【映画感想】『さようなら全てのエヴァンゲリオン』

エヴァ』の新劇場版4部作を見終わって、ドキュメンタリーの『さようなら全てのエヴァンゲリオン』も見た。ぐちぐち文句を言いながらもちゃんと全部見たのだから、やっぱり面白かったんだと思う。

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ドキュメンタリーの中で、監督はしきりに、お客さんを楽しませるために自分たちはつくっているんだという発言を繰り返している。それなのに、物語自体はシンジ君やゲンドウの内面劇であって、エンターテイメントというよりも純文学だ。そして、どう考えてもその純文学部分についてはうまくケリがついたようには見えない。

わたしはテレビアニメ版も旧劇場版も見ていない。Amazonプライムで配信されている新劇場版で、初めてエヴァに触れた。そして、『序』を見たときからずっと、「なんでこのテーマでこんな大げさな設定を取り入れる必要があるんだろう?」と思ってきた。親子の確執だったら『美味しんぼ』がある。大人になれない父親を描いた作品なら『子供はわかってあげない』がある。ニヒリズムにはまった少年が少しずつ他者と関わりを深め、成長していく物語なら『3月のライオン』がある。これらの作品には巨大ロボットも出てこないし、世界の破滅も救済もない。出てくるのは料理だったり水泳だったり将棋だったりで、とても生活に密着したちんまりとした設定ばかりだ。設定のスケールが大きい作品も個人の内面を扱うけれど、そればかりにこだわったりはしない。『ゴールデンカムイ』に出てくる鶴見中尉は、ゲンドウと同じように内面に闇を抱えた人ではあるけれど、そういう私的事情のために人々を血みどろの金塊争奪戦に巻き込んでいるのではない。

設定のスケールは、扱うテーマと釣り合わせるべきだ。そこをずらしているのがセカイ系なのだと思う。個人の内面という小規模なテーマに、世界存亡の危機という異様に巨大なスケールの設定をくっつける。その不協和音がエヴァの魅力なのだとは思う。『破』で、暴走した初号機がアスカの乗る3号機をボコボコにするとき、のどかな童謡が流れる。そういう不協和音が与えるインパクトの大きさに人は惹きつけられるのではないだろうか。

『さようなら全てのエヴァンゲリオン』を見て思ったのだけど、監督はこの不協和音を戦略的にやっているのではなく、割と天然でやっているんじゃないだろうか? 監督は、ナディアを作ったりエヴァを作ったりした後、精神的にかなり追い込まれたということを語っている。でも、そういう監督個人の内面がありつつも、奥さんが言っていたとおり、この監督はかなりの許されキャラでもある。言っていることはめちゃくちゃだ。スタッフが苦労してつくったシーンをカットしてしまったりするし、脚本をなかなかつくらずに進行を遅滞させたりしている。だけど、スタッフたちから詰め寄られるでもなく、怒号が上がるでもない。まあ、庵野さんだからしかたないか、と(涙目で)諦められているような印象を受けた。

アオイホノオ』で描かれる若い日の監督もこんな感じだと思う。つまり、この人の内面どうこうよりも、まず、端から見ていて面白い。内面でかなりキツいことを考えているというのは作品を見ればわかるけれど、本人を目の前にしてしまうと、何よりもまず「面白い人」でしかないんじゃないか。そして、「面白い人」というポジションで、きちんと社会に適応している。宮崎駿鈴木敏夫みたいに応援してくれる人たちもいるし、仲間たちはなんだかんだでついて来てくれるし、奥さんもサポートしてくれる。客観的に見れば、シンジくんやゲンドウとは遠い場所にいる人のように思う。本当は遠い場所にいるのに、むりに内面をテーマにしようとするから、表現にきしみが生まれるのではないだろうか? 未見だけど、ゴジラウルトラマンがあれだけヒットしたのは、内面というテーマを捨てることで、のびのびと表現できるようになったからではないだろうか。

ただ、このきしみこそがエヴァの魅力だともいえる。『さようなら全てのエヴァンゲリオン』を見るまでは、エヴァはただの失敗作だという風にしか考えていなかったけれど、ちょっと考え直すようになった。ひどい作品だなあ、と思いながらも結局最後まで見てしまったのは、このきしみにリアリティを感じたからかもしれない。きしんでるエヴァはなんだかんだで4部作すべて見てしまったけれど、ゴジラウルトラマンは今のところあまり見たいと思わない。