【読書ノート】『ブランダム 推論主義の哲学』 第7章

第7章 推論主義は相対主義

  • さあ、ようやくお目当ての相互承認が解説される章だ。
  • この章は、推論主義が相対主義ではないということを裏づけるために相互承認や承認欲求や想起を論じている。
  • 推論主義だと「規範とは私たちがつくるものだ」という発想をとる。前回やったように、たとえば貨幣みたいな社会制度だって、「これを貨幣とします。こいつを使うとモノが買えます。貨幣を受け取った人はモノを相手に渡さないと泥棒呼ばわりされてお縄になります」「うん、わかった」みたいにみんなで話し合ってつくるものだ。
  • だけどこれだと、「昨日は金属が貨幣だったけど、今日からは貝殻を貨幣とします」とか誰かが勝手に言い出して、大富豪は大貧民になり、大貧民は大富豪になるというカオスになりかねない。こういう風に、「昨日は正しくても今日も正しいとは限らない」とか「滋賀県では正しくても鳥取県では間違い」とか「のび太にとっては正しくても俺にとっては悪だからのび太を殺す」といった、正しさが時や場所や状況でコロコロ変わってしまう考え方を相対主義という。
  • 相対主義を認めると社会が崩壊するので、よっぽどクレイジーな人でないと受け入れないだろう。推論主義を擁護するのなら、「推論主義は相対主義ではない」ということを説明できないとならない。そういう説明を試みるのがこの章だ。

1 まずは課題を確認

推論主義が相対主義でないということを説明するには、推論主義がつぎの3要件をすべて満たすことを示さないとならない。なんでこういう要件が必要なのか知りたかったら本を買ってくれ。金のない奴はフィーリングで理解しろ。

(1)無限後退に陥らない。(=無限後退ダメ」要件
(2) 「ある主体が資格があるとみなすこと」と「実際に資格があること」の区別を可能にする。(=「態度超越性」要件
(3) 資格が成立していない状況から、「資格があるとみなす」という規範的態度のみで資格が制定される過程を説明できる。(=「神秘ダメ」要件

2 『明示化』における試み

ブランダムは『明示化』という著作の中でずいぶん頑張った。でも、「無限後退ダメ」要件をうまくクリアできなかったよ。

3 相互承認論へ

さて、ブランダムはこの問題をクリアするため、お待ちかねの相互承認論を持ち出した。

承認というのは、「その相手をコミットメントや資格を持つ主体として、責任と権威の主体として、規範的地位を有する主体として認める」こと。

規範的地位が無い存在には規範をつくることはできない。たとえば火星人がやってきて、地球人に対して「貝殻を貨幣としよう」とか言っても、貝殻は貨幣にならない。火星人には規範的地位が無いからだ。あるいは、幼稚園児がYouTubeで「憲法を改正します」と宣言しても、憲法は改正されない。

ある村の村長が「これからは貝殻を貨幣としよう」と宣言したとする。その宣言が有効なものとなるためには、村長には規範的地位があると、他の村人に承認してもらわないとならない。

村長 ←(規範的地位を承認)← 村人A

だけど、そもそも村人Aはいったいどんな資格があって、村長の規範的地位を承認してるのだろう? 何様なの? それを、仮に村人Bが村人Aの規範的地位を承認しているからだ、としてみる。

村長 ←(規範的地位を承認)← 村人A ←(規範的地位を承認)← 村人B

でも、これだと今度は村人Bの規範的地位が問題になってくる。で、村人C、D、E…という風に無限承認列車が現出してしまう。これでは「無限後退ダメ」要件に違反してしまう。

そこで、こういう風にB、C、D、E…という風に数珠つなぎにしないで、むしろ輪っかにしてしまおう、というのが相互承認論だ。

村長 ←(規範的地位を承認)← 村人A

村人A ←(村長を承認する資格がある者として資格を承認)← 村長

つまり、お互いがお互いに承認し合う、ということにしてしまうわけだ。どうだい、これなら無限後退は発生しないだろう。あったまいいねえ。

いや、それほど頭は良くないぞ。だって、これだと村人Aに資格があるかどうかは村長ひとりの判断で決まってしまうことになる。これだと、村人Aに関しては村長の判断が絶対だ、ということになる。つまり、「態度超越性」要件に反しているわけだ。

うーん。じゃあ、今度は村人Bを持ってくればいいじゃないかな。それはダメだ。というのは、今度は村人Bの資格が問題になってきて、村人Cが必要になって…という無限後退が発生するからだ。

じゃあ、村長による承認の資格は村人Aに承認してもらったら? これもダメだ。というのは、今度は村人Aの資格が問題になってくるからだ。で、それを村長が承認するとしたら、今度は村長の資格を村人Aがまた承認しなければならなくなって、無限ループが発生する。もちろん無限ループも無限後退と同じことだ。というわけで、いずれにしても相互承認論では「無限後退ダメ」要件をクリアできないのだ1

4 承認欲求に訴えよう

で、ここは本書の著者なりの解決策なのだけど、省略します。というのは、理屈としては成り立っていると思うけど、社会科学の研究に応用するのが難しそうだから。「承認欲求」って、行為じゃなくて心のありようだから、観察データを取りにくいと思う。これに対して、この後で出てくるブランダムによる解決策である「想起」は、いちおう言語行為として観察することができるから実証研究につなげやすいというメリットがある2

5 『信頼の精神 A Spirit of Trust』という書物

さて、ブランダムは『明示化』という鈍器本の出版から25年後、『信頼の精神』というもう1冊の鈍器本を出版した。こいつは、ヘーゲルの『精神現象学』をブランダムなりに合理的再構成した本だ。こいつの中で、ブランダムはこれまでよりもっとうまいこと議論しているようだ。だからこいつの中身を見てやろう。

6 「規範に関する現象主義」と「規範的現象主義」の両立という課題

  • 規範に関する現象主義:規範的地位は規範的態度の産物である。 ← 『明示化』では最初この立場を取ると宣言していた。
  • 規範的現象主義:規範的地位は適切な規範的態度の産物である。 ← なのに『明示化』の最後の方でこういう考え方が提示された。

「適切な」なんて言い出したら、「じゃあ、その適切さは誰が決めてるんだよ。神様かよ」って文句が出てくる。だけどブランダムは、想起(recollection)という概念をもってきたら、このふたつの立場は両立すると主張する。

7 「想起」とは何か

想起というのは「現在までのプロセスを合理化すること」だ。どういうこと? こういうことだ。

(第一段階)異常の発見:主体は、実質的に両立しないコミットメントをもっていることに気づく。
(第二段階)修繕:両立しない内容にコミットしていることに気づいた主体は、その一方にコミットすることをやめたり、その概念内容を改訂したりすることで、非両立を解消する。矛盾した概念内容の修繕作業は、合理的な主体に課せられた義務である。
(第三段階)想起:主体は、修繕により得られたコミットメントへと至る過程を振り返り、それを合理的に再構成する。

たとえば、ダブルブッキングをしてることに気づく(異常の発見)。片方の予定をキャンセルする(修繕)。で、最後に「俺はダブルブッキングしてたけど、片方の予定をキャンセルしたなあ。だから俺はもう矛盾の無い、快活な青年になったよなあ」とピースする(想起)。

今のは、一方にコミットすることをやめることによる修繕。概念内容を改訂することによる修繕は次のような感じかな?

わたしは「3回デートしたら恋人同士」という信念を持っていたけれど、相手の女性から「舐めるのもたいがいにせよ」と叱責を受けた(異常の発見)。だから、わたしは「恋人とは、3回以上デートした異性のことではない」という風に「恋人」の概念内容を改訂する(修繕)。最後にわたしは、甘酸っぱい青春時代を振り返り、自分のなかの「恋人」概念がもっと即物的なものに変貌していくプロセスを思い返しげんなりする(想起)。

さて、それではこの「想起」が、相対主義の問題をクリアするのにどう役に立つのだろう? 

「未来に目を向けると規範は人間がつくるものだ。だけど、過去に目を向けると人間は規範に縛られるものだ」という風に考えてみよう。

どういうこと?

昔は黒人やら女性やらが公然と差別されていた。それは、今の基準からみると「規範に違反している」ということになるだろう。そういう風に言えるのは、今の人が規範の発展プロセスを「想起」して、今の規範が昔の規範の「異常」を「修繕」した、より適切なものだと考えるからだ。つまり、過去を振り返るときは、規範には客観性があって、黒人や女性を差別するというのは客観的に見て不適切だとはっきり言えるのだ。だから、「規範的現象主義」が成り立つ。

その一方で、今は猫に選挙権が認められていないけれど、30世紀になったら認められるようになるかもしれない。もちろん、30世紀になったって猫の選挙権は認められないこともありうる。どっちに転ぶかはわからない。未来はこれから人々が決めていくものなのだ。だから、規範は自分たちで決めていくものだということになる。したがって、「規範に関する現象主義」が成り立つ。

こんな風にして、「想起」を導入することで、「規範的現象主義」と「規範に関する現象主義」が両立するわけだ。

8 想起の客観性は?

でも、「想起」ってようするに、「今は昔より正しい」という風に今を合理化してるわけでしょう? だったら、むちゃくちゃな規範でも想起によって合理化されてしまうんじゃない? 「ロシアは偉大な国である。だからウクライナを併合し、ナチスどもを皆殺しにし、大ロシア帝国を復活させることは正しいことだ」みたいな腐れた主張も「正しい」ということになってしまうよ。だったらやっぱり相対主義になってしまうんじゃないの?

そうはならない、とブランダムは考える。なぜなら、そういうむちゃくちゃな合理化は、未来世代がまた想起することで改訂されうるからだ。

9 なぜ想起するのか

それじゃあ、「想起」を導入すると相対主義は回避できるのだろうか? 先に挙げた3要件でチェックしてみよう。

  • 「神秘ダメ」要件:あらかじめ規範を用意しているわけじゃないのでOK
  • 「態度超越性」要件:今は正しいと思われてることでも、未来世代に批判される可能性があるのでOK
  • 無限後退ダメ」要件

無限後退ダメ」要件が「?」なのは、今の人による想起に正当性があるのかどうか保証できないから。今の人の想起の正当性は、未来世代の人たちに想起して検討してもらわないとならない。そして未来世代の人たちの想起の正当性は、さらに未来世代の人たちの想起にかかっていて…。という風に、無限後退になりそうな感じだ。

でも、そういう風に未来世代の検討に委ねなくても、今の人たちの想起にはちゃんと正当性がある。というのは、「概念や規範を維持・管理し、再生産しつつ未来に残していくためには、想起することが現在の私たちに求められている」からだ。つまり、想起は「しないとならないこと」なんであって、正当なことなのだ3

おわり

じゃあ、お目当ての相互承認はなんとなくわかったからこの本はこれでおしまい。1つめの注でも書いたけど、社会科学への応用に興味がある向きの場合は、別に無限後退が発生しそうでも気にしないで良いんじゃないかなあ4


  1. ちょっとまだよく分かってる気がしないんだけど、これ、3人でループをつくって相互承認し合ったらダメなのかなあ? Xさん、Yさん、Zさんの3人社会を想定する。Xさんの資格はYさんとZさんの2人が承認する。YさんはXさんとZさん、ZさんはXさんとYさん。これだと、承認は必ず2人がかりでやってるわけだから「態度超越性」要件はクリアしている。だけど、これだと承認してる人たちの資格がやっぱり問題になるから、無限後退が発生するということなんだろうか。ううん。イマイチ、そもそもなんで無限後退だとダメなのかというのがよくわかってない。だって、現実的に考えて、無限に資格を問題にすることなんてできないでしょう? 「資格はどうなってんだよう!?」としつこくイチャモンつける人がいても、無限後退してるうちに寿命が来て死んじゃうから、現実には無限後退というのは実行不可能だ。現実には不可能なものを問題にする、というのはどういう意味があるのだろう? 論理的には問題なのかもしれないけれど、現実的にはたいした問題ではないような気もする。とくに、わたしのように社会科学の立場から相互承認とか推論主義に興味を持つ人間からしたら、知的パズルとしては面白くても、現実への応用という面では些末な問題のようにも思える。

  2. ナラティブ・アプローチみたいな社会学の研究手法では、インタビュー対象者が過去を想起して語った発言やそのときの身振り・話しぶりなどをテキストデータにしたものを分析対象とする。

  3. それでも、やっぱり「不当な想起」というのはあると思う。たとえば本文で例としてあげたプーチンの誇大妄想的想起とか。そういうのは、未来世代による想起を待たなくても、他国の人々が「不当だ!」と批判できるんじゃないか。ただ、そうなるとその他国の人たちの「不当だ!」という規範的判断が正当かどうかというのが問題になってくるから、やっぱり未来世代による想起を待つことになるのか…。だけど少なくとも、「不当な想起」を批判するというときに、多国間での相互承認が機能する、というのはいえそうな気がする。こう考えると、正当性は必ずしも「過去」「未来」みたいな時間軸に沿って決まってくるわけではなく、「他国の人たち」みたいな別の空間にいる人たちも関与して決まってくることになる。で、別の空間にいる人たちとの間で行われる正当化を「相互承認」と考えるなら、想起と相互承認は補完的な関係にあると言っても良いんじゃないかな?

  4. ところで、ヘルマン=ピラートが言ってる「相互承認」というのは、何らかの規範を人々がお互いに承認し合うみたいなニュアンスだったと思う。つまり、相互承認によって規範をつくるわけだ。でも、ブランダムにおける相互承認は、お互いの規範的地位を承認し合う、という意味だ。規範的地位のある人たちが規範をつくっていくわけなんだけど、規範をつくること自体は相互承認ではない。どうなんだろう。ヘルマン=ピラートの相互承認理解がおかしいのか、それともわたしのヘルマン=ピラート理解がおかしいのか。ただ、ブランダムだろうとヘルマン=ピラートだろうと、相互承認がなされていない社会において規範はつくれない、という見解は共通していると思う。 → (2022/06/02追記)ヘルマン=ピラート本を読み直したら、p85に、ヘーゲルのいう「承認」には2つのレベルがあるというのが書かれてあった。つまり、人々が互いを承認し合うという意味と、人々が制度を承認するという意味。ブランダムは前者の意味で、ヘルマン=ピラートは後者の意味で「相互承認」を理解している、ということみたい。