【読書ノート】現代経済学のヘーゲル的展開 第1章

読む動機

  • 青木昌彦が立ち上げた叢書《制度を考える》が好きで、これまで何冊か読んだり積ん読したりしてきた。とくにヒースの『ルールに従う』とか、難易度マックスだけどめちゃくちゃに面白かった。人間は合理的だから倫理的に振る舞うのではなくて、そもそも倫理的だから合理的に振る舞うのだ、みたいな結論。経済学批判の人たちがふわふわしたお説教みたいので経済合理的な個人という人間観を批判しがちなのにうんざりしてたので、ああ、こういうふわふわしそうな議論をこんなにかっちり論証することができるんだ! と感動さえおぼえた記憶がある。
  • で、この本もそういう系統の本みたい。ヒースの場合はブランダムという言語哲学者の議論をベースにしてたけど、こっちはヘーゲル。つったって、この本の参考文献にも実はブランダムは使われているし、そしてブランダムの哲学はヘーゲル哲学とかなり密接な関係がある(というのが推論主義入門という本で論じられていた)。制度論をブランダムとかヘーゲルとかを使って展開していこう、という大きな流れがあるのかもしれない。
  • ぱらぱらめくってみると、アマルティア・センが結構大きな柱として援用されているのがとても気になる。センはロールズのことをいろいろ批判してるけど、ロールズみたいに制度のことをちゃんと論じたことがないじゃないか、と誰かが批判してる論文を読んだことがある。実際、センの出してくる話って「笛がほしい3人の子供がいたら誰にあげたらいいだろうか」とか「寝るとき右向いて寝るか左向いて寝るかはその人の自由だよね」とか、楽しいけれど、具体的にそれをどういう風に社会制度の話につなげればいいんだろう……と思うようなものが多い。だから、僕自身はセンが大好きだけど、自分の研究で具体的にどう応用すれば良いのかイマイチわからないでいる。この本を読むことで、センの新しい使い道が見えてくるかもしれない。
  • 『ルールに従う』ほどじゃないけどやっぱり難易度高そうなので、ちょっとずつ読み進めていく。

第1章 舞台を設定する ――ヘーゲルと経済学

p23-24 制度も精神だ

ヘーゲルにとって精神は、自由へと向かっていく精神の発展の成果として打ち立てられる――あるいは制度化される。それは「達成された個人的精神性や集団的精神性の形態であり、制度という形で具体化された承認関係」(Pippin 2008:39)なのである。……しかしヘーゲルは精神を、個人的レベル(心ないし主観的精神)と相互主観的レベル(客観的精神)の両者において理解している。われわれにとって最も重要な点は、ヘーゲルが実際、精神の諸形態の間の連続性を主張していること、また彼にとって制度的実在が本質的には精神的実在であるということである。

  • 大学2年の夏休み、毎日ひたすらヘーゲル精神現象学を読むという苦行をしていたことがある。入門書みたいなのに全然頼らなかったので、もちろんほとんど意味不明だった。で、読んでて本当にわかんなかったのが、「精神」という言葉の使い方だ。精神っていうと普通は「心」のことだと考える。うれしいとか悲しいとか、そういう主観的な感情みたいのを精神だと思ってた。それなのに、ヘーゲルがいう「精神」は、それだけで人間の社会とか法とか歴史とかを動かしてしまう「なんだか分からんけどすごいもの」という感じで、なんでそんなすごいことになるのかがさっぱりわからなかった。心はしょせん心で、うれしいとか悲しいとかの話でしょ? って感じで。
  • だけど精神というのはここの抜き書きにあるように「個人的レベル(心ないし主観的精神)と相互主観的レベル(客観的精神)」という風にふたつのレベルで捉えられている。で、たしかに個人的レベルでの精神はうれしいとか悲しいとかの話になってくるのだけど、相互主観的レベルになるとそれは制度となる。法律とか市場とかお金とか。つまり、人々が社会生活を行う上で欠かせない仕組みとかツールのことだ。そうしたものもまた「精神」なのだ。
  • で、これは別に、別種類のものに同じ名前をつけてみました、という話ではない。「精神の諸形態の間の連続性」と言われているように、個人レベルの精神と相互主観的レベルの精神は別々ではなく、両者のあいだに連続性がある。それで、どちらも「精神」と呼んでいるわけだ(で、なんで両者に連続性があるといえるのか、というのはここではまだちゃんと論じていない)。

p27 制度進化の歴史的説明

ヘーゲルは、演繹主義的視点……を採用するのではなく、制度的進化の歴史的説明を探求している。ヘーゲルは、合理性を外的権威から押し付けられた規範として取り扱うのではなく、むしろ、ある意味で、歴史的前進として取り扱う。一方、合理性は精神や自由とともに進化する。実際、ヘーゲルにとって、合理的で普遍的なものは認識論的に特徴づけられるだけでなく、歴史的に基礎づけられ、制度的に実現された生活形態の社会的達成でもある。

  • 制度というのが共同主観レベルの精神であるということは、制度は誰か偉い人が勝手に「はい、今日から共産主義ね」と下々に授けるものではなく、人々によって共同で作り出され、そして進化していくものだということになる。
  • ここで、合理性も進化する、という言い方がされてるのが面白い。たとえば今、フェアトレードだとかエシカル消費とかで、他者の利益を考慮して消費をしようという人たちがいる。あるいは、CSRみたいに、企業も金儲けばかりじゃなくて、社会貢献を考えるようになっている。もちろんそれは、「良い人だと思われたい」とか「良い会社だと思われたい」というポーズでやってる部分も大きいだろう。だけど、もしかしたらそれは合理性が進化しているという視点からも理解できるんじゃないか。そして、そういう合理性の進化を説明する理論としてヘーゲルが使えるということなのかなあ、とか。

p38 欲求も労働も規範的である

ヘーゲルは、欲求を規範的概念であり、人倫的生活の表現であると考えている。その理由は、欲求の文化的本質が分業によって媒介されており、したがって自分の労働と他人の労働の両方を通して欲求の実現を遂行しなければならないという必要性によって媒介されていることにある。ヘーゲル市民社会の理論において労働に中心的役割を与え、「労働する権利」という概念を導入しているのは、このためである。人間の労働は教養形成(Blldung)の過程であって、それが労働の分業において実現される欲求の進化を形づくる人倫的生活に能動的に参加することを可能にするのである。欲求も労働もともに、進化する概念の構造によって調整されるが、その概念構造は本質的に規範的で、それゆえ創造的である。すなわちそれは、手段を選ぶことだけでなく、目的を規定することにおける人間の自由にとって構成的なのである。欲求を表現する際の個人的自由は、それらの欲求が行為の共同体のなかに埋め込まれていることを前提している。

  • 人倫ってなんだっけ? もうちょっと後で出てくるのかな。
  • 欲求も労働も規範的概念だ。つまり、人々は好き勝手に欲求してるわけではないし、好き勝手に労働してるわけではない。Aさんがリンゴを欲求する、Bさんが労働してリンゴをつくる、そして、Aさんがリンゴを手に入れて欲求を満たす。こういうことができるのは分業のおかげだ。
  • 分業というと、「分業するから人は他人に無関心になるのだよ」みたいな考え方をする人がいる。たとえばリンゴをつくる人はそのリンゴをつくることにばかり集中して、他の人が何をするのかを考えなくなる。だから分業によって人は疎外され、人間らしいつながりを失ってしまうのだ! みたいな議論だ。
  • でもここで言われているのはそういうのとは逆の話で、むしろ、分業するからこそ、欲求や労働は人々の好き勝手を許さない規範性を持つということが言われている。考えてみればそりゃそうだという話だ。「俺はシャブを欲求する」とか言ってもそういう欲求は規範的にアウトなので、彼の欲求を満たすために労働してシャブを生産してくれる人はいない。逆に、「わたしはチラシの裏にたのしいシャブ漫画を描いて生きていく」とか言って労働してても、それもまた規範的にアウトなので、誰もそういう漫画を欲求してくれない。このように、欲求や労働には規範性があるのであり、他者を無視して好き勝手に欲求したり労働したりはできないのだ。
  • で、そう考えると労働というのは「教養形成」の過程でもあるということになる。チラシの裏にシャブ漫画を描いても誰にも欲求してもらえなかった人は、今度はまじめに原稿用紙を買ってきて、マッチ売りの少女がマッチを人々に買ってもらおうとするけれどぜんぜん買ってもらえなくて最後には凍死してしまうけれど天国でやさしいおばあさんに再会するという感動的社会風刺漫画を描くかもしれない。で、それが編集に「いや、そういうのもうあるから」とか言われて怒られて、今度は鬼とか鬼殺し隊とか出てくる漫画を描いて「うーん。悪くないけどもっとオリジナリティ出してみようか」とか言われて七転八倒して、ついには前人未踏の大傑作を書いてコミックスが5億部くらい売れたりして、さらにはその漫画を読んだ子供が勇気づけられていじめっ子の首根っこつかんで「もう! 二度と! 俺の前にその小汚い面を見せるんじゃねえ!」とか言って、荒れていた中学校を住みよい学び舎に変えるかもしれない。かように、分業とはけっして人々を孤立させるものではなく、むしろ人々が共同して自由を実現していくための条件なのだ。

p47 アソシエーションでの教養形成

共通の目的をもつ諸個人からなる協力的な存在物であれば、なんであれアソシエーションである……ミクロ-マクロ・リンクの確立におけるアソシエーションの役割は、Anderson(2001)が巧みに提示している。彼の主張では、ヘーゲルのアソシエーションは、失業や貧困というマクロ経済的問題にボトムアップな仕方で取り組む制度として構想されていた。ある産業の雇用者の数を規制するだけでなく、ある職業で雇用されている人々の貧困化に終止符を打つような、責任ある消費者行動を促進する方法によってである。ミクロ・レベルにおける、経済の普遍的でより高い次元に対する責任は、ヘーゲルが理性的と呼んでいるものである。理性性(rationality)の向上が教養形成(Bildung)である。それは個人を自らの特殊性の放棄へと導き、単なる利己的動機を超えさせるとともに、他人の意志と利害、そして相互依存の普遍性を見ることができるようにするような文化的形成である。このような悟りを実現化する活動が、アソシエーションの規範的枠組みの内部における仕事なのである。

  • ここでいうアソシエーションって、企業も入るだろうし、NPOとか学会とかも入るわけだよね? 
  • 「責任ある消費者行動を促進する」って何のこと? と思ったけど、注を見たら、贅沢な消費を抑制すること、という風なことが書かれている。アソシエーションに所属することによって、社会的に良い消費の仕方を身につけることができる、というようなことなのかなあ。
  • ボウルズが「社会的選好」とかいうことを言っている。つまり、「シャブやりてえ」みたいな個人的な欲望ではなく、たとえばSDGsみたいな、社会全体がこうあってくれたらいいのになあ、と思うような選好のことだ。たぶん、ここで言っているのは、アソシエーションに所属していることによって、人々はそのような社会的選好を身につけていく、ということなんじゃないかな。ボウルズの議論だと、社会的選好をインセンティブが掘り崩す、みたいなことは言われているけど、そもそもなんで人々が社会的選好を持つようになるのか、ということは論じてなかったと思う。ここでは、個人を社会化していく(個人が教養形成されていく)ための仕組みとしてアソシエーションが取り上げられているのかなあ、と思う。
  • となると、普通に企業にいることによって、そういう教養形成が行われる、ということもあり得るわけだな。もちろん、ブラック企業みたいなところにいたら逆に教養がだだ下がりになることもありうるだろう。先輩にさんざん蹴っ飛ばされたから、俺も後輩を蹴っ飛ばしてやる、みたいな。だけど、「社会人」っていう言葉の本来の意味は、アソシエーションにおいて人が社会性を身につけ、自分のことだけでなく社会全体のことを考えられるようになる、ということなんじゃないだろうか。CSRというのを、そういう風な社員の教養形成(つまり市民の育成)という視点から捉え直すこともできるんじゃないかなあ、とか思った。