自分の中の第3次ゲームブーム

  • ゴールデンウィーク中であんまり勉強する気になれないので、エッセイみたいなのを書いて暇つぶしをする。
  • 20年くらいほとんどゲームから離れていたのだけど、この1年半くらいは結構ゲームをやるようになっていた。ほとんどはSwitchでプレイできるインディーゲームだ。ジラフとアンニカ、UNDERTALE、フェノトピア、A Short Hike、天穂のサクナヒメ、Stardew Valley...。今はホロウナイトを途中までやりかけて、ちょっとゲームやってる場合じゃないような状況になってしまったのでストップしている。だけどそろそろ我慢できなくなって再開すると思う。あと、年内に発売予定のGOODBYE WORLDというのが紹介記事のグラフィックをみてすごく気になってるから多分買う。自分の中で、ゲームが完全にブームになっている。
  • 小中学生の頃はゲームに取り憑かれていた。どれくらい取り憑かれていたかというと、大地震や大空襲が起こったらとにかくスーファミ本体とソフトを最優先で回収して避難しようと密かに計画し、でもそのまま家が壊れて住む場所がなくなってしまったらどこでゲームをすればいいのだろう? と考えて絶望する…。そんな無益な思考を日常的に延々と繰り返すくらい取り憑かれていた。たくさんソフトを持っているわけではなかったので、同じゲームばかりをエンドレスでプレイしていた。ファミコン版の信長の野望もやりこんで、柿崎で天下統一の一歩手前の状態まで領土拡張しながらあえてクリアせず、君主が寿命で死ぬのをリセットで強引に回避して22世紀まで生き延びさせるとか、誰ひとり得をしない暗い遊びに興じていた。
  • でもそれが、ゼルダの伝説時のオカリナをプレイして、なんかもういいや、ってなってしまった。時のオカリナは文句なしに素晴らしいゲームだ。これまでにプレイしたゲームのトップ5を選べと言われたら間違いなく入る(他はMOTHERとかMOONとかフェノトピアとか)。だけど、当時中3だった自分は、なぜかそれからゲームをやらなくなり、夏目漱石とか芥川龍之介とかカミュとかを読み始めた。多分、これ以上ゲームをやっても廃人になるだけで、人間的に成長しないだろうと思ったのだろう。ゲームブームが終焉した後、人間的成長ブームが15、6年くらい続いた。めんどくさい小説を読み、シュールな映画を鑑賞し、難解な哲学書に頭を抱えた。結果的に、お釣りの計算や飲み会の幹事もろくにできない浮世離れした人間となった。そして人間的成長ブームもまた終焉したのだった。
  • ゲームやりまくって廃人になるか、めんどくさい本を読んで浮世離れした人間になるか。3つ目の選択肢もありそうな気がするけれど、頭が悪いので思いつかない。それで、またゲームに回帰しつつある。
  • ゲームをやらなくなった理由をもう一つ挙げるなら、プレステやサターンや64が出てきたとき、「これじゃない」と思ってしまったというのもある。当時、ゲームはなんでもポリゴンだった。3Dにする必要がないゲームまでガンガン3Dになって、スネ夫まで3Dになってしまった。時のオカリナは素晴らしかったけど、全体的にキャラが角ばってて怖かった記憶がある。あと、3D特有の動きも怖かった。酔うし。多分、不気味の壁みたいなものだったと思うのだけど、3Dになって、なんとなくゲームの世界が不穏で安らげないものになってしまったのだ。それも、ゲームをやめた理由だと思う。
  • 20代の頃は、MOTHERシリーズとMOONをプレイしただけだ。でも、どちらも「これだ!」と思えるものだった。2次元で表現されたオモチャ箱のようなマップ、シンプルだけどセンスのあるキャラ造形、そしてシュールな世界観と、毒のあるストーリー。小中の頃夢中になったスーファミのゲームに、高校以来ハマってきた文学をのっけたような作品だった。こういうのがゲームなら、またゲームにハマってもいいと思った。でも、他にこういうゲームがあるようには思えなかった。もしかしたらあったのかもしれないけれど、少なくとも当時の自分は見つけることができなかった。やがて第2次ゲームブームは短い期間で終焉した。
  • そして今、インディーゲームによって自分の中に第3次ゲームブームが到来している。
  • もちろん、インディーゲームだってピンキリだ。というか、キリの方が圧倒的に多いらしい。だけど、そういうキリのゲームをプレイして「キリだ!」と判別してくれた無名の先人たちのおかげで、素人でもどれがピンなのかかなり見つけやすくなっている。インディーゲームの何が面白いのか? というのは一般化はできない。今書いた通りピンキリだし、ピンだっていろんな方向にピンピンしてて一様ではない。ただ、ピンのインディーゲームをやっていると、自由さと、不思議な安らぎを感じるというのは言える気がする。
  • 例えばフェノトピアは大手で絶対に出せないゲームだ。作り込みが尋常でない。2Dのドット絵アニメーションはまるで生きてるみたいに滑らかだし、街で出てくるちょいキャラみたいなのにもしっかり個性的なセリフが当てられているし、背景も音楽も美しくただフィールドを走り回っているだけでも楽しい。製作者自身もコメントで、あまりに作り込みすぎたから自分達は最低賃金さえも回収できてないとぼやいているくらいだ。大手だったら確実にどこかでストップが入って、もっと効率的にするよう開発方針が変更させられていたはずだ。こういう、自分達が納得いくまでゲーム世界を作り込む半ば狂気じみた姿勢に自由さを感じる。そして、ゲームの端々に込められている製作者の思いに触れることで安らぎを感じる。安らぎというのは、一種の連帯感のようなものでもあると思う。自分は受け身でプレイしているのではなく、プレイを通して、製作者たちと一緒にそのゲーム世界に命を吹き込んでいるような感覚がある。
  • これは、自分がこれまで文学に感じていたのとかなり似た感覚だ。文学もまた自由だし、読者は受け身ではなく、注意深く読むことを通して作者と共に仮想世界の立ち上げに関わる。昔、自分が文学に対して抱いていた憧れみたいなものを、今はインディーゲームに対して抱くようになっている。
  • 3Dかどうかというのは実は本質的な問題ではなかったみたいだ。例えば先に挙げたインディーゲームで、ジラフとアンニカも天穂のサクナヒメも3Dだ(しかもジラフとアンニカは割と3D酔いしやすい)。だけど、やっぱりこれらにもピンのインディーゲーム特有の自由と安らぎを感じる。
  • さらに言えば、インディーゲームであるかどうかというのも本質的な問題ではないだろう。大手が出しているゲームにだって、インディーゲームと同じくらい狂った熱意で作り込んだ作品があるはずだ。ただ、今は、これから10年かけてもやり尽くせないほどのピンのインディーゲームのストックがあるし、これからもどんどん増えていきそうだ。しばらくはインディーゲーム界隈を彷徨き回って、自分の中の第3次ゲームブームを楽しみたい。