【読書ノート】現代経済学のヘーゲル的展開 第5章 5.1

第5章 ヘーゲル経済学のプラグマテックな様相――経済を遂行する

  • ついに最終章。ここでは、4章までの議論で明らかになってきたヘーゲル経済学を使って現実の経済現象を分析していく。
  • 今回は、経営者インセンティブ・システムについて。つまり、どうして経営者は馬鹿みたいに高額の給料をもらってるのか? という問題を扱う。

5.1 金融資本主義における経営者インセンティブ・システム

  • さて、そもそもなんで経営者の給料は高いんだろう。日本だとそこまでではないけれど、アメリカなんかだとめちゃくちゃ高い。この日経の記事だと、アメリカの主要企業の経営者の年収中央値は23億5000万円だ(たいして、日本は年収1億円超えの人に限定しても1億4700万円)。
  • ちょっと狂ってる感じもする。そもそも企業というのは大勢の従業員たちが働いているからこそ収益が出せるのだ。なんだって、大まかな意思決定を担当しているだけの経営者の給料がここまで高くなるのか。有限責任だからそこまでリスクはでかくないはずだし。よく考えてみると非合理なように思える。しかし、「普通の」経済学の教科書的にはこれは合理的なのだという。

p225 なぜ経営者の給料は高いのか?

経営者の行為と企業業績のあいだの識別可能な因果連鎖という意味での経営者業績は、直接的に観察することが困難である。(…)したがって、業績測定を可能にする概念を構築するために経済理論が使用される。それは株式市場における企業評価は、企業業績に関する利用可能なすべての情報を反映しているというアイデアである。この業績には、戦略的意思決定とすべての重要な投資決定に対して責任を負うトップ・マネジメントのパフォーマンスが含まれている。

  • [トップ・マネジメントのパフォーマンス→企業業績→株式の価値]という因果関係が経済理論では想定されている。この因果関係が逆算されることで、経営者の貢献が評価され、給料が決まるのだ。
  • これは、経済学が現実経済を中立的に分析するための理論なのではなく、経営者の給料決定の根拠として活用されるという点で、現実の制度を構成する役割を担っているということだ。ヘーゲル経済学の概念を使えば、経済学は遂行的であるということだ。
  • 普通、学問というのは現実を客観的・中立的に分析することを目指しているのだと思われがちだ。物理学があるから重力があるのではなく、重力があるという現実がまずあった上でそれを物理学が理論化するという関係性だ。しかしここでは、むしろ経済学があるからこそ、現実における制度が成立するという転倒した関係になっている。
  • 筆者が本章でやろうとしているのは、こうした、「普通の」経済学がやっている現実構成機能(遂行性)を分析した上で、「高すぎる経営者の給料」のようなおかしな制度を改めるための道筋を提案することだ。経済学の理論が現実を引っ張ることで、おかしな制度が生まれ、さまざまな社会問題が発生している。問題解決の学問が、実は問題発生の原因になっていたわけだ。それを反省し、是正するためのツールこそが、筆者の提案するヘーゲル経済学だ。
  • さて、「経営者の給料がなぜ高いのか問題」をもう少し詳細に見ていこう。

p230-231 リスク愛好的な投資家が経営者をリスク愛好的にする

エグゼクティブに対してより高い報酬を支払うことに好意的な教科書的議論は、リスク・テイキングに対するインセンティブを創出するというものである。このようにして、報酬体系は、特定のアイデンティティをもった主体としての経営者の行動を変化させる道具となるのである。(…)
われわれはさらに二つのタイプの所有者を区別することがでいる。投資家と起業家である。起業家はリスク愛好的選好を顕示する。彼らは意図的に、根本的に不確実な起業家的プロジェクトに個人的運をかけるからである。金融資産の所有者としての投資家は起業家と同じではなく、ベンチャー・キャピタリストのような仲介的役割を果たす傾向にある。一般的に言って、投資家は本質的にはリスク愛好的ではないが、リスクの高い投資を採用することが超過利潤を得るための唯一の方法であるために、しばしば、より高いレベルのリスクを選好する。(…)彼らのリスクに対する態度の如何によっては、投資家たちは経営者たちにインセンティブを付与して、超過利潤を生むようなリスキーな投資戦略を採用するようにし、他の投資機会と比較して、そのリスク・レベルが高すぎると感じた瞬間に株を売ることになるだろう。(…)この場合、議論は自己言及的である。二次的レベルの金融会社(financial corporation)に投資する人々は、彼らの投資に十分な収益率をもたらすために、彼らの経営者(…)にインセンティブを付与し、リスク回避的行動からリスク愛好的行動にシフトさせようとしているからである。

  • まず経済学の教科書的には[経営者がリスク・テイキングである→経営者の給料が高い]という因果関係が成り立つ。つまり、経営者が他の社員とちがうのは、リスクをとっているという点であり、そのリスクの大きさに応じて給料を払うべきだ、ということだ。
  • その一方で、投資家がリスク愛好的だと、投資家は経営者にインセンティブを付与して、経営者をリスク愛好的に行動させるよう誘導する。画期的な新商品を売り出すのはリスキーだけど、成功すれば莫大な収益が期待できる。従前通りの商品をちまちま改良しているだけの経営者よりも、そういうリスキーなことに挑戦する経営者の方が、リスク愛好的な投資家には評価される。だから、経営者もリスク愛好的に振る舞うようになるのだ。その結果、経営者は「リスク・テイキング」であることになるわけだから、莫大な給料をもらうことが正当化されることになる。
  • でもこれは、起業のガバナンスを資本市場に依拠するということだ。そうなると、「起業の戦略展開における短期主義と経営者の報酬スキームにおけるコントロールの喪失」(p232)を生み出すことにつながる。つまり、起業経営上の不正が発生しやすくなったり、経営者の給料が異様なまでに高騰して歯止めがきかなくなるということだ。
  • ところでこれは、報酬体系というインセンティブが、経営者のアイデンティティを変化させているのだという見方もできる。つまり、もともとリスク・テイキングでなかった経営者が、こうした報酬体系のもとではリスク・テイキングになって、不正に平気で手を染めるようになったり、強欲になってしまったりするということだ。インセンティブは、人々のアイデンティティを変化させるシグナルとしての役割を持つのだ。

p233-234 二重様相性

インセンティブは反応の引き金となるのだが、それはまだ情報を伝えるシグナルでもある(…)。この二重様相性(bimodality)は、一般的な接地した認知(grounded cognition)アプローチに包摂することができる。インセンティブは刺激だが、意味と情報内容を伴う「概念」でもある。したがって、すべてのインセンティブ・スキームは、一方では設計者と送り手の関係、他方では主体と反応者の関係に含まれる解釈プロセスに依存することになる。

  • このことについて有名な事例が、幼稚園で子どもの迎えに遅れてくる親に罰金を課すとかえって遅刻が増えてしまったという現象だ。これは、罰金が遅刻に対する「価格」であると親たちに認識され、お金を払えば遅刻しても良いという風に解釈されてしまったということだ。
  • 経営者へのインセンティブ・スキームに話を戻せば、経済モデルにもとづきリスク・テイキングな経営者に高額の給料を払うということにすれば、「高額な給料に反応してリスク・テイキングな行動をとることが合理的である」というシグナルを経営者に送ることになる。つまり、こうした報酬体系を設計することで、経済学の教科書にしか存在しないはずの「合理的経済主体」が現実世界に召喚されてしまうわけだ。このように、インセンティブは人のアイデンティティを変えてしまう力を持つ。
  • 経済学は中立的な理論ではなく、現実の制度を形成してしまう遂行性を持っている。だから、経営者たちは経済理論上の存在でしかない「合理的経済主体」として振る舞うようになる。また、経済学やビジネス・スクールの学生たちは経済モデルに従って行動する傾向があるともいわれている(p238-239)。こうした構造が、ヘーゲルを経済学に応用することで明るみに出てくるのである。
  • こうした状況は放置しておくべきではない。なぜなら、「経営者インセンティブ・システムは明らかに、それが引き起こすリスク・テイク行動に関する倫理的関心を発生させるものである」(p240)からである。

p240-241 インセンティブ・スキームの外部性

会社レベルのインセンティブ・スキームの設計が外部性を含んでいると疑うだけの十分な理由が存在している。外部性は2008年の危機の際にも観察された。このときには、抵当貸し付けを手放したり、それらをデリバティブにまとめたり、評価機関による評価を受けたりといったさまざまな段階で、金融のインセンティブ・システムが、金融アーキテクチャ全体のシステミックな不安定化に寄与したのであった。(…)そこでの標準的アプローチは、銀行や会社にレバレッジをかけることによって自己資本(equity)当たりの収益を最大化することである(…)。この場合、株主と経営者の両方とも、過度なリスク・テイキングを推進する強度のインセンティブ・システムに合意することになるだろう。というのも、そのリスク・テイキングのコストの一部は、銀行の預金者のような、固定した請求権をもつ当事者たちに課すことができるからである。このことは、インセンティブ・システムの設計が所有者、すなわち株主だけに任せておけないことの理由となっている。(…)ある種のステークホルダーたちもまた、会社に対して固定した請求権を持つものと見なしうると主張できる。とりわけ、企業特殊的な人的資本の構築に投資するすべての従業員たちは、会社の将来の存続とそれに対応する所得フローに対する請求権を持っているのである。

  • ここでいう「外部性」というのは、市場で適切に考慮されていないということ。リスク・テイキングな経営者や株主の振る舞いは、他の主体に多大な迷惑をかけている。金融システム全体が不安定になるし、銀行の預金者もリスクを一部担うことになる。さらに、そういう企業に勤める従業員だって、会社がリスクを追い求めた末に倒産したら路頭に迷うことになる。それなのに、こうした他の主体がこうむる損失は、市場において補填されていない。経営者の給料が法外に高いのは、こうした外部性を補填せずに、経営者が総取りしているからだ。そして、経営者がそのように非倫理的な振る舞いをするのは、そうした行動が報酬システムに奨励されることで、経営者のアイデンティティが「合理的経済主体」という経済理論上の存在に同化してしまっているからだ。
  • それではどうすればこうした状況を変えられるのか? 
  • まずは、市場を企業だけで完結するものと見ずに、「学界」も含めたシステムとして捉えることが必要だ。

p242 経済学 → 企業 の影響

ゴシャルは、経営者教育こそがドット・コム時代の企業スキャンダルの主要な原因であると主張した。というのも、ビジネス・スクールで教えられている経営の主流派モデルはたいてい、ウィリアムソンの影響を受けた見解に従っているからである。そこでは、主体はつねに機会主義的かつ利己的に行為するので、望ましいパフォーマンスを実現するためには、インセンティブ・システムの設計が彼らの外在的動機に訴えなければならないことになる。この種の経済分析の訓練を受けた人々は、それに従って行為するだろう。というのも、これが理論的かつ経験的に保証された方法なので、経済のなかのほとんどの行為者たちはこの仕方で行為すると信じるだろうし、インセンティブ・システムの設計者として習得した知識を適用するからである。

  • また、これは逆方向の影響関係もある。

p244 企業 → 経済学 の影響

経営者たちは経済モデルによって生み出された予測に従って行動し、その経済モデルが翻って経済学者たちの専門領域的アイデンティティを定義するのである。

  • つまり、企業の振る舞いと経済学の理論は相互規定的であるということだ。もちろんこれは、経済学者たちが企業経営者たちと癒着してるというような話ではない。そうではなく、[企業⇔経済学]というループする規定関係において、「合理的経済主体」「経済学者」というアイデンティティが生成され、安定化するという、概念レベルでの均衡関係を意味している。こうして、企業経営に伴う様々な外部性が解消されることなく温存されることになるのだ。
  • それでは、ヘーゲル経済学を使うと、こうしたループを脱するためにどんな提案ができるのだろうか?

p245 経営者アソシエーションにおける標準を確立する

インセンティブ・システムの機能不全という問題に対する改善策は、経営者アソシエーションにおける標準を確立するというものである。アイディアの概略は、メンバー間の公共的討議において、インセンティブ・システムの標準(…)を確立できるというものである。

  • つまり、経営者同士のアソシエーションをつくることで、インセンティブ・システムがどうあるべきかについて相互承認するべし、ということだ。経営者アソシエーションは経営者教育の制度にも関わるとされている。また、インセンティブ・システムは従業員にも承認されなければならない。なぜなら、従業員もまた、経営者のアイデンティティに影響するパートナーだからだ。具体的には、監査役会のメンバーとして、従業員は報酬スキームの決定に関与することになる。
  • また、経営者アソシエーションと別に、産業アソシエーションも必要だ。そして、両者の中心にコーポレーション内部の承認関係があるという関係性が構想される。

p247-248 経営者報酬の原則を確立するための枠組み

産業アソシエーションもまた従業員と経営者の両方を含み、伝統的な労働と資本の分裂を断ち、われわれが推奨しているような方向に動くことができるかもしれない。(…)
以上のことから、経営者報酬の原則を確立するための枠組みは、図5.3のようなものになるだおる。
中心には、コーポレーション内部の承認関係があり、それによってエグゼクティブのインセンティブ・システムが所有者、従業員、経営者の同意を得る。これらの関係は、経営者アソシエーションや産業アソシエーションにおいて補完された標準によって補完される。(…)これらのインタラクションはすべて、公共圏において発生する。すなわち、それらは世論による吟味に対して開かれている。

  • もちろん、このように提案したらこうした枠組みが実現するというものではないだろう。たとえば経営者教育を変えようと思ったらビジネススクールのカリキュラムを変えないとならない。そのためには、既存の経済学ではなく、筆者の提案するヘーゲル経済学がかなり力を持つようにならないといけないだろう。また、そうして教育が変わったとしても、旧来の経営者教育を受けた経営者たちはやはり機会主義的かつ利己的に行動するだろうから、新しい世代が彼らに対抗するにはやはり機会主義的かつ利己的に行動するしかないかもしれない。そうすると、そうした経営者の行動を分析するにはやはり旧来の経済学の方が適切だということになって、ヘーゲル経済学の存在感は希薄になっていくかもしれない。
  • 現在の報酬スキームはさまざまな主体の振る舞いや制度の間の均衡状態として成立しているものだ。だから、何かを変えればすぐに改革できるというものでもないと思う1。ただ、いずれにしてもこうした均衡状態の見取り図がなければ、改革のためにどこから手をつければ良いのかもわからない。

  1. まだちゃんと勉強していないのであくまでメモとして書くけど、本書が依拠する青木昌彦の制度論に対する批判として、そもそもどうやって制度を変えればいいのかわからない、というものがあると思う。つまり、制度論をどうしたら現実社会における問題解決に応用すればいいのか、という問題だ。本書は「相互承認」というヘーゲル哲学の概念を取り入れることで制度が選択されるときの人々のコミュニケーションのあり方を明示化し、さらにセンのケイパビリティの導入によってより良い制度を評価するための視点を示したという意義があると思う。でも、本当にこれだけで、現状の制度的均衡状態を脱することができるのかどうか、ちょっとよくわからない。「どこを押したら変わりそうか」というのと「どういう風に変わるのが良いのか」というのは示したけれど、「どういう風に押せば良いのか」は示していないというか。そこらへんはお前らが考えろよ、ということなのかな。考えよう。