い物にならない。倫理学者たちは「みんながもっと道徳的に行動すればいいんだ」と主張するが、それでは何の解決にもならないのだ。

株主を優先するのは、誰かがそういう状況を押しつけているからではなく、ステークホルダー間の自発的な行動によるものなのだ。そのことを明らかにしたのがハンズマンの主張の素晴らしいところだ。

従業員のことを無視していいわけではない

それでは、株主の利益さえ配慮していれば、他のステークホルダーのことはどうでもいいのだろうか? 

そんなことはない。たとえば従業員は経営者に対して弱い立場なのだから、きちんと守られなければならない。

しかしその理由は、「経営者が従業員を含めたステークホルダーたちの利益に配慮することで社会全体の利益を最大化すべきだから」ということではない。そうではなく、あくまで市場を健全に機能させるためなのだ。

そもそも、なぜ企業は仕事を外注するのではなく、従業員を雇うのだろう? それは、市場が不完全だからだ。市場での契約だけでは協力が成り立たないことがあるのだ5。企業内での人間関係は、権威関係をコントロールする規範と期待によって動いている。そのため、市場が不完全でも協力が成り立つのだ。

しかし、従業員は弱い立場でもある。株主のように経営者に対しコントロール力を持つわけでもないし、市場取引でうまくやれるわけでもない(市場でうまくやれるのなら従業員じゃなくて自営業者になるだろう)。

こうした従業員の弱みにつけ込まないことが経営者の道徳的義務だ。しかしそれはあくまで、市場の効率性のためだ。たとえば経営者は従業員に対して嘘をついてはいけないが、それは嘘が労働市場の効率性を歪めるからなのだ。

「株主利益が優先されるべき」ということの本当の意味

ステークホルダーたちの利益が対立するときは、株主の利益が優先されるべきだ。でも、それは「株主の利益だけ配慮すればいい」ということではない。

株主利益が優先されるべきなのは、「健全な市場競争を維持する」という条件付きでのものに過ぎない。従業員(を含むステークホルダーたち)をあざむいて利益を高めることで株主利益を高めようとすることは道徳的に認められないのだ。

感想

全面的にハンズマンに依拠した議論だけれど、ハンズマンの議論の問題点をちょこちょこ指摘しているところと、最後の方で株主以外のステークホルダーがなぜ配慮すべきなのかを述べたあたりにヒースのオリジナリティがある。

株主が企業の所有者であることは必ずしも効率的とはいえないけれど、当事者たちが自発的に決めたものなのだ、と指摘しているところが今回のポイントだと思う。つまり、企業の所有者は誰であるべきかというのを道徳的な問題に還元しないで、事実としてそうならざるを得ないのだというところからビジネス倫理学のあり方を考えていく。このあたりのロジックは前にまとめた気候変動本と同じだ。ようするに、「道徳問題を考えるのなら、そもそもどんな選択肢が可能なのかをきちんと考慮すること。そうしないと議論が明後日の方向に行ってしまうよ」ということなのだろう。

今回はかなり難しくて、正直、何言ってんのかわかんないところがちらほらあった。何回読んでもよくわからんので、結局また1センテンスずつ訳しながらまとめていった。まとめ終わってから読み直してもあちこち議論が蛇行してるのでだいぶ刈り込んだ。初読のときも読みにくいなあと思った記憶がある。ハンズマンに対してヒースが肯定的なのか否定的なのかどっちつかずの立場であれこれ議論を進めてるのがわかりにくさの原因のような気がする。

あと、注の方にちょこちょこ書いたけど、ヒースの書き方自体にもへんなところがあったような気がする…。わたしの方の誤読だとも思うのだけど、何度読み直してもやっぱり筋が通らない。もっと頭の良い人がいつか全訳してくれたら助かる。読まないと思うけど。


  1. ヒースは、これが残余請求権(residual claim)だと言っている。でも、残余請求権は、企業がつぶれたときに、銀行にお金を返したり従業員に給料を支払ったりしてもまだ財産が残っている場合、そういう財産を請求する権利が株主にあるということを示す概念なので、ここで使うのはおかしいと思う。
  2. あれ、この表の読み方ってこれでいいのかな? 従業員が所有者である場合と株主が所有者である場合を比べて各主体の利得の増減を比較しないとカルドア=ヒックスの話に結びつかないのでは。所有者が株主ではなく従業員になった場合、従業員は利得が3-1=2だけ増え、サプライヤーは利得が4-2=2だけ増え、株主は2-5=-3だけ損する。でも、従業員とサプライヤーが提携して、増えた利得の2と2を合わせて合計4の利得のうちから3だけ株主に移転すれば、株主は何も損しないことになる。一方、まだ増えた利得のうち1は従業員とサプライヤーの手元に残っている。だから、所有者が株主ではなく従業員になることはカルドア=ヒックス基準で効率的であるといえる。カルドア=ヒックス基準で効率的というのは、利得の移転を行った場合にパレート改善になるような利得配分のこと(厳密にはちょっとちがうのだけど、ここでの議論には直接関係しそうにないからこれで通す)。
  3. 従業員が相手なら、雇用「契約」を結んでいるのだからそれ以上のことを企業に要求するな、というような議論のことを言っているのだと思う。
  4. ここ、取引コストじゃなくて、単純に「コスト」の話なんじゃないかなあ、と思うんだけど。要するに機会費用ということ。
  5. ここは不完備契約のことを言おうとしてるのかな?