第4章 推論的意味論
- さて、第3章で規範的語用論というのをやりました。ざっくり言うと、人々がお互いにおしゃべりし合うことで、お互いの発言から、「Aさんは何をするべき(コミットメント)」とか「Bくんは何をしても良い(資格)」というのを割り当てていくわけだ。ここで割り当てられるコミットメントとか資格のことを、「規範」と言っているわけですね。
- で、そういう「規範」から違反していない推論を「実質推論」という1。この実質推論を材料にして、本章では推論的意味論を展開していく。先に言っておくと、推論的意味論においては、「意味=実質的推論における推論役割」となる。
1 「指示」や「真理」というものの役割は?
- 推論的「意味論」というくらいだから、「指示」や「真理」について扱うのかなあ、とちょっと言語哲学をかじった人なら考えるかもしれない。たとえば「ポチ」という言葉は現実の犬のポチを「指示」している。あるいは、「ポチは犬である」という発言が「真理」であるのは現実のポチが犬であるときだ、とか。
- だけど、推論的意味論だと、こういう風に「言葉と世界の関係」から「指示」や「真理」は扱いません。以上。
2 推論的意味論の三つのレベル
- 推論的意味論では、「意味=推論役割」だ。
- で、推論というのは「文A → 文B」みたいに文単位で行われるものだから、基本的に文に注目することになる。
- でも、そういう文を構成するパーツについても考えないと意味論としては不完全だ。だから推論的意味論では、「文」「名前や述語」「直示語」の3つのレベルで意味を考えていきます。
3 文の意味
- 意味は全体論的(holistic)だ。つまり、文が推論ネットワーク全体のどこに位置しているのか、というのを見ないと意味は定まらない。で、推論役割が同じならその文は同じ意味を持っているということになる。
- これで議論は尽きているのだけど、著者はこのブランダムのアイデアをもうちょっと独自に展開してくれている。
意味理解の段階性
つまり、人は推論ネットワークを充実させていくことにより、少しずつ意味を理解するようになってくる。辞書を引いていきなりパーフェクトに意味を理解するなんてことはあり得ない。
意味と心は無関係
発話してる人の心を見なくても、どんな発話をしてるかだけ見れば意味がわかる。ちゃんと実質推論ができてるのなら、心の無いAIやロボットだって意味を理解してると言えるかもしれない。
「同じ意味」と「違う意味」
推論役割が同じなら同じ意味。だから、違う文でも、推論役割が同じなら同じ意味。逆に、同じ文でも、推論役割が違うなら違う意味。
意味の柔軟性
推論役割次第で意味が変わってくるわけだから、意味は時代と共にコロコロ変わる柔軟なものだ。
意味と権力
パワハラ上司が文の意味の解釈を部下に押しつけるとかもあるよね。「15時集合っつったら1時間前には集まってるのが常識だろう!?」とか「15時集合っつってんのに、なんでお前は15時ぴったりに来ないんだよこのマヌケ!!」とか。かようなクソ野郎の振る舞いも推論的意味論で鮮やかに分析できる。
意味と空気
似たような話だけど、「俺はそういう意味で言ったんじゃないんだけどなあ」とか言っときながら忖度させるというのもあるよね。そういう、はっきり言わずに空気を利用して相手を支配しようとするクソ野郎は多い。
皮肉的な意味
これも似たような話。京都名物「いけず」みたいに、はっきり言わずに相手を皮肉るようなの。ああ、この世にはクソ野郎しかいないのか。
こんな風に、俗っぽくてめんどくさい言語表現を分析するのに推論的意味論は便利だよ。日本人好みだよね。
4 単称名と述語の意味
単称名
「夏目漱石」とか「『我が輩は猫である』の作者」とか。ようするに、ただひとつの対象を指す言葉のこと。
述語
述語は述語ですよ。「俺はアホや」だったら「アホや」が述語になります。
単称名や述語の意味は、置換推論によって明らかになる。置換推論というのはこんなの。
さて、あなたはこの置換推論が適切だと思いますか? 思う? 思うッ? 思うッッ!? 思うよね。だったら、あなたは「夏目漱石」という単称名と「『我が輩は猫である』の作者」という単称名が同じ意味を持っていると理解しているわけだ。
で、単称名の場合は、置換推論を逆向きにしても成り立ちます。つまりこういうこと。
だけど、述語の場合だとこういう風に逆向きの置換推論は成り立ちません。
○ 「夏目漱石は胃潰瘍に悩まされた」 → 「夏目漱石は健康でない」
× 「夏目漱石は健康でない」 → 「夏目漱石は胃潰瘍に悩まされた」
整理すると、こういうことになる。
単称名は、「対称的な置換推論を構成するような役割=意味」がある。
述語は、「非対称的な置換推論を構成するような役割=意味」がある。
「は? 何言ってんの?」と言いたくなる。なんでわざわざこんなややこしい言い方するの? それは、これが推論的意味論だからだ。つまり、先に示した「ただひとつの対象を指す言葉」というのは推論的意味論的には単称名の定義になってない。こうして、推論関係だけから単称名や述語を定義するからこそ、推論的意味論なんだ。
5 直示語の意味
直示語
リンゴを指さしながら「このリンゴはヤバい」と言うとしたら、「この」の部分が直示語になります。
直示語の意味はなにかというと、やっぱり置換推論で考えればいい。
「このリンゴは赤い」 → 「これは赤い」
この置換推論での役割が直示語の意味だ。この場合、「このリンゴ」と「これ」は同じ意味だということになる。
え? でも、「これ」って言って時計を指さしてたら? なんかへんなことになってこない?
前方照応する代名詞(it)があればこの問題は解決できます。
(ある動物を指しながら)「このブタはブウブウ鳴いている」
→ (眠れない夜)「それ(it)は幸せだったのだろう」
この置換推論で、「このブタ」という直示語の意味は、「それ」と同じだということになる。ここで、「いや、『それ』と言ってアヒルを指してたらどうなるの?」というイチャモンはつけられない。だって、そもそも「それ」と言って何かを指してるわけじゃないのだから。
(6節と7節は省略)
さて、まだ6節と7節が残ってるのだけど、めんどくさそうだから省略します。あくまで「相互承認」とは何なのかを知りたい、というのが本書を読む動機なので。とりあえず、次のことがわかれば7章で出てくる相互承認論は理解できるはず。
- 推論主義では言葉のやりとりから規範を捉えようとする。(規範的語用論)
- 推論関係は全体論的。で、基本的には文を単位として意味を考えていく。(推論的意味論)
-
実質推論というのは、「私は三日間寝てない → 私は眠い」みたいなの。普通の論理学だとこういう推論はできない。もしムリヤリやろうとしたら、「私は三日間寝てない → ところで、三日間寝てない人間は眠いものだ → ところで、私は人間だ → 私は眠い」みたいな頭の悪い感じの推論をしなくてはならなくなる。「三日間寝てない人間は眠いものだ」は常識だし、この人は日本語をしゃべってるわけだから「私は人間だ」というのも当たり前だ。だけど、論理学だとそういう常識や当たり前のことをはっきり示さないと推論ができない。逆に言うと、そういう常識や当たり前のことを暗黙のままにしておく推論が実質推論だとも言える。↩