【読書ノート】『ブランダム 推論主義の哲学』 第6章

第6章 推論主義を応用してみる

  • お目当ての相互承認は第7章で出てくるのだけど、先に第6章もやっておく。というのは、ここで、推論主義をつかってフィクションや社会制度を扱ってみよう、という話が出てくるから。フィクション好きで、かつ制度論も気になっている者としては、この章は飛ばせない。そして、初読のときに一番おもしろかったのはこの章だった1

  • この章で扱われるのは「精神病理」「フィクション」「社会制度」の3つだ。これらはいずれも、具体的に見たり触れたりできないものであるという点で共通している。こういう、あるんだか無いんだかよくわかんないものを扱うことができるのが推論主義の強みのひとつだ。

精神病理

  • 妄想や幻覚は、「正常」な人たちからすれば「偽」でしかない。だけど、それが患者本人の他の信念や判断と推論的なネットワークを形成しているのなら無意味ではない。

  • で、周囲の人も、患者がどんな推論的なネットワークを想定しているのかを理解するなら、妄想・幻覚の意味を理解することもできる。つまり、相手に感情移入できなくても、他者理解をすることは可能なのだ。

フィクション(虚構)

  • 妄想や幻覚は一人でコミットされるものだけど(個人的なコミットメント)、フィクションは二人以上で一緒にコミットするものだ(共同的コミットメント)。

  • 虚構的言明の真偽は、ごっこ遊びのルールによって決定される。たとえば「アラレちゃんはロボットである」というのは、『Dr. スランプ』というフィクション(一種のごっこ遊び)において真なのだ。

  • で、こういう虚構的言明の意味は、推論関係によって規定される。どういう推論関係が適切かを決めるのがルールだ。たとえば、「アラレちゃんの首は取り外し可能だ」という虚構的言明を、「アラレちゃんはロボットだ」という虚構的言明から推論するのは適切だ。

  • こういうルールは複数の主体が共同的にコミットすることで成立する。「アラレちゃんがピースケに首を切られて死んだ」という虚構的言明を推論するのはルール違反だ。だから、鳥山明がそんな続編漫画を描いたりしたら大炎上すること間違いなしといえる。

社会制度

  • サールによれば、社会制度は「あるものXはYとみなされる」というルールをみんなで認めることによって成立する。これは、さっき言ったごっこ遊びと似た考え方だといえる。

  • じゃあ、フィクションと社会制度って何がちがうの? それは、ルールを支えるシステムの頑強性だ。つまり、フィクションよりも社会制度の方がずっとシステムが頑強だ。なぜかというと、社会制度の場合、法律の正当性が他の法律や憲法によって保障されて、相互依存的で循環的な支え合いが成立しているからだ。

  • ところで、「あるものXはYとみなされる」っていうので本当に社会制度を捉えきれるかね。たとえば、そもそも「お金」という概念が存在しない時代に「黒曜石はお金と見なされる」とか言ったって、誰にも通じないだろう。つまり、新しい社会制度をつくるという場面を、サールの議論だとうまく捉えられないのではないのかね。

  • そこで推論主義です。制度というのは、「義務論的力」を伴うものだ。たとえば、「モノを買うにはお金を払う義務がある」とかだね。で、「お金」という概念がわからない大昔の人が相手だって、「お金」という概念からどんな義務論的力が推論可能か、というのを丁寧に教えてあげれば、「お金」という概念の意味が理解できるようになるだろう。というのは、推論主義において、意味とは推論ネットワークの中での位置づけのことなのだから。


  1. 何が面白いかといえば、この章の議論だと、「精神病理」「フィクション」「社会制度」の違いというのは程度の差でしかないということになるからだ。たとえば、幻想を見ている人を相手するときに、周りが話を合わせて「そうだね、なんか見えるね」と言ったりしたら、それはごっこ遊び(フィクション)に近づいてくる。また、オンラインゲームは普通はフィクションだと思われているけれど、プレイヤー間で実際のお金をやりとりしてアイテムを交換するようになったら、そのゲームは一種の「市場」という社会制度に近づいていく。ようするに、それぞれの幻想領域の境目はけっこう曖昧だということだ。最近、漫画で性的な表現がされるのを本気で「けしからん」と怒って規制を訴える人が多い気がするけれど、それは「フィクション」と「社会制度」の境目が曖昧であることによることなのかもしれない。そういえば、前に「フィクションの境界線の緩みについて」という記事を書いたことがあるなあ。