【読書ノート】『グリーン経済学』1章~7章

 ノードハウスの本は『気候カジノ』につづいて2冊目。

 評判がいいので読み始めてみて、今のところ18章まで読み終わっているのだけど、正直かったるい。冗長なんだよ…。この内容ならたぶん200ページくらいで収められると思うんだけどなあ。

 今のところの印象は、「環境経済学+α」といった感じ。環境経済学の教科書と同じようなこと言ってらあ、というところもかなり多いのだけど、もうちょっと広い視野を持っているようにも思う(環境の話だと思ってたのに、11章なんかはコロナパンデミックの話になってるし)。ただ、やっぱり書き方が冗長なせいで、どこらへんが環境経済学と違うのかが見えにくくなっている。

 1章ずつ丁寧にまとめていくのはしんどいし、新しい本だから著作権的にもちょっと気を遣ってしまう。まとめるというよりも、気になったところを引用してちょこちょこコメントを書いてくみたいなやり方にしようと思う。

1 序文

(筆者の考える「グリーン」という概念は)現代の産業社会がもたらす危険な副次的影響と、その影響を解決するか、少なくとも歯止めをかける方法についての、関連し合ったアイデアの集合である。本書において「グリーン」と書いた場合には、現代社会の衝突や感染症の解決に取り組むムーブメントを指す。(p1)

 本書では、持続可能性に対して配慮した考えや取り組みのことを「グリーン」と言っているように思う。だから、環境問題だけじゃなく、パンデミックの話も出てくるわけだ。

 で、じゃあ「持続可能性」のことはどう考えられているかというと、次のように書かれている。教科書通りの定義だと思う。

本書を貫くテーマにおいてもっと広い意味で言うならば、持続可能な社会とは、将来世代が、少なくとも今日世代と同じくらい豊かな生活水準を享受できるように営まれる社会である。

 例のブルントラント報告の定義とほぼ同じです。ただし、ブルントラントの方は持続可能な開発を「将来の世代の欲求を満たしつつ,現在の世代の欲求も満足させるような開発」と定義している。「欲求」と「豊かな生活水準」は必ずしもイコールではないのだけど、ここは注意すべきなのかな? ノードハウスの方は、経済的豊かさだけでなく、ケイパビリティみたいなものも考慮に入れているのかもしれない。

www.mofa.go.jp

2 グリーンの歴史

 2章はピンショーとミューアという、アメリカの環境思想に影響を与えたふたりの人物が紹介されている。環境倫理学の教科書でよく出てくるおなじみの2人だ。ザックリ言うと、ピンショーは「自然を賢く利用する」という視点から環境の「保全」を訴えたけど、ミューアの方は「手つかずの自然」を「保存」することを訴えたとかなんとか、そういう話だ。

 12ページでは、この2人が環境(とくに森林)に対して考えている価値が図で示されている。

  • ピンショーの考える森林の価値
    • 市場サービス(木材などの生産物の価値)
  • ミューアの考える森林の価値
    • 非市場サービス(レクリエーション、土壌侵食防止、貯水などの価値)
    • 生物中心の価値(種や自然に固有の価値)

 環境経済学の教科書の分類でいえば、ピンショーが考えている価値は直接利用価値だ。で、ミューアの考えている非市場サービスの価値は間接利用価値、そして生物中心の価値は非利用価値(とくに存在価値)になるだろう。

 ミューアの姿勢がどっちつかずな感じがするのだけど、それは、生物中心の価値ばかり訴えていては人々を環境保護に動員することができないからだ(p14)。だから、「レクリエーションって楽しいですよね。だから環境保護を頑張りましょうよ」という風に訴えた、という面もある。

 本章はまだあんまり面白くない。環境倫理学の教科書で普通に出てくる話なので。

3 グリーン社会の原則

私が思い描く理想的な社会とは、公正で豊かな国家を繁栄させるための制度、行動、技術が備わった社会である。わかりやすく伝えるために、私はそれをよく管理された社会と呼んでいる。(p21)

 こういう理想の社会像はロールズが考えていたものに近い、と筆者は言う。ただし、ロールズは「正義」に焦点を当てていたけれど、本書ではそれだけでなく「効率」にも焦点を当てるという(p22)。ノードハウスは環境経済学者なので、効率に焦点を当てるのは当たり前だ。

 よく管理された社会の4つの柱として、以下のようなものが挙げられている。

  1. 人々の関係を定義する法体系(人々の権利を擁護するとか)
  2. 私的財の市場が十分に発達していること
  3. 外部性をうまく解決する方法を見つけ出していること
  4. 政府が制度の平等性を推進すること(課税と支出で不平等を是正するとか)

 環境経済学が扱うのは普通は2と3だと思う。1は所与の条件と仮定していて、4に関しては政治家に任せますという感じじゃないかな。1と4も考慮に入れようとしているところが、グリーン経済学の独自性なのかもしれない。

外部性を扱う際の重要な原則は「連邦主義」である。つまり、責任は、社会のピラミッド構造の適切な構造――個人、家庭、企業や組織、政府、世界――に割り振られるべきだという考えだ。(…)大気汚染の問題に、個人、町、州、企業、国家、世界という、6つの階層の規則で取り組むことが考えられる。過去の例で見れば、6つの階層のうちの5つには効果がない。効果があるのはただひとつ、国家の規制だけである。個人の場合、インセンティブが弱く、情報も充分ではない。(p27)

 ここらへんは環境経済学の教科書には出てこない、かな? 間接的にはこういう考えが示唆されているようにも思うけど。気候変動の場合だと「国家」+「世界」が責任を負うべき、ということになるだろうか。

4 グリーン効率性

 環境経済学の超基本的な考えが説明されている。ピグー税とか。ここは流し読みでOK。

5 外部性を規制する

 ここも環境経済学の基本。コモンズの悲劇とか費用便益分析とかの話。

6 グリーン連邦主義

 ここでは「依頼人代理人問題」の視点からグリーン連邦主義(3章でちょろっと出てきた)の困難について論じられている。

 「依頼人代理人問題」というのは、「エージェンシー問題」という呼び方の方が一般的かもしれない。代表的な例が株主と経営者の間の関係。株主は「企業利益を最大化する」という仕事を経営者に委ねているわけだから、株主=依頼人、経営者=代理人(エージェント)となる。だけど、株主の監視能力には限界があるしコストもかかるので、四六時中経営者を監視しているわけにはいかない。すると、経営者は企業利益よりも自分自身の利益を高めるように行動してしまう、というような問題だ。

 このエージェンシー問題を、グリーン連邦主義に適用することもできる。まず、グリーン連邦主義の発想でいくとそれぞれの階層がどんな問題に対処すべきなのか整理してみる。

グリーン連邦主義での階層 対処すべき問題の例
世界 気候変動
国家 二酸化硫黄
地域
騒音
家庭 ネズミの駆除

 一番下の階層ではエージェンシー問題はそれほど深刻ではない。家庭内では多くの利害が共有されているから、家がネズミだらけだとみんな困るので基本的にはみんな頑張ってネコイラズを散布する。

 だけど上の階層に行くほどエージェンシー問題が深刻になってくる。これは、各主体の直面する外部性に共通点が無くなってくるからだ。たとえば一番上の気候変動の場合、その損失は世界中の国々が不均等に負担することになる。さらには、気候変動では現在世代だけでなく、まだ生まれていない将来世代も利害関係者に含まれてくる。将来世代を「依頼人」と考えるなら、「代理人」である現在世代は、依頼人のことなんて何も考えずに車を乗り回し二酸化炭素を排出するだろう。

7 グリーン公平性

 グリーン公平性とは、一般的な公平性の考えに次の3点を加えたものだ。

  1. 世代間の公平性
  2. 環境的正義(環境上の便益と負担が平等に分配されること)
  3. 動物に対する公平性

 ここらへんは環境経済学の議論を完全に越えている。というか、モロに環境倫理学の話題だ。

 環境的正義について。環境政策は公平なのだろうか?

  • 汚染対策の費用は逆進的。たとえばガソリン税貧困層に不利に働く傾向。
    • しかし、ガソリン税を累進的に還流すれば(つまり、低所得世帯に割り戻す額を高く設定する)、こうした不公平を解消することは可能。
  • 大気汚染の著しい地区で暮らしていることと、ひとり当たり所得とのあいだには、強い負の関係が成り立つ(つまり、貧しい人の方が大気汚染にさらされやすい)。
    • したがって、汚染削減の政策を実施すれば、貧困層の方が多くの便益が得られる(便益が累進的になる)

 動物に対する公平性については、今のところ、動物の法的地位は認められていない(猿の著作権をめぐる訴訟では、連邦裁判所によって訴えが退けられた)。

 世代間の公平性の問題は8章で論じるとのこと。