【読書ノート】『啓蒙思想2.0』第3章

第3章 文明の基本 保守主義がうまくいく場合

ものごとはゼロからつくれない(p114-118)

あなたは飛行機をゼロから作れるかね? 無理だろう。専門家だって、ゼロから飛行機を作ってるわけじゃなくて、古い型の飛行機を改良しているだけだ。

社会だって同じだ。社会契約論みたいにゼロから社会をつくることはできない。もともとの社会をちょっとずつ改良していくしかないのだ。

それは、常に伝統を良しとせよ、ということではない。ダメなところは変えればいい。でも、変えるところは一度に一つだけ。そして、うまくいくかどうかしばらく様子を見る。いっぺんに何もかも変えるのはダメだ。

社会というのは複雑だし、介入したとしても結果が出るまでにずいぶん時間がかかる。そういうものを相手にするとき、理性はあまり役に立たない。むしろ、進化に期待しよう。

大集団で協力するには?(p125-130)

わたしたちが理性的な存在であるなら、集団が小さかろうが、大きかろうが、共通の利益のためにみんなで協力し合えるはずだ。でも、実際にはそれは難しいかもしれない。

わたしたちの直感的反応は、小規模な社会での限定的な協力を支えるように調整されている。部族社会本能だ。部族の中では協力し合える。離反者が出れば報復を加えればいい。だけど、社会の規模がどんどん大きくなっていくと、離反者の数も増える。で、それは血で血を洗うような報復の連鎖になりかねない。

だから、たとえばその集団のメンバーをいくつかの小単位に分割すればいい。軍隊なら、小隊とか分隊とかの単位だと部族社会反応がうまく働く。そして、こうした小単位同士で殺し合うのではなく、競争できるようにうまくマネジメントするのだ。これもまたクルージだ。

国民国家というのも一種のクルージだ。自分たちが「国民」だという連帯感を持たせることで、部族社会本能を刺激しているわけだ。

でも、地球規模で協力するとかになってくるとかなり難しい。というのも、そもそも国民国家がうまく運営されるためには、他国との対立関係が必要だからだ。

宇宙人が侵略してきたら、「地球人」という大きな部族としてまとまれるのかもね。そういうのはSFではよくある話だ。

道徳は外部足場に頼っている(p134-141)

スタンフォード監獄実験では、学生を囚人役と看守役に分けて、刑務所ごっこをやった。でも「ごっこ」のはずなのに、学生たちはだんだん役にのめり込んでいって、やがて暴動が発生した。でも別に学生たちは何か精神的に問題があったわけではない。

道徳というのは人の頭の中にあるというよりも、外部足場に頼って成り立っているのだ。だから、外部足場を外されると人は残虐なことを平気でやらかす。ナチスに加担したドイツの一般大衆たちだって、大半は普通の人だったのだ。わたしたちが長年骨を折ってつくってきた制度的取り決めを無視してはいけない。

だから保守主義にもなかなか良いところはある。だけど、近年の保守主義はなんだかへんなことになっている。理性に対する伝統の擁護というよりも、むしろ理性に対する直観の擁護になってしまっているのだ。

コメント

前章で出てきた、理性を過信しすぎるのはよくない、保守主義にも良いところがあるよ、という話を詳しく展開した内容。ただ、前章から大きく話が進展しているわけではなく、同じような話がつづいているなあ、という印象がある。

ところで思ったのだけど、理性を支えるものとして外部足場としての制度があるとしても、その制度自体を人々が支持するのはどうしてなんだろう? 制度を支持する方が理性的な判断だけれど、その前に、そもそも制度がないと人は十分に理性的になれない。「もう選挙とか裁判とかめんどっちいからやめない?」とか言い出す非理性的な人をどうやって止めればいいのか。

そこで「伝統」ということなのかな。非理性的な人たちに選挙や裁判がなんで大事かを理性的に説いても話が通じないので、「ともかくそういう伝統なんだ!」で押し切ってしまう。で、伝統だからというのでしぶしぶ選挙や裁判を受け入れていると、そういう人も少しずつ理性的になっていって、制度を支持するようになってくる。

中学や高校で民主主義がどうして大切かというのを学ぶときは、それらがどうして大切なのかというのがよくわからずに学んでいる。でも、そういうものだから、というので学んでいって、大人になると、やっぱり民主主義は大切だ、と自分の言葉で言えるようになる。

だけどこれは逆もいえて、たとえば中国とかで、権威主義がいかにすばらしいかというのを子どものから教えられていて、子どものころはピンとこなかったけれど、大人になってからは自分の言葉で権威主義の良さを言えるようになるというのもあるだろう。

ヘルマン=ピラートの本にも、懲罰付き公共財ゲームに投票の手続きを入れた場合、西洋の人の場合は拠出額が上がるという民主主義プレミアムが見られるけれど、中国人対象だと民主主義プレミアムが見られないというのが紹介されていた。で、それを論拠にして、どちらの制度が良いかというのを客観的に評価する外的ベンチマークはない、というのが指摘されていた。

odmy.hatenablog.com

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ヘルマン=ピラートの本だと、制度の良し悪しを判断するには、公共的討議を通して、その制度においてケイパビリティが拡大するかいなか、というのを見ていくべきだとされている。

ただ、その公共的討議を保証するものとして「家族」「市民社会」「国家」という制度が必要だとも言っている。制度がないと人々に権利が認められなくなるし、公共的討議の場にも参加できなくなるからだ。

となってくると、やっぱりそもそも、公共的討議を保証する制度がまず必要ってことになってくるよね。言論の自由なんかありません、という国では公共的討議はできない。となると、そういう国では制度の良し悪しも評価できない。となると、そういう国の人々に、理性を補完するような制度がいかに大事かを説いても、何の話をしているのか全く理解されないということになるんじゃないだろうか。

民主主義はいったん壊れたらまた元に戻すのは至難の業だ、みたいなのをどっかで聞いたことがあるけど、そういうことなのかもしれない。そもそも、民主主義的な制度がないと、なぜ民主主義が良いのかということ自体、議論できなくなってしまうのだ。