【用語集】義務論

 義務論では、義務に従うことが倫理的に善いことだとされている。そんなの当たり前だと思うだろうか? まあ、そうだ。でも、一見当たり前なこの主張を裏付けるカントの推論は割とアクロバティックでそれなりに興味深いものなので、もう少し詳しく見てみる価値はある。カントってだれ? 昔、そういう偉い哲学者がいたのです。

 正直であることは人間の義務だ。だからこそ、子どもが嘘をついたら親は叱るし、平気で嘘をつく人は他人から疎まれる。『オオカミ少年』っていう教訓話もあるくらいだし、この社会において嘘は忌み嫌われているのだ。だから、嘘をつかないこと、つまり正直であることは人間の義務であると言って良いだろう。

 だけど、世の中には「優しい嘘」や「親切な嘘」というのがあるのも事実だ。相手に対してよかれと思うからこそ嘘をつくのだ。それを倫理的に「悪」と言って良いものだろうか? 

 それで良いのだ。嘘をつくことは常に悪い。カントならそう言うだろう。

 カントは、人間は義務に従うからこそ自由なのだと考える。相手に同情して優しい嘘をつきたくなることもあるだろう。でも、それは結局は感情に流されているに過ぎない。それでは動物と同じだ。感情に逆らいながらもそれを振り切り、義務に従う。それは人間にしかできないことであり、人間が自由であることの証拠だ。人間は、義務に従うからこそ自由なのだ。そして、感情に負けて義務を捨てるのは、自由という、人間にとって一番大切なものを失ってしまうことに等しい。

 ここで言う義務は、誰かから与えられたものではない。たとえば何らかの宗教上の義務ではないし、そのコミュニティの中で慣習として根付いている義務でもない。そうではなく、これが義務だと自ら選択したものが義務なのだ。なぜなら、そうでないと、人間は誰かから与えられた義務によって束縛されていることになってしまうからだ。繰り返すけど、カントの考えでは、自由は人間にとって非常に大切なものだ。これがなければ人間は人間でないと言っていいようなものだ。だから、義務は誰かから与えられるものではなく、自ら選ぶものでなくてはならないのだ。

 もちろん、現実には義務を選択する場面なんてない。あくまで思考実験として、もし義務を選択する場面があったとしたら選ぶであろう義務、ということだ。

 カントは「もしあなたが選んだ義務を、他の人全員が選んだらどうなるか?」という思考実験を提案する。たとえば「嘘をついてはいけない」という義務を考えてみよう。この義務を他の人全員が選んでも何も問題はない。みんなが正直になるだけだ(もちろん、嘘という潤滑油のないギスギスした社会にはなるだろうけれど)。逆に、この義務を選ばなかったら、「嘘をついてもいい」ということになる。すると、嘘をつくことが誰にもとがめられないのだから、世の中は大混乱に陥るだろう。オオカミ少年だらけの社会だ。となると、「嘘をついてはいけない」という義務は誰もが同意せざるを得ないものになるだろう。つまり、思考実験をクリアしたということだ。

 ここまでのカントの推論は完璧のように思える。人間は自由だからこそ動物とは異なる存在であり、自由であるためには、人間は感情に流されるのではなく、自ら選んだ義務に自ら従うのでなければならない。論理的にいえばそうだ。だけど、なんかおかしい。だって、実際、嘘をつく人はたくさんいる。優しい嘘も、悪意に満ちた嘘も、めんどくさくてつく嘘も。様々な嘘を人間は日常的についてる。しかし、それでも社会はちゃんと成り立っている。また、嘘をついてはいけないという義務を破ったからといって、人間が不自由だとも思えない。むしろ、自由だからこそあえて義務を破る、というのも人間のひとつの側面だろう。常に義務に従っている人は、むしろロボットのように見えてしまうのではないだろうか? 少なくとも、すべての登場人物が義務に従っているような小説や漫画は恐ろしく退屈だと思う。

 カントの議論の問題は、カントが考える人間のあり方には何も社会的土台がないことだ。人間はこの世に生まれ落ちたときから社会の中で生きている。家庭にいるときは「子ども」であるし、学校に行けば「生徒」とか「同級生」とか「友だち」という顔を持つようになる。そして大人になれば「恋人」「親」「上司」といったまた新しいあり方を手に入れるだろう。人間が従う義務は、そうした社会の一員としての人々が、お互いにコミュニケーションし合うプロセスを通して受け入れるものだ。たとえば、子どものときは親から義務を教えてもらうし、大人になって家庭を築けば、配偶者や子どもと日々つきあう中でその家庭独自に義務がなんとなく作られていく。あるいは、会社の労働者として周りとストに参加し、「会社は従業員の生活を考えるべきだ」と新たな義務を会社に課すこともあるだろう。そして、こうして自分たちでつくった義務だからこそ、人々は進んでその義務に従うことになる。これこそが自由だ。部屋に閉じこもって「この義務を他の人も受け入れたら」のような思考実験をすることで義務を選んだって、そんな義務には誰も見向きもしないだろう。

 そもそも、「嘘をついてはいけない」という義務が思考実験をクリアしたとしても、その義務に従わなければならないという理由は何もないだろう。仮に、「思考実験にクリアした義務には従わなければならない」などというメタレベルの義務があるとしても、どうしてその人はそういうメタレベルの義務に従うことになったのか? カントの推論に飛躍があるのはここだ。そもそもなぜ人は義務に従う動機を持つのかということについて、カントはきちんと考えていない1。この問題を解決するには、まず部屋から出てみるべきだ。そうすれば、その人は「親として当然こうするべき」とか「社会人ならこうしないといけない」みたいな様々な義務に出会うだろう。そして、その人はそうした義務に従わなければならないと感じる。なぜなら、その人は社会の中でこそ、その人でいられるからだ。義務に従うことは、その人の社会的アイデンティティに埋め込まれているのであって、その人がその人である以上は、義務に従わないわけにはいかないのだ。

 義務は哲学者の思考実験によって発見されるものではなくて、人々が歴史的にさまざまな妥協を積み重ねていくことで生み出されてきたものだ。たとえば「嘘をついてはいけない」という義務は、そのままでは多くの人にとって受け入れがたいものだろう。だから、もう少し妥協して「裁判において証言者は嘘をついてはいけない」とか「ビジネス上の契約において双方は嘘をついてはいけない」のように、限定的な場面だけで「嘘をついてはいけない」という義務を適用している。

 別の見方をすると、義務とは一種の制度だ。そして、制度はその社会に生きる人々が相互に承認することで、初めて力を持つようになる。たとえば駅で「エスカレーターでは2列に並びましょう。歩いてはダメですよ」みたいな張り紙がされているのをよく見かけるけれど、誰も守りやしない。それは、そこに書かれている義務が利用者たちによって承認されていないからだ。義務は、一人で勝手に頭の中だけで考えていても義務にはならない。他者と議論したりしながら相互承認することで、初めて義務は守るべき義務になるのだ2


  1. ここらへんのカント批判はピピン(2013)『ヘーゲルの実践哲学』の「第三章 自分自身に法則を与えることについて」を自分なりにかみ砕いたもの。
  2. ここらへんはヘルマン=ピラート&ボルディレフ(2017)『現代経済学のヘーゲル的転回』を参照した。ちなみに、同書の中では、ヘーゲルの相互承認論によるカント批判は、アマルティア・センによるロールズ批判と対応するものとして展開されている。つまり、カントは「完璧な正義」を追い求めているけれど、ヘーゲルは歴史的に進化する「相対的な正義」を重視している。そして、完璧な正義なんて実現不可能である以上、カントの義務論は現実世界において有効性を持ち得ないのだ。