【読書ノート】『正義のアイデア』第1章

第1章 理性と客観性

イントロ(p69-)

ウィトゲンシュタインはある手紙の中で、こんなことを書いている。「私は全く真面目に働いており、より良く(better)、また、より賢ければ(smarter)と願っています。そして、これら二つのことは、全く同じものなのです」。

さて、おそらくここでウィトゲンシュタインが言っているのは、「より賢ければ自分の利益がより良いものになるよ」ということではない。「より賢い」人は、自分の行動が他人にどんな影響を与えるかも気にするだろう。彼は、自分の知的能力を、世界をより良い場所にするために使うべきだと考えていたのではないか。

啓蒙主義的伝統に対する批判(p74-)

こう考えると、ウィトゲンシュタインはヨーロッパ啓蒙主義の強力な伝統の下にいたということになる。

啓蒙主義では、理性をつかって社会をより良いものにしていこうと考える。社会をより良いものにしていくのになぜ理性が大事なのか? それは、理性がイデオロギーやでたらめな信念を精査するのに役立つからだ。

でも、「悪い理性の使い方」というのもあるのでは? 狂った考えを自己正当化するのに理性が使われることもあるのではないか。社会をより良いものにするに当たって、理性は本当に役に立つのだろうか?

アクバルと理性の必要性(p76-)

ムガル帝国の皇帝アクバルは理性を最高のものと見なしていた。なぜなら、理性について論争するときでさえ、その論争のために理由が必要だからである。

倫理的客観性と理性的精査(p81-)

理性的な精査をすることが大事なのは、理性による判断から100%客観的なものだから、ということではない。そうではなく、理にかなう程度に、できるだけ客観的であろうとするのが理性の大事な役割だ。

逆に、客観性を求めすぎると理にかなわないことになることもある。たとえば君は、次のふたつの時計のうち、どちらを使うことが理にかなっていると考えるだろう?

  • A:電池が切れて止まっている時計。
  • B:動いているけれど毎日平均1分ずつ遅れていく時計。

どちらの時計も不正確だ。でも、より正確なのはAの時計だ。なぜなら、Aの時計は少なくとも一日に2回は正確な時刻を指し示してくれるからだ。逆にBの時計は、60(分)×12(時間)=720分遅れないと正確な時刻を指し示さないわけだから、毎日平均1分ずつ遅れるということは、正確な時刻を指し示すのは720日に1回ということになる。

でも、だからといってAの時計を使う奴は馬鹿だろう。どう考えても理にかなってない。Bの時計も正確ではないけれど、それでもカップラーメンのできる時間を計ったりするのには大して支障はないだろう。

こんな風に、客観性を求めすぎるとかえって理にかなわないことになることもある。だから、理性について大事なのは、過度な客観性にこだわることではない。大事なのは不偏性だ。つまり、偏見をもたないこと、いろんな立場の人々の議論を熟考すること、そうして双方向の討議を行うこと。こういう、不偏性を考慮するという意味での客観性こそが理性的推論において大事なのだ。

アダム・スミスと公平な観察者(p88-)

さて、こういう「不偏性」についてアダム・スミスは『道徳感情論』のなかで大事なことを述べている。

ただ討議をしているだけでは、うっかり、自分たちの価値観を疑わずに偏った議論を繰り広げてしまうことになりがちだ。たとえば奴隷差別が当たり前の時代だったら、そういう「公共的討議」の場に奴隷たちが参加していないことを誰もへんだと思わないかもしれない。

アダム・スミスは、「公平な観察者」という考え方を提案する。これは、「遠いところに住んでいる公平な観察者だったらどういう風に考えるだろうね」と思考実験するということだ。「奴隷制の無い世界に住んでいる人だったらどう考える?」と考えてみれば、公共的討議の場に奴隷たちが参加していないのはへんなことだ、と気づくかもしれない1

こういう風に、自分自身から距離を置いて、公平な観察者の視点からものごとを考えてみることで、自分たちの考えの偏りを精査することができる。こういう風に不偏性を考慮することこそが、理性にもとづく精査に必要な客観性なのだ。

理性の及ぶ範囲(p91-)

人間は、他者に害をなそうと意図せずに害をなすことがある。そういうのを精査するのにも理性は役に立つ。

たとえば、飢饉の解決策が食糧増産しかないと信じ込んでいる人たちは、有効な解決策を打ち出していないという点で人々に害をなしている。飢饉の原因は必ずしも食料自体の不足ではない。飢えた人々が購買力を持っていないために飢饉が引き起こされているということもありうるのだ。そういう判断を精査するためにも理性は必要なのだ2

理性、感情、啓蒙運動(p95-)

感情は大事だ。たとえば残酷さに嫌悪するからこそ、そこに問題があることを認識することができる。しかし、だからといって感情のままに判断するべきではない。感情的反応によって問題に気づいたら、次にやるべきことは、そうした反応が妥当なのか? と理性によって精査することなのだ。


  1. いや、そもそもそんな風に簡単に公平な観察者の視点に立てたら苦労しないよ、とか反論が出そうな気がする。そりゃそうなんだけど、でも、そういう風に想像力を働かせるためにフィクションというものがあるのではないだろうか。「ここではないどこか全然別の世界」というのを普通の人は想像することができないのだけど、一部の鋭敏な作家たちはリアルに想像することができる。とくにSF作家たちはそういう現実批判をかなり意識的にやってきたはずだ。公平な観察者の視点を獲得したかったらSF100冊読め! ってことかな。

  2. こういうのは現実社会でも至る所でみられることだと思う。ウクライナに折り鶴を送るとか、被災地にボロボロの衣服を送るとか。それによって、現地がゴミで溢れたり、物流が混乱したりして、かえって相手に害をなすことになってしまう。彼らは「何かしなくては!」という感情に駆られて行動しているのだろう。しかし、そうした感情もまた理性によって精査しなくてはならないのだ。