【研究ノート】SDGs論文の準備

はじめに

  • 論文を書かないとならない。もうデータも集まってるし、分析もだいたい終わってる。でも、ストーリーがイマイチ定まってない。放置期間が長くなればなるほどやる気が無くなるという悪循環もある。なんとかせねば。
  • ストーリーが定まらないのは、ちょっと微妙なことを言おうとしているからだ。基本的には、エシカルとかSDGsとかを推進するアプローチみたいのを提案する、というものだ。だけど、既存のアプローチに対しては批判的な立場でもある。
  • あんまりこれまでに無い問題意識に立っているので、「○○も言っているように……」みたいに他の論者に頼るわけにいかないし、ストレートに論述したら普通の人とパラダイムがちがいすぎて「意味不明」と言われる危険もある。また、既存のアプローチを批判しようとすると既存のアプローチについてそれなりに勉強する必要もあるわけで、それもおっくうだ。いや、勉強はしてるけど、そういう既存のものがダメだというスタンスで研究してるので、本読んでも論文読んでも「やっぱりダメだね」と思うばかりで面白くない。だからおっくう。
  • なので、ブログに愚痴を書き散らすみたいな感覚で書いていけば書けるのかなあ、と甘い思惑があって、ここに書いてみるのです。

論点:SDGsってどうよ?

SDGsの扱われ方に対する違和感

  • SDGsというのは良いことだと思うけれど、個人的にはあんまり好きじゃない。とても大事なものであることはわかるけれど、その受容のされ方がとても軽薄なのではないかい、というので。
  • たとえば、前に僕のいる学会にアンケートが届いたことがある。「貴学会はSDGsに関してどのような取り組みを行っておるのかね」というような奴だ。で、それに対して事務局は学会誌をパラパラめくって研究内容を調べて、「SDGsのゴールのこれとこれとこれに該当してます」と回答した。で、終わり。このアンケートが何に活用されたのかもわからんし、学会の取り組みがその後SDGsに対してもっと積極的になったということもない。形式的に「やってる」という姿勢を見せればそれで終わり、という感じになってしまっているんじゃないか。
  • また、世間一般での受け止め方も、けっきょくは「環境を守ろう」ということを言い換えてるだけのような気がしている。たとえば今のロシアによるウクライナ侵略は完全にSDGsに関わる問題だ。「平和と公正をすべての人に」というゴール16に該当する。だけど、ウクライナの問題をSDGsに絡めて論じる人はあんまりいない(今調べたらちょっといた)。あるいはコロナの問題だって、「すべての人に健康と福祉を」というゴール3に関わってくる。だけど、「SDGs達成のために、貧困国の人々がワクチンを打てるように支援しましょう」なんていう人も、少なくとも一般メディアでは見かけない。前にたまたまテレビを観てたら、SDGsのための省エネグッズみたいのを紹介した後に、「では、コロナ情報です」みたいに内容が切り替わってしまったのだけど、これらはいずれもSDGsに関わる内容で、別々のものではない。でも、世間一般では、SDGsはあくまで環境に関わるもの、という風に受け止められてしまってるんじゃないだろうか。
  • かといって、「SDGsは民衆のアヘンである」みたいな物言いも嫌いだ(ここらへんの僕のどっちつかずな立場が論文執筆を困難にしている)。例の人新世本は途中まで読んで、「ちょっと無理」ってなったので積ん読になってる。具体的に「ちょっと無理」ってなったのはここらへん。
    • ノードハウスをやっつけて「だから経済学者はダメだ」みたいなこと言ってるけど、ノードハウスの議論の検討に使うページ数が足りなすぎ。90年代初頭の昔の論文を持ってきて、ノードハウスの提唱してる二酸化炭素削減率だと地球の平均気温が3.5度上がるからダメだ、みたいなことを言ってる。だけど、それが具体的に社会や生態系にとってどんな影響を与えるのか、ということまで触れないと、批判にならないと思う。ノードハウスが2013年に出した『気候カジノ』を参照しないでわざわざ古い論文を持ってくるのも意味わかんないし。
    • で、気候変動が具体的にどんな問題を引き起こすのか、ということはほとんど検討しないまま、「気候変動問題への対処法=気候変動を完全に止めること」という風に勝手に問題設定してしまう。で、そうなるとSDGsも「持続可能な緑の経済」の旗印に過ぎず、経済成長を否定していないのだから欺瞞に過ぎない、という極端な結論が引き出されることになる。だけど、それはそもそもの問題設定がおかしいからだ。気候変動による社会や生態系への影響を具体的に検討せずに、「とにかく気候変動は問題なんだ。少しでも気温上昇を許容するのは欺瞞なんだ」という風にしてしまうから、「だから資本主義はダメ」「SDGsはアヘン」「やっぱり脱成長」という変な結論が引き出されてしまう。論述の仕方としてとてもずさんだと思う。

SDGsを自分事にすることが必要

  • で、僕自身は、世の中のSDGsに対する関心の持ち方は軽薄だなあと思うし、確かに「SDGsって言っとけばなんか良い感じじゃない?」という風潮は、SDGsがアヘン化してしまってる証拠のような気もしている。だけど、「だから脱成長」とか言ってしまったら、むしろその方が欺瞞だと思う。
  • 僕としては、SDGsを人々が自分事として捉えられるように働きかけていくことが重要なんじゃないかと思う。ようするに、SDGs教育ということ。だけど、ただたんに「それでは、SDGs達成のために何ができるかクラスのみんなで考えてみましょう」みたいなことをやってもあんまり話に広がりが出ないんじゃないかなあ、という気がする。「僕は、使っていない部屋の電気をこまめに消すようにしました」とか「わたしは、歯磨きのとき水を出しっぱなしにしないようにしました」とか。それだとこれまでの環境教育となんにも変わらない。そういうんじゃなくて、「そもそも持続可能性ってなんなんだ?」ということをひとりひとりが考えて、ひとりひとりが自分なりのSDGs観を構築できるような教育が必要なんじゃないか。そうすれば、別に誰かに言われなくても「そういえば、ウクライナの問題もSDGsだよなあ」とか「コロナもSDGsじゃない?」とか、自分なりに現実をSDGsという視点から問題化することができる。いわば、個々人が現実をいろんな角度から捉え直してみるためのレンズとしてSDGsを教育していくということだ。
  • (ちょっとここらへんで議論にあちこち飛躍がある気がする。たとえば、なんでいきなり教育の話になっちゃうの? とか)

社会制度や政策のベースとしての市民と教育

  • ところで、学校教育をどうにかしたところで、SDGsに関わる問題が劇的に変わるとは思ってない。
  • 教育に期待する人は多い。たしかに、教育水準が高ければ、環境配慮的な価値観を持つ人やリベラルな価値観を持つ人の割合も多くなるということは結構言われてる(ここらへんはNEP関係の調査研究とかイングルハートの世界価値観調査をみれば出てくると思う)。
  • だけど、問題は政策や社会制度が変わるかどうかだ。個々人がクーラーの温度を2、3度上げたりエコバッグを使ったりしても世の中はあんまり変わらない。ちょっとは変わるけど、あくまで「ちょっと」だ。そんなのより、炭素税を導入するとか、原発を再稼働させるとか、政策レベルで対応した方が社会的インパクトは圧倒的にでかいはずだ。(こんなようなことをジョセフ・ヒースもどっかで言ってたけど今手元に本が無い。でも論文に引用したら面白いかも)
  • それでも教育が大事だと僕は思う。それは、市民を育成するという意味があるからだ。
  • 確かに、個々人の行動では世の中はあんまり変わらない。だけど、社会制度や政策を実現するのは個々人の意識でもある。ここのところは結構ややこしい関係になっているのでもうちょいと考えてみよう。
  • たとえば、日本ではレジ袋の有料化に関して、結構文句を言う人が多い。なんか知らんけど勝手に有料化された、みたいな被害者意識があるのかもしれない。だけどこれに対して、アイルランドではレジ袋1枚につき確か20円くらい課税されているのだけど、国民からはあんまり文句が出てないらしい。
  • レジ袋使用の抑制という政策に対して、日本とアイルランドで国民の反応はぜんぜん違う。実は、アイルランドではレジ袋税導入に先駆けて、国民に対してかなり辛抱強く説明をしたり、地域で議論し合う場を設けたりしていたらしい。それにより、国民はなぜレジ袋利用を抑制するべきかを理解し、納得した上でレジ袋税を受け容れることになった。日本の場合はあんまり事情は知らないけど、少なくとも僕は日本政府からレジ袋有料化について丁寧に説明を受けたという記憶が無い。それで、日本人からしたら「勝手にレジ袋を有料にされた」という否定的な意識がつきまとってしまうんじゃないか。自分たちが自ら受け容れたのではなく、政治家や官僚たちに押し付けられた、ということだ。
  • こういう風に、制度や政策を実効的なものにするには、国民からの理解が必要だ。で、そこでいう「理解」というのは、単に制度や政策に関するパンフレットを配って「じゃあ見といてね」という風にすれば達成できるものではない。官僚が上から「説明」しても、国民からしたら「知らねえよ」ってなるわけだ。そうではなく、そうした制度や政策がなぜ必要なのか、国民が自分の言葉で語り、他の人と議論できるくらいにならないと、理解しているとはいえない(ここらへんはブランダムの推論主義を使うともうちょっと厳密に論じられると思う。ようするに、自分なりの推論ネットワークを運用できるようになることが理解だということ)。
  • 「社会的選好」という言葉がある。選好というと普通は「俺はリンゴを食いたい」とか「アニメ見てえ」とか、ようするに自分の利益に関連付けてものごとを評価することだと考えられている。だけど、そういう個人的な選好と別に、「地球環境を守るべきだ」とか「資源を次世代に残すべきだ」みたいな、社会的に望ましい事柄もある。そういう、社会的な望ましさという観点から個人がものごとを評価するのを社会的選好という。人には「消費者」という側面と「市民」という側面がある。消費者としては自己利益に関わる個人的な選好にもとづいて行動する。だけど、市民としては個人的選好よりも社会的選好を優先することもある。そういう、市民が持つ社会的選好によって、社会制度や政策は支えられている。なぜなら、もし人々が社会的選好を持たなかったら、人々は自己利益最大化を優先してフリーライダーとして振る舞うだろうからだ。そして、全員がフリーライダーになるということは、人々の協力行動が成立しないということだから、社会制度も実効性を失う。あるいは、そもそもそうした社会制度が成り立たなくなる。たとえば、選挙で環境問題への取り組みを掲げる候補者は軒並み落選するだろう。そのため、環境保護関連の社会制度は全く成り立たなくなってしまう。あるいは、国がSDGsをいかに盛り上げようとしても、環境配慮を一切しないことによってコスト削減に成功した商品の方が売れるので、企業も環境配慮に取り組まなくなる。
  • このように、社会的選好を持つ市民が一定数いなくては、社会制度や政策は実効性を失ったり、そもそも成立しなくなったりしてしまう。それに対応して、企業も社会貢献に取り組まなくなってしまう。市民ひとりひとりがエコバッグを使ったって世の中なんにも変わらないけど、社会制度や政策にインパクトを与えることで、世の中を変えることができるかもしれない。
  • で、市民の社会的選好というのは個々人が生得的に持っているものではなく、教育によって形成されるものだ。親、地域、教師、書物、あるいはネットの情報等々で、個々人は市民として育成されていく。市民としての社会的選好を形成するために、やはり教育は大事なんじゃないか、というのが僕の考えだ。
  • で、それが、先に書いた「SDGsを自分事にする」ということにもつながってくる。SDGsに関わる社会的選好を形成する、ということだ。それは、「世間的に良しとされているものに対して人々が社会的選好を持つように洗脳する」ということではない。何に対してどんな社会的選好を持つのかはその人の自由だ。ただそれが、何らかの形でSDGsと関連づけられるよう大まかな方向付けをするべきだ、ということだ。
  • (ここらへんの話は、今勉強中のヘーゲル本を使うともっとうまく説明できそう。個々人の心と社会制度のあいだには連続性がある。そして、個々人の教養形成をすることで、より良い社会制度が求められるようになってくる、とか。アソシエーションうんたらの話も使えるかも)

じゃあ具体的にどんな教育をすればいいの?

  • 今回の内容は論文でいうとまだ1章か2章くらいの話なので、大まかな方向性だけ書いておく。
    • 何らかの形で対話を取り入れていること。
      • 自分なりの推論ネットワークを運用できるようになることを「理解」と考えるのなら、対話を通して、自身の推論プロセスを他者に対して明示化することが必要。
    • 推論過程について相互批判する局面が含まれていること。
      • つまり、「これは俺の理解の仕方だ。文句あっか」ではなくて、相互批判を通してものごとに対する理解の仕方にある程度の公共性を持たせるということ。そうでないと、社会制度という話にまでつながっていかない。
    • 未知のテーマだけど、題材としては身近なものを扱うこと。
      • ここらへんがちょっとひねってるところ。つまり、未知のテーマでないと、回答例がある程度そろっているので、自ら推論ネットワークを形成するという風になりにくい。その一方で、身近な題材でないと、どのように議論すれば良いかわからない(その人の中の既存の推論ネットワークとある程度関連性がないと、ネットワークに新たに枝を付け足してく作業もできないと思う)。
      • もちろん、こうしたテーマや題材の設定によって、議論の方向性がある程度決まってしまうというバイアスはある。だから、「今回の議論にはこういうバイアスがかかってるから、次はこういうバイアスをかけよう」みたいに意識的であることが重要。

とりあえずここまで

  • なんとなくストーリーが見えてきた気がする。
  • ヘーゲル本はやっぱり勉強した方がいいな。かなりメインで使いそうな予感。
  • あと、推論主義も、最初は注でちょっと出すくらいで考えてたけど、割と前面に出さないとダメかも。
  • SDGs教育の実態みたいな文献があると議論に説得力が増すのだけどな。個々の実践報告みたいな文献はたくさんあるんだけど、全体像がよくわからんので、もっと総論的なものがあるといい。
  • エシカル系の文献はあんまり調べないでもいいかも。
  • あと、今回、SDGsに対する違和感をたらたら書いたけど、これを論文で書くのは何かちがうと思う。もうちょっと、現在のSDGsに関する取り組みの問題点を客観的に整理した文献があると良い(それで人新世本を読んだのだけど、ぜんぜん期待外れだった)。