【読書ノート】Jacques Godbout(1998)The World of the Gift 第8章

Chapter 8 Classic Interpretations of the Archaic Gift

イントロ(p118)

・モースの3つの問い:「なんであげるの?」「なんでもらわなきゃならんの?」「なんでお返ししないとダメなの?」
・これらに対応するモースの答えは、次にような解釈に対応している:経済的解釈、「土着的」解釈、構造主義的・交換主義的解釈 。で、モースが採用したのは「土着的」解釈。
・これらの答え方はあんまり良くないのだけど、この後、本書オリジナルの議論につなげたいから、ちょっくら見ておこうか。

  • この章もまだ準備作業みたい。でも、中身をちらっと見たらラカンがどうこうとか出てきたから、哲学好きとしてはちょっと楽しめそうな内容かも。

The economic interpretation (p118-121)

・贈与って実は経済的な動機でやられるものなんだよー、という研究は結構ある。たとえば階級の低い人にも財を分配するためとか、投資という意味合いがあるとか。
・確かに古代人は経済的動機でも贈与をしていたと思う。でも、それだけじゃないんじゃない? サーリンズも言ってるけど、古代人ってそんなに物質的に欠乏してたわけじゃないし。経済的交換をするにしても、それは全体の社会的文脈に依存したものだったんだよ。

  • この節では、贈与を経済的観点から解釈している。
  • ああ、これくらいの説明だと納得できるな。日本人の贈与論だと「贈与では見返りを求めてはいけない」というストイックな定義をするものが多い。で、もちろん見返り期待ゼロの贈与なんてあり得ないから、あらゆる贈与は不可能ということになり、何か神秘的ななものとして語られるようになってしまう(現代思想に出てくる「X」みたいに、求めても決して得られないもの……みたいな感じになってしまう)。
  • サーリンズに触れて、古代社会は割と楽勝で生きていけるチョロい社会だったから経済交換にそんなにシビアでなかった、みたいな話を持ってきて贈与につなげてるのもなるほど、という感じ。まあ、これもまた経済的なアプローチによる説明なんだけど。

The "indigenous" interpretation (p121-122)

・モースは例の「ハウ」とかいうのを持ち出して、贈与されるモノにはハウという精霊みたいのがくっついてるから、持っているとその人に害をなすので、別に人に贈与しなくてはならない、と考える。
・ハウがくっついてるから、モノはどんなに他の人の手を渡って贈与されていっても、結局は最初の持ち主のモノだ。だから贈与されるものは「譲渡不可能(inelienable)」である。
・ハウの解釈にはあまり深入りしなくていいけど、譲渡不可能という考えは重要だ。

  • この節では贈与について「土着的な」解釈をしている(モースはこの解釈を採用した)。
  • ハウの話に深入りしないというのはとても賢明だと思う。個々の風習の解釈にこだわりすぎるとそれだけで人生が終わってしまう。そういう風にして人生を終える楽しそうな人はいるけれど、それでは贈与という考えを現代社会に活かすことはできない。実用重視の筆者のスタイルには好感が持てる。

The exchangist-structuralist interpretation (p122-127)

・レヴィストロースに言わせればモースの考えはへん。あげる、もらう、お返しするの3点セットなんて無い。あるのは交換だけ。もともとは女性の交換というのがあって、そこから近親相姦の禁止みたいな話が出てきて、法というものも生まれてきたのだよ。
・だけど、レヴィストロースが言ってるのは、クランAからクランBに女性を出したら、今度はクランBからクランCに女性を出すとかの話で、別に交換してるわけではない。古代の人は交換してるんじゃなくてあげてるだけ。
ラカンフロイトの糸巻き車のアレを解釈して、これが対象aであって、子どもは社会的秩序の世界に入るのだとか言ってる。だけど古代社会の人たちは可逆性(reversibility)の世界に生きてるから無意識は無いことになる。
・で、可逆性という考え方を導入すると、あげる・もらう・お返しするの3点セットはそれぞればらばらのものでなくなる。
Girardの考え方はラカンに似てる。Girardによれば、欲望というのはモノへの欲望ではなく関係性への欲望だ。みんなが欲望するモノを私も欲望する。
・こういう、関係性への欲望って、古代社会だけでなく現代社会にも通用する話なんだろうか? だけど、みんなが欲望するモノを私も欲望する、ってだけだとなぜそのモノが大切なのかがよくわからないし、それが商品とどう違うのかもよくわからない。

  • ここ難しすぎてほとんどよくわからない。
  • フロイトの糸巻きの話って、前にどっかで読んだことあるけれど、よくわからなかった記憶がある。糸巻きを引き寄せると母がいるけれど引き寄せないと母は不在だとか。なんのこっちゃ? 赤ちゃんはあまり視力がよくないから、糸巻きがちょっと離れると見えなくなる(不在になる)ということなのかな。でも、糸巻きは糸巻きで母親ではないと思うけど。僕は糸巻きを見て「お、お、お母さん」なんて言ったことはない。なぜなら糸巻きはお母さんではないからだ。ともかく、そうやって「否定」という概念を学ぶことで、象徴体系というものの世界に入っていくのだよ、というようなことなのかな。象徴体系がわかっても、糸巻きとお母さんの区別もつかないようじゃ世の中で使い物にならないと思うけど。
  • で、可逆性の議論がなんで出てきたのかわからない……。それが交換とどう結びつくのかもよくわからん。

The economicism of classical interpretation (p127-128)

・糸巻き車モデルは贈与よりもむしろ経済関係の方に当てはまる。なぜなら、お返しはすぐ、直接に現れるからだ。
・「土着的解釈」以外(経済的解釈、構造主義的・交換主義的解釈)だと、どうも解釈の仕方が経済に偏っているみたいだ。

  • 結局、この章が言いたかったのは、贈与に関する解釈の多くは贈与に経済的なものを見いだすタイプのものだ、ということみたい。で、かといって今さら土着的解釈に回帰しても現代社会ではつかいものにならない。さあどうする、ってのが次の章の課題ということだろう。

今回はここまで

  • 今回も読みにくかった。ていうかたぶんあんまり理解できてない。やっぱり現代思想系の話は苦手だ。糸巻きの話って、検索したら解説サイトが出てくるけれど、そういうの見てもぜんぜんわからない。理解することを体が拒否してるというか。「それでは、この糸巻きを母親と考えてみましょう」みたいなむちゃくちゃな前提を立てることの意味がまったくわからん。むちゃくちゃな前提を立てるのがOKだったら、もう何だって言えてしまうと思うのだけど。
  • 文化人類学×現代思想で、僕にとっては苦手の二乗みたいなひどく苦痛な読書体験だった。正直、どっちも興味ない。
  • ただ今回大事なのは、結局のところ、既存の贈与解釈の中で、現代に通用して、かつ経済に引き寄せずに贈与を説明しようとするものは皆無だ、ということがわかったというところかな。