【読書ノート】古谷利裕 『虚構世界はなぜ必要か?: SFアニメ「超」考察』

読む動機

  • 現実とフィクションの関係ってどうなってるんだろう? というのは個人的に前から気になっていた。小説を読んだりアニメを見たりして、なんか心が豊かになってるような気もするけれど、でも、本当にそれでいいのかなあ、とか。
  • たとえば陰謀論みたいなのにやられちゃう人はSNSなんかだとちょくちょく見かける。そういうのを見て「愚かだなあ」と思ったりもする。だけど、陰謀論自体がある意味フィクションでもあるわけだ。で、面白いフィクションは、実は面白い陰謀論をアイデアに構築されていることも少なくない。そうなると、陰謀論とフィクションって、イコールとはいえないまでも、関連性が無くは無いということになる。フィクションの世界にどっぷりはまって心がとっても豊かになった人が、きらきらした瞳で陰謀論を唱えてる、なんていうおぞましい光景もあり得なくはない。
  • もともと僕はフィクション好きで、高校のころなんかは小説と漫画以外の本は読めなかったような人間だ(つまり主人公のいない文章が読めない)。社会科学系の研究室に入ってそこで学位を取ってしまったので、仕方なく社会科学とか倫理学とかの勉強もしてるけど、結構苦痛ではある。だけどそうやって苦痛な勉強をつづけていくと、フィクションを絶対視する姿勢が弱まっていって、むしろ社会の中でフィクションってどういう位置づけにあるんだろう? というのが気になってきた。自分の好きな小説家が政治や経済についてトンチンカンなコメントをしているのを読んだりして、うわ、ちょっとフィクション業界ってへんなことになってない? という危機感を持ったりもしている。
  • という風なもやもやがあって、この本のタイトルにあるような「なぜ必要か?」という視点からフィクションについて考えるのはとても大事なことだと思って手に取った。

抜き書きとコメント

i 本書の主題:現実主義に対するフィクションの意味

現実主義に抗するために、フィクションは意味をもち得るのか。意味をもつとしたらどのようにしてなのか。一言でいってしまえばそれがこの本の主題です。ここで現実主義とは、現実は変わらない、あるいは変えられないという考え方や空気のことです。状況という意味での現実は刻々と、早すぎるくらい早くに変わっていくのですが、それはたんなる変化であって変革とはいえないものです。……現実主義のもとでは、よりよい現実、よりよい世界を目指すという目的や、それについて考えを巡らせ、様々な試みを行うということが失われ、いかに今ある現実に適応するのかという思考だけが残るといえるでしょう。

  • ここを最初に読んだときは、そうそうその通り、と思ったんだけど、書き写していると、ちょっと違和感があった。
  • アマルティア・センが『正義のアイデア』の中で、完璧な正義を一挙に成立させるようなやり方はダメで、この世界の不正義をちょっとずつ改善させていくアプローチを取るべきだ、ということを主張している。「超越論的制度主義」に対する「実現ベースの比較」という考え方だ。最近読んでる本の中でもこの考え方について触れられていたので、以下に引用してみよう。

セン自身の視点から見れば、超越論的制度主義は、現実世界では個人の選好序列が完全ではなく、異なる個人の価値判断が異なる原理に基づいているという事実を無視するものである。それに代わる解決策として、彼が提唱するのは「実現ベースの比較」である。これは制度変化を、参加している観察者たちによって評価されるような、現状(status quo)との相対的な変化によって評価するのである。
ヘルマン=ピラート、ボルディレフ『現代経済学のヘーゲル的展開』p186

  • センはもともと社会的選択理論の研究をやってきた人で、社会制度というのは個々人の選好を集計することで社会的に選択していくべきものだと考える(で、その集計の仕方をあれこれ考えている)。制度は誰か偉い人が急に「今日から共産主義にします」みたいなことを言って変えるものではなく、個々人の考えをボトムアップで集計していって、少しずつ変えていくものだ。それが、「実現ベースの比較」という発想だと思う
  • で、「現実主義」に話を戻すと、ここで言っている「現実の変わらなさ」をどの程度の強さと考えるかが重要なんじゃないかと思う。もし現実をまったく変えようがないのなら、確かに現実に対して適応を目指すだけの現実主義がはびこることになる。でも、「実現ベースの比較」というのがある程度可能で、個々人の意見がそれなりに現実を変える力を持っていると考えるのなら、必ずしも現実主義がはびこることはない。変化のスピードは遅いかもしれないけれど、粘り強く意見を表明していくことで、少しずつ現実をましなものに変えていくことができる。そういう、「地道な現実主義」みたいな路線もあり得るんじゃないか。とか思った。

p4 現実の動かしがたさ

「現実たち」に共通した特徴として、「選択できないで強要される(その外に自由に出られない)もの」であり、「その影響が無視できないくらい強いもの」であり、「恣意的に動かすことができないもの」であるという三つの点が挙げられます。つまりこの三つを現実という語の意味とします。そこで、フィクションの特徴はその逆になると考えられます。

  • で、実はここでいう「現実」というのは前の方のページでいろいろタイプ分けされてるのだけど、書き写すのがめんどいので省略。
  • 筆者は「共同化された「現実」と信じられているもの」も現実のひとつのタイプとしてあげている。お金とか国家とか法とか社会的関係とか。いわゆる共同幻想のことだ。
  • で、このタイプの現実は「フィクションの特徴と共通した部分も多く、ただ、多くの人々にとって信じられ、共有され、約束されていることによって動かしがたいものとなり、強いられた現実となっています。」(p4)と述べている。
  • 僕が違和感を感じるのはこのあたりな気がする。さっきのセンもそうだし、あと僕が最近はまってる推論主義なんかでもそうだけど、制度的現実というのは、決して誰か偉い人が下々の人々に強制的に与えるものではなく、個々人が対話し、相互承認する中で形成されるものだと考えられている。もちろん、ロシアや中国みたいな権威主義的な国だと、制度的現実は指導者が人々に一方的に押しつけるもので、変えようがない。だけど、必ずしもそればかりがすべてではない。たとえば今だとSDGsに配慮しない企業はクソだということになってかなり評判を下げることになるから、どの企業もSDGsに精を出さなければならない状況になっている。これは、国連で各国の代表がうんざりするほどの時間をかけて議論し合ってSDGsの内容を決めていったことのおかげだし、そもそも国連でそうした議論ができるようになったのも、多くの有名・無名の人々が社会の持続可能性について意見を表明したり独自の取り組みを進めてきたりして、だんだんと社会的な理解が深まってきたからだ。
  • もちろん、制度的現実に対して人々が強制されているという意識を持つことはわかる。だけど、あんまりそればっかり強調してしまうと、具体的なアクションをしそびれてしまったり、あるいは逆上して盗んだバイクで走り出したりしてしまうことにもなりかねないんじゃないか。

p98 リア充グループはなぜ

リア充グループは確かに現実的に勝利しています。しかしその「現実」は、地方都市にある高校のなかでだけ成立している現実といえるでしょう。それは、いま・ここにある人間関係(権力関係)という意味では否定しようのない現実ですが、ほんの少し視界を拡張したりずらしてやるだけで意味を失う程度の現実です。……勝者であるリア充グループもまた、中二病の生徒たちと同じ閉塞のなかにいます。彼らにとって良子の振る舞いは、自分たちの苦労と成功を踏みにじる、「自分たちを最上位に置く世界の秩序」そのものの否定であるように映ると考えられます。現実主義者が夢見がちの人を攻撃する動機はそこにあるでしょう。

  • これは『AURA』という作品について論じている中で述べられていたこと。
  • 筆者のいう現実主義の具体的なイメージはいくつか挙げられているのだけど、ここもその一つといえる。「現実主義者が夢見がちの人を攻撃する動機はそこにあるでしょう」というのはすごくわかる気がする。
  • ただ、やっぱり引っかかるんだけど、こういう世界がすべてでは無いと思うんだよね。中学とか高校ってかなり権威主義的で、リア充グループもその支配力から逃れられない。だから彼らはイライラした乾いた声で笑い、オタクのケツを蹴っ飛ばしたりする。だけど、それも大学に行くとかなり自由になる。スクールカーストは大学ではあまり見られなくなって、リア充っぽい人とオタクがふつうに遊んでたりすることもある(もちろんその大学によると思うけど)。
  • 現実が変えがたい環境と、わりと自由に変えられる環境と、両方あると思う。で、その比率がどういう風になってるか、というのが重要なんじゃないかなあ、と思う。前者が増えてるのか? それとも後者? それをダイレクトに示すデータはたぶん無い。ただ、イングルハートの世界価値観調査なんかだと、社会が経済的に豊かになっていくに従って、人々の考え方はだんだんリベラルなものになっていく、という傾向がかなり明瞭に示されている。それは、現実主義が弱まっていることの傍証くらいにはなるんじゃないだろうか?

p220-221 フィクションの交叉的な機能

戦争という現実、特に原爆の投下という極めて強い現実により、フィクションの機能は完全に失われてしまったのでしょうか。この物語のラストでは、再び「ここ」と「そこ」との通路が開かれて、ささやかながら、フィクションが立ち上がり、稼働するのが認められます。
原爆により右腕を失った母親に連れられて逃げる子供の姿が作中に登場します。右腕を失った母親は、そのまま崩れるように亡くなっています。一人ぼっちになり、何日も過ごした子供は、周作の仕事の都合で広島に来ている右腕のないすずを見つけ、母のしるしを見つけたかのように、傍らに寄り添います。そしてその子供は、そのまま北條の家へと連れ帰られ、亡くなった晴美の服が与えられます。ここで、右手を失い、晴美を失ったすずと、「右手を失った母」を失った子供が、互いの失ったものを媒介に結びつくのです。本来何の関係のない双方のアナロジー的な結びつきこそ、フィクションの交叉的な機能といえます。このようにして、すずにとって、「ここになったそこ」である呉と「そこになったここ」である広島との交叉的絡み合いも、ささやかに回復されるのです。

  • ここは、『この世界の片隅に』についての論述。戦争という究極の「現実」に対して、フィクションが人と人、人と場所の関係性を回復していくプロセスを明示している。
  • ここらへんの話は素直に受け容れられる。前にアニメ版の平家物語について感想を書いたときも思ったのだけど、やっぱりフィクションって、「祈り」みたいな役割があると思う。コスパ中心の世界観でも、あるいはセンみたいな民主主義的な世界観でも、取り扱われるのは「今、存在しているものに対してどういうアクションをとるか」ということだ。だから、「もう存在しないもの」とか「そもそも存在しなかったもの」については無視してしまうことになる。存在しないものについて祈ることで、生きている人が生きていることと折り合いをつけられるようにすることは、フィクションの重要な役割だと思う(筆者が言ってることから逸脱してるかもしれないけど)。

p286 現実主義に抗するフィクション

君の名は。』は、世界そのものが忘れてしまったものを決して忘れないという物語でした。そして『輪るピングドラム』は、純粋な贈与する力となって世界から積極的に消えることで、「存在するより前に消えてしまう(非)存在たち」を肯定する物語といえます……。  フィクションの根拠は、非常にか細くひ弱なものです。現実主義とはいわば「わたし以外わたしじゃない」という世界といえます。それは強い常識であり、その常識を覆すことは困難に思われます。しかし、わたし以外はわたしではないという前提を受け入れてしまうと、現実としてある(「現実」として機能している)この世界以外は、嘘や空想やつくり物でしかないことになってしまいます。それでは、今、目に見えている図柄だけが現実であり、「存在するもの」だと考えることになります。そうではなく、図柄を支える見えない「地」まで含めて存在であり、「地」があるからこそ、この世界は存在するということを考えることが、わたし以外のわたしを考えることです。

  • 僕はレヴィナスが大好きなのだけど、ここらへんの話って、かなりレヴィナスっぽいと思う。
  • レヴィナスはナチ野郎のハイデガーに心底むかついていて、存在論の前に倫理学を置く哲学を構築する。「私だけが存在する」のではなく、私からどうしてもこぼれ落ちてしまう「絶対的に他なるもの」というものがあるという前提から独自の哲学を構築していく。難しすぎて、また復習しないとほとんど説明できないのだけど、『存在の彼方へ』で出てくる「身代わり」という考え方とか、ピングドラムで主人公たちが自ら消えていくところとかなりリンクする気がする。
  • いずれにしても、「地」である見えない他者が実はこの現実という「図」を支えている、という発想は本書の結論とレヴィナスとで割と共有されてる気がする(本書でレヴィナスの話は出てこないから牽強付会かもしれないけど)。
  • レヴィナス云々抜きにしても、こういうフィクション観はすごく納得いく。具体的な政治状況としての「現実主義」に対してフィクションを持ち出すのはなんかちがう気がするけれど、こういう、「わたし以外わたしじゃない」という発想に抗するものとしてフィクションの力を規定するのはとても大事なことだと思う。

おわりに

  • 現実に対するフィクションの役割、っていうので僕自身がよく考える作品はゴールデンカムイだ(アニメっていうか漫画だけど)。ゴールデンカムイは史実をもとにしたフィクションなんだけれど、現実に対する見方を変える力を持っていると思う。
  • たとえば「アイヌ」だけど、この漫画のおかげで、アイヌに対する見方が変わったという人は多いと思う。つまり、「弱者としてのアイヌ」じゃなくて、「かっこいいアイヌ」とか「誇り高いアイヌ」だ。あるいは、「戦うこと」や「暴力」に対する見方も変えてくれたと思う。戦いから手を引くことが常に正しいわけではなく、自分たちの存在を脅かす者たちに対しては時には暴力を行使してでも戦わなくてはならないことがある(ここらへんは、今のロシアによるウクライナ侵略という状況ともリンクしている)。ゴールデンカムイはあくまでフィクションだけど、現実を新たな視点から捉えるためのレンズのような役割を持っているといえる。
  • もちろん、このようにフィクションが持つ受け手の現実認識に影響を与える機能は、場合によっては「洗脳」という形で悪用されてしまうこともあるだろう。ゴールデンカムイの場合は、緻密に資料を調べ上げた上で、とてつもなく個性豊かなキャラクターたちを大量に配置することで、キャラクターたちの相互作用によって物語が展開するようになっている。そのため、キャラクターたちは作者の思想の代弁者ではなく、それぞれがそれぞれの立場から勝手に意見を言ったり行動することになる。こういう、一種のシミュレーションみたいなやり方でフィクションを描けば、洗脳を避けながら読者の現実認識に影響を与えることができるんじゃないだろうか。
  • そうはいっても難しいところだとは思うけどね。芸術作品というのはいつの時代もプロパガンダに利用されがちなものだし。とくに日本人の場合、第二次大戦で詩人とかの芸術家たちが随分やらかしちゃったというトラウマがあるから、なるべく政治的なものとは距離を置きたいというのがあるのかもしれない。かといって、プロパガンダになるのを恐れてフィクションが現実と距離を取り過ぎると、現実に対して何の力も持たないただの気休めになってしまう……。
  • 本書に出てくる「現実主義」というのは現実に対するフィクション側からの無力感を表現している言葉なのかもしれない。そこで、無力であることを逆にアピールして自分たちの清らかな倫理性を示すような浅ましいアプローチもありそうだけど、そういうアプローチは取らないで、フィクションが持つ「現実主義に抗するもの」という役割をできるだけ浮き彫りにしようとこだわってみたのがこの本なのかな、と思う。こういう方向性で、僕自身もいろいろ考えていきたい。