【読書ノート】『ヘーゲルの実践哲学』二章途中まで

読む動機

  • 『現代経済学のヘーゲル的転回』という本を読んで、すごく面白かったのだけど、わかんないところもたくさんある。
  • とくにわかんないのが「相互承認」のところ。簡単に言えば、お互いにちゃんと理由を言い合いながら、みんなが納得できる規範をつくっていくみたいなことではないかと思う。ここで、「理由」というのがキーワードみたいだ。ただ、じゃあなんで、理由を言い合ったら良いのか、というのはいまいちよくわからない。
  • たとえば、理由を明示することで、かえって話がこじれるというのもあるよね。「いやらしい漫画を取り締まるべきではない」という規範をつくるとき、表現の自由を理由にしたら割と通りやすいと思う。でもそこで馬鹿正直に「私はいやらしい漫画が好きだから取り締まられると困る」と理由を述べると、かなりブーイングを食らうだろう。それで、「小中学生をモデルにしたような漫画は取り締まるべきだよねえ」と相手側に譲歩したようなことを言ったりもする。でも、実はその人は高校生好きのロリコン野郎であって、小中学生好きのロリコン野郎をスケープゴートに利用することで、自分の欲望を隠しながら都合の良い規範を作ろうとしているだけなのかもしれない。
  • 理由には「あからさまに言ったら物議を醸しそうな理由」というのもある。で、大人はそういう理由をあからさまに言うのは避けて、もっと穏当な理由にすり替えて議論に臨むものだろう。しかしそうなると、理由というのは詭弁の道具に過ぎないということになって、規範を定めるための公共的討議はただの政治的交渉に過ぎないということになる。いかに通りの良さそうな理由をでっちあげて、自分にとって都合の良い規範に着地させるかが勝負、というわけだ。
  • 相互承認を人に説明しようとしても、たぶんこういうことを突っ込まれると思う。このままだと自分の研究に応用できないから、もうちょいきちんと勉強しようと思ってこの本を手に取ったわけです。

第二章 自然と精神(心)――ヘーゲルの両立論

さて、第一章は本書の概要の要約なので、要約をそれ以上要約するのは無理だから、飛ばして二章から始めたいと思う。

p60 精神は「心」や「魂」ではなく制度です

本章で私が論じようとしているのは、もし精神を心(mind)や魂(soul)と考えるならば、私たちは精神を誤解することになる、ということである。むしろ、精神という語が指示しているのは、上述のようにして達成された個人的精神性や集団的精神性であり、制度という形で具体化された承認関係に他ならない。

  • ヘーゲルの言っていることを哲学の入門書なんかで読んだりすると、精神がどんどん発展していくとか、絶対精神がどうたらとか、なんかオカルトっぽい記述を目にして「うわ」となりがちだと思う。
  • そこで「うわ」と思ってしまうのは、精神を「心」とか「魂」とかのことだと考えるからだと思う。たしかにそれだとオカルト話になってしまうけど、そうではなくて、精神とは「制度」のことだ。たとえば市場だって制度だし、民主主義だって制度だし、法律だって制度だ。何らかの超能力みたいなものを想定しているわけではなくて、もっと普通のことを考えているのだと理解しておくと、この後の議論を受け入れやすくなると思う。
  • さて、この本は制度そのものをテーマにした本ではない。むしろ、「自由」をテーマにしている。

p56 自由であるなら、行為や企てを自分のものとしなくてはならない

私がヘーゲルとともにこれから提案するのは、私たちが「自由とは何なのか」と問うさいに説明できるようにしたいのは次の条件である、ということである。すなわち、この条件を充たすには、私の様々な行為や企てが私自身の行為や企てであり、しかも私自身がそうであると経験することができなくてはならない。つまり、それらの行為や企てを私自身の行為者性(agency)を反映し表現する出来事として経験することができなくてはならない。

  • ここで言っている「自由」とは、「別様にもなしえた能力とか、自分勝手に行う能力(選択の自由)」(p58)とかのことではない。ヘーゲルによれば、「そうした自由は自由に関する妄想」(p58)だ。というのは、ものごとには文脈というものがあるのであって、文脈無視で好き勝手に行為することなんてできないからだ。たとえば今晩ビールを飲みたいのは会社で上司にひどいことを言われたからだし、ラーメンライスを食べてしまうのはラーメンライスを幸せそうに食べる人を見てぐっときてしまったからだ。「おれは好き勝手にやってやるんだああああ!!!」とか言ってても、ちっともお前は好き勝手じゃない。なあいいか、お前の言っているのは自由なんかじゃない。自由ってのはそんなもんじゃねえんだよ…。ヘーゲルはやけになったラーメンライス青年にやさしくそう語りかける。
  • それではヘーゲルの語る「自由」とは何なのか? それは「自己意識の自己自身との同一」(p63)のことだ。はあ!? すみません、そういう言い方されてもわからないんですけど! ヘーゲルはなにしろ19世紀前半の人なので、言い方が独特でわかりにくい。それを本書の著者のピピン先生はもうちょいわかりやすく説明してくれる。

p65 理性で自己拘束するから自由

この「自己意識の自己自身との同一性」という、限りなく単純化された言葉で表されているのは、道徳的、倫理的、政治的な規範的拘束に対する主体の関係である。この関係において、これらの規範的拘束は「外的なもの」としてではなく、むしろ「内的なもの」として経験されるのであり、外から課せられたものではなく、むしろ「私のもの」であるという仕方で経験される。そして、ヘーゲルは通常、このように規範的拘束を肯定すること・規範的拘束を私に同一化することの条件として「理性」を引き合いに出し、しばしばこれらの拘束が「主体自身の理性」であると主張している。これは、ヘーゲルが自由を特徴づけるにあたって最も頻繁に用いる言い方、つまり「他なるもののうちにあって自分のもとにあること」において問題となっているのと同じことなのである。

  • 「いやらしい漫画を読んではいけません」と誰かから一方的に規範を押しつけられたのだとしたら、その人は全く自由ではない。だけど、もしその人が自分で納得してつくった規範なのだとしたら、自分で自分を律しているわけだから、自由だといえる。ヘーゲルの考える「自由」とは、「好き勝手にやる」ということではなく「自分で自分を律すること」なのだ。
  • で、そういう「自分で自分を律する」役割を担うのが理性なのだという。ふーん、じゃあ、理性ってなんだい。そいつは食えるのかい。そいつは金になるのかい。まあまあ、焦るなって。ヘーゲルは言う。食うとか、金とか、そういう話じゃねえんだよ。俺が言いたいのは人倫のことさ。なあ、わかるかい? 人倫ってのは、一朝一夕にたどり着けるもんじゃねえんだよ。俺たちは近代に生きてるんだぜ? ここまでたどり着くのに、人類がどれだけの犠牲を払ってきたのか、ラーメンライスに胸焼けしてるお前さんにはわかるめえ…。
  • という感じで、牛の歩みで読み進めていこう。ヘーゲルのキャラづけはちょくちょく変わるかもしれない。いっぺんに読もうとすると難しすぎて心が折れる