【アニメ感想】『エヴァンゲリオン序・破』

実は、エヴァをちゃんと見たのは今回が初めて。ピングドラムを見終わって、次に見るものが無くなってしまったので手を出した。

今のところの感想は、「映像はすごいけど、内容はよくわからん」というもの。とくに、『破』のラストでエヴァが覚醒してからはなんかヤバい新興宗教のパンフレットみたいな展開になってしまってドン引きしている。『Q』も見ようとは思うけど、見続けるためにちょいと論点を整理しておこう。

人類なんとか計画とかの展開を省いたらどうだろう?

この作品みたいに、個人の内面の問題を世界の救済みたいな問題と直結させてしまうタイプの物語を「セカイ系」というのだそうだ。シンジくんの内面の葛藤が人類なんとか計画みたいな壮大な話につながってしまうのもその一例だろう。

ただ、そういう風な直結によって何か物語に深みが出るわけでもないので、いっそのこと人類なんとか計画とかリリスとか死海文書とかなんとかの話はぜんぶ省いてしまったらどうだろう? それらを省いてしまっても、父とのわだかまりとか居場所がどうしたこうしたとかの内面のあれこれは十分表現できると思う。

ガンダム』だったら、人類なんとか計画に相当するものとして「ニュータイプ」という概念があったと思う。でもそれも、単に「人類は愚かだ」ということを強調するための概念でしかなくて、物語中では「ファンネルが使える能力」くらいの意味合いしかなかったと思う。

結局、人間には「人間を超えたもの」は表現できないと思う。なぜなら、「人間を越えたもの」は人間の認知能力では理解不可能だから。人が「ああ、あの人頭がいいなあ」と思うのは、その相手が難しいことを説明してくれるときだ。だけど、相手が頭がよすぎると、相手が頭がいいのかどうか、ほとんどの人にはよくわからなくなってくる。たとえば超難解な数学の証明問題を解いた人がいたとして、その証明の妥当さを理解できる人はほとんどいない。そうなると、ほとんどの人にとって、その人の頭の良さは理解不能になる。ましてや相手が「人間を越えたもの」になってしまったら、すべての人にとってそのすごさは理解不能になるだろう。つまり、端的に「無意味」でしかなくなってしまうわけだ

だから、人類なんとか計画を作品内で表現するのは不可能だ。そのすごさを感覚的に表現することはできる。エヴァが宙に浮いたり、地上に無重力状態を作り出してしまったり、ということだ。でも、それはあくまで感覚的なイメージでしかない。で、イメージだけでごり押ししようとしても、新興宗教のパンフレット的な怪しさが醸し出されてしまうだけだ。そんなことやっても作品の価値が高まるわけではないので、人類なんとか計画の類いは全カットした方がいいと思う。

みんな人の話を聞かない

典型的なのはマリというあの独り言ばかり言ってる人だけど、みんな自分の考えばかりしゃべっていて、人の話を聞かない。

たぶん、人の話を聞いてるのはレイだけだと思う。シンジは「エヴァに乗りたくない」と言う。それに対してレイは「もうシンジ君がエヴァに乗らないでいいように私が頑張る」みたいなことを言って敵に突っ込んでいく。ここにはちゃんとコミュニケーションが成立している。「私はエヴァに乗りたくない」→「あなたはエヴァに乗りたくないのですね。じゃあ、乗らないでいいように私が頑張ります」というのはとても素直なコミュニケーションだ。

だけどこの手の普通なコミュニケーションがこの物語ではほとんど見られない。「エヴァに乗りたくない」というシンジに、ミサトやゲンドウも「じゃあ、乗るな」とは言うけれど、それはどう考えても乗らざるをえないような状況で「乗るな」と言っているわけだから、実質的に「乗れ」と言っているのと同じだ。つまり、一種のダブルバインドになっている。ダブルバインド的なメッセージを子どもに対して発すると子どもの精神に大きな負荷がかかるというのをどっかで読んだことがあるけど、こんなゆがんだコミュニケーションではシンジがどんどん鬱屈していくのも当たり前だと思う。

寺山修司が昔、現代人に足りないのは「話し合い」ではなく「黙り合い」であるとか言ってたけど、この作品の登場人物たちもまず黙ることから始めてはどうだろうか。とりあえず、『破』で延々と独り言を繰り広げていたマリは、独り言の癖をやめた方が良いと思う。

しゃべりまくることによる自己正当化

なんだってみんなしゃべりまくっているのかといえば、余裕がないからなんだろうな。特に大人たち。大人たちはシンジたちみたいな子どもに命をかけさせている。普通ならそこに罪悪感を覚えるはずだ。ただ、その罪悪感を認めてしまったら使徒との戦いを放棄することになってしまうので、欺瞞だとわかっていても、自己正当化の理屈で自らを武装する。うっかり黙って相手の話を聞いてしまったら、子どもたちの「おかしいよ!」という意見に屈することになる。だから、相手の話に対し耳を塞いで、自己正当化のゆがんだ理屈をべらべらとしゃべることになる。

この手の自己正当化の代表例が、「すべて計画通りだ」というゲンドウの台詞じゃないだろうか。もちろん計画通りなわけがない。次にどんな使徒が来るのか予測がつかないのだし、エヴァパイロットたちの精神も不安定で先読みができない。計画破綻は日常茶飯事だろう。それでも「すべて計画通りだ」と言い張ることで、自分を正当化しようとする。

で、そんな父親を目の当たりにしているので、シンジもたくさん愚痴を言って自己正当化を試みる。ただ、人は暗いものが嫌いなので、ゲンドウの堂々とした自己正当化は誰も責めないけれど、シンジのうじうじした自己正当化はみんなが責める。どちらも欺瞞という点では変わらないのだけど。

さて、この物語はどんな風に着地するのだろう? 自己正当化合戦の末に、自己正当化チャンピオンが誕生して終わりなのだろうか。あるいは、すべての人々の欺瞞があばかれて自己正当化のおしゃべりが終わり、「黙り合い」に突入するのだろうか。あるいはレイみたいに、ちゃんと他人の話を聞く人の存在により、人々が和解するのだろうか。個人的には「和解」エンドが望ましいけれど、これまでのこの物語のノリを考えると、おそらく「黙り合い」エンドなんじゃないだろうか。

追記2022/07/10

『Q』を最初の30分だけ見てるのだけど、ぜんぜんわかんない。いきなり戦闘シーンが始まるものの、何と戦ってるのかわからないし、登場人物たちが何の話をしているのかもわからない。正直、映像の豪華さ以外に見るべきものは何もないという気がしてきている。もうやめようかなあ…。

不満ついでにもうちょいと書いて憂さを晴らそう。

『序』『破』を見て気になるのは、物語の極度のいびつさだ。

親子の確執がテーマなのなら、『美味しんぼ』と大して変わらない。母が亡くなって父と子の間がぎくしゃくしているというのも同じだし。で、そういうテーマを描くのに必要なのは、「人類なんとか計画」ではなく、「おいしい料理」だ。巨大ロボットを出さなくてもいいし、町を破壊したり人をたくさん殺したりする必要もない。

そして、巨大ロボットを出したりしない方が描きたいテーマをもっときちんと描けると思う。『序』も『破』も、わたしのように初めてエヴァを見る人にとってはあまりに説明不足だ。なぜシンジがレイに執着するのかもわからないし、なぜアスカがあんなにいつもイライラしているのかもわからない。なぜゲンドウがシンジとのお食事会に一度は参加する気になったのかもわからない。リリスとか人類なんとか計画みたいな陰謀論的設定に力を入れすぎて、肝心のキャラクターたちの心情描写がかなり中途半端になっている。人間関係の問題と陰謀論的設定をどちらも生かそうとしてどちらも失敗した、というのがこの作品なのではないだろうか。で、失敗しているという自覚があるから、テレビシリーズが終わった後も何度も作り直しているのではないだろうか。

失敗の原因はシンプルだ。テーマと素材がぜんぜんマッチしていないことだ。でも、この作品は素材の過激さがたぶん魅力になっている。この素材を捨ててしまうと、昔の純文学みたいな平凡な作品にしかならない。だから、テーマと素材がずれているとわかっていても、素材を捨てるわけにいかないのだろう。

そして、失敗しているがゆえに、失敗を覆い隠すために、素材はどんどん過激なものになっていく。エヴァ使徒が破壊されるときの描写は過剰にグロテスクだ。エヴァが町を走り回ることで町がどんどん破壊されていく描写も、震災で現実の町が破壊されていく映像を見てしまった後ではただただ不快なだけだ。そして極めつけは、暴走した初号機が二号機を撲殺するときに、童謡みたいなほのぼのした歌が流れるという演出だ。はっきり言って、悪趣味としか思えない。残酷なシーンにほのぼのソングを合わせれば残酷さが引き立つのは当たり前だ。物語中盤の手料理をめぐるほのぼの展開も、この残酷な結末を引き立てるための伏線でしかない。演出の過激さをここまで追求することで、いったい何が表現できたというのか。それは結局、何も表現できてないことを誤魔化すための目くらましでしかないのではないか。

『序』『破』を見終わった時点では、ただの失敗作としか思えない。親子の確執については『美味しんぼ』の方がよく描けているし、青春時代の孤独さとか自意識についてならもっとすばらしい作品がたくさんある(映画なら『クーリンチェ少年殺人事件』とか)。陰謀論と演出の過激さを取り除いたら、この作品に何が残るのだろう? 何もないんじゃないかなあ。そういう不安があって、『Q』の残りを見るのが気が重い。