【感想】平家物語(アニメ)

動機

感想文

なぜ今、古典をアニメにするのか

  • 原作にはびわなんて登場人物はいない。びわって何なのか。かわいいものがないとアニメって見られないよう、という僕みたいな軟弱者に見てもらうために入れたマスコット的存在なのか? たぶんちがうだろう。いや、そういう面も無いとはいえないけれど、もっと作品の本質に関わる大事な意味を持っている。
  • 古典を翻訳するなり、映像化するなりするときは、歴史性に気を遣う一方で、現代性についても考える必要がある。なぜ、何百年も昔の物語をこの令和の時代にアニメ化する必要があるのか。「つったって、結局これは大昔の話であって、俺らには関係ないっしょ?」とか思われたら失敗なのだ。これは古典に限らず、歴史を扱う作品についても当てはまることだろう。
  • 単に美麗な映像で平家物語をアニメ化しました、というだけだったら、たぶんそんなに面白い作品にはなってなかったと思う。読みにくい古典作品にわかりやすい挿絵をつけてあげました、くらいのものにしかならなかったろう。
  • で、この作品に現代性を持たせるために必要不可欠な存在がびわなのだと思う。

「見るだけの人」から「語るだけの人」へ

  • びわはひたすら平家の行く末を見続ける。過去(死者たち)と未来を見ることのできる目で、人々の死をただただ見ている。
  • 見えているなら何とかすればいいのに、というのが今の人たちの感覚ではないだろうか。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、主人公はタイムマシンを使って、過去を変え、現在を変え、未来を変えていく。パート3での、君たちが未来を変えていくんだ、というドクの台詞はとてもポジティブで現世肯定的な響きを持つ。
  • だけどびわは、自分が見た平家の行く末を、ほとんど誰にも明かさない(一度だけ、会ったばかりの重盛に平家は滅びるぞ的なことを言っている)。すべてはもう決まっていて、見えても何も変えられない、というのがびわの世界観だ。そしてたぶん、この物語の世界の人たちはみな、そういう世界観のもとに生きている(そうでなかったら、人々のあいだでびわをめぐるおぞましい争奪戦が発生していたはずだ)。
  • びわは平家の最期を見届けたあと、急速に視力を失う。そして、盲目の琵琶法師となる。見ることがびわの役目で、見るべきものをすべて見たら、あとはすることは語ることだけだからだ。語るのに目はいらない。
  • 見るだけの人だったびわは、「平家物語」を語るだけの人になる。ある意味、びわという存在そのものが平家物語とイコールになってしまう。作中でときどき、異空間で白髪の女性の姿のびわ平家物語を語るシーンが挿入されるけれど、あれはびわという個人ではなく、擬人化された平家物語だともいえそうな気がする。このアニメが作成されるずっと前から、無名の人々がこの物語を語り継いできた。無名の人々による「語る」という営みを映像化したのがあの白髪のびわなんじゃないかなあ、とか思う。

祈ることはコスパ悪いけど

  • 見えるのに何もできない、ということにびわは無力感を持ち続ける。しかしそれが、母との出会いをきっかけに、すべてを見て、語り、祈るのだ、という前向きな気持ちに変わる。祈ったところで何も変わらない。結局平家は滅びる。親しかった人たちはみな死んでいく。それでも祈る。
  • 祈ることの意義のひとつは、死んだ人たち、滅びた者たちを思い出すという点にあると思う。死んだ人たちにはもう耳も無いし脳も無いのだから、祈ったところでメッセージが伝わるわけではない。それでも祈ることで、彼らが無ではなかったこと、確かにこの世界にいたことを再確認することができる。
  • 「は、それって何か意味あるんすか?」という風に考える人もいそうだ。死んだら死にきりで、すべては無、という世界観だと、祈ることには何の意味も無い。でも、むしろ、そういう「死んだらすべては無」という世界観に抵抗するためにこそ祈るのだ、という言い方もできる。もしそんな世界観を受け容れてしまったら、生きること自体も無意味になってくるだろう。どうせ人はみな死んでしまうのだし、地球もいつかは太陽に飲まれて消えてしまうのだから。「死んだらすべては無」という世界観は、そのままダイレクトにニヒリズムに至ってしまう。コスパコスパって言ってたら、生きてるのが一番コスパ悪いよ、ってのとも近い話だ。だから、たとえコスパ最悪であっても、びわは壇ノ浦に至るまですべてを見届けて、視力を失い、ひたすら語り、祈り続ける。

アニメを見ること自体が祈ることでもあって

  • 実を言うと、この作品を見ている人たちも「見るだけの人」なわけだ。制作者たちだって、平家の行く末をみんな知ってるけど、結末を変えることはできない(語ることしかできない)。今の人たちは、平家物語に対して、みな「見るだけの人」であるか「語るだけの人」であるかのどちらかだ。
  • にもかかわらず、この作品を見て、感動している人は、たぶん平家のために祈っているのだと思う。語る人は語ることで祈り、見る人は見ることで祈る。なぜなら、そういう祈りの気持ちがなければ、この作品を見ても感動しないと思うからだ。なんだって、バッドエンドしか設定されていないアニメを見ないといけないのか? ビジネスに役立つ知識も自己啓発的なメッセージも何も含まれていない、こんなコスパ悪いアニメをなぜ見なければならないのか? たしかに、コスパで言ったら最悪だ。だけど、コスパ最悪でもこのアニメを見て感動しているのだとしたら、その人は、祈っているのではないだろうか。平家の人々のために、平家のすべてを見届けなくては、という気持ちをびわと共有しているのではないか。
  • そこらへんにこの作品の現代性があるのだと思う。びわという登場人物を入れることで、びわを媒介にして、見る人は祈りに参加できるようになっている。あの白びわが琵琶をかき鳴らすトワイライトゾーンは、歴史を超越した祈りの空間だ。そこにはいつの時代にいてもアクセスできる。作品を見て感動することさえできれば。
  • 「つったって、平家物語って、必ずしも史実に基づいてるわけじゃないでしょう? 祈るのはいいけど、祈りの対象がただのフィクションの人物でしかなかったら意味ないじゃん」という考えもありそうだ。たしかにそうなんだけど、大事なのは、見えないものに対して想像力を働かせるということなんじゃないかと思う。平家に限らず、これまでこの世界ではたくさんの人が死んできたわけだ。中には生まれる前に死んでしまうようなことさえある。あるいは、死んでないけどもう会えない人とかもいる(小学校のころの初恋の相手とは、今会ったとしても別人だろう)。そういうものたちについて考えるのはコスパが悪い。でも、そういうコスパの悪い祈りを捧げ続けないと生きていることは無意味になる。生きていることが無意味に落ち込まないためにフィクションというものはあるのではないかと思う。