【雑文】老いることも死ぬこともできない時代

お盆や正月に帰省するのはいつも気が重い。理由はいろいろあるけれど、突き詰めれば、年老いた両親とうまくコミュニケーションが取れないということだと思う。

父は若いころ国鉄になにか恨みでもあったのか、わたしが列車で帰省すると決まってJR北海道がいかにダメかということを語り始める。ダメでもなんでも、こっちは列車以外に選択肢がないのだし、今のところ別にダメとは感じてないし、車窓から見える海やら牧場やらの景色はけっこう楽しい。だけどそういうことを言っても聞き流されて、「本当にあいつらダメなんだよなあ」と語り続ける。列車乗り継いで帰ってきて疲れてるのに、なんでJR北海道の悪口を聞かされ続けなければならないのだ。それも毎回。きつい。列車に限らず、基本的にしゃべることは愚痴ばかりだ。愚痴を散々聞かされてストレスがたまり、わたしもまた、ここに愚痴を書いているというわけなのだけど。

母は母で人の話を集中して聞くことができないので、こちらが言おうとしていることを3回くらい繰り返さないと話が通じない。通じればまだ良い方で、何度繰り返しても何一つ伝わらないことの方が多い。

年寄りってのはそういうもんだよ、と脳内で自分を慰めたりもする。ボケて徘徊しないだけマシだよ、と。だけど、きついものはきつい。この世界には苦しみしかないのか、と言いたくなる。「盆と正月一緒に来たよな」というフレーズがあるけれど、盆と正月が一緒に来たらストレスで死ぬ。

近代化することで、社会の中での「老い」の位置づけがよくわからないものになってしまっている。昔は「ご先祖様」という言葉があったけれど、今はほとんど聞かなくなった。柳田国男の『先祖の話』によると、昔の人は、死んだら魂が山を登っていって、山頂で他の魂と融合して神様になるのだと信じていたそうだ。それで、お盆になると「山の神」として里に下りてくるので、それを子孫たちはお迎えする。それがお盆という行事の本来の意味なのだそうだ。そんな風に、自分もいつか死んでご先祖様になるのだと思えれば、死ぬことも歳を取ることももっとポジティブに捉えられるだろう。ご先祖様を粗末にすれば、自分もいつか子孫に粗末にされることになる。そう思えば、年寄りがちょっとボケたことを口にしても優しく許してやれると思う。

前近代社会では、老いることを受け入れるための仕組みがきちんと構築されていた。だけど今はそういう「ご先祖様システム」はもう機能していない。そうなると、年寄りはただの無能力者でしかなくなってしまう。老いていき、死に近づくことを、周りも、本人も、うまく受け入れることができない。そうやって、歳を取ることが誰にとっても「忌々しいこと」になってしまうのだ。

歳を取ることは忌々しい。そんな風にしか思えなくなってしまったら、いかに歳を取るスピードを遅くするかということに人々は夢中になるようになる。両親が見ていたテレビで、健康食品かなんかのCMをやっていた。80近くの老女が出てきて、最近は肌が張りを失って落ち込んでいたけれど、この健康食品を使うようになってからコラーゲンたっぷりでぷりぷりしていて元気になりました、みたいな主旨のことを言っていた。80近くの人が肌がぷりぷりしてなくて落ち込むということの意味がわからない。だって、80近くの人は肌がぷりぷりしてないものでしょう? 小学生の孫が「あれ、おばあちゃん、落ち込んでない? どうしたの?」と聞いてきて、おばあちゃんが「実はね、肌が昔みたいにぷりぷりしてなくて悲しくなってしまったのだよ。ああ、お前の肌はぷりぷりしていていいねえ。本当にいいねえ」と言ってきたりしたら、孫はぽかんとすると思う。そういう孫には楳図かずおの『洗礼』を読ませると良い。一刻も早くおばあちゃんから離れるべきだと気づくだろうから。

頭のいい人たちは、何か問題があればその問題を解決するのが良いことだと思い込んでいる。お肌がぷりぷりしてないのが嫌だ、という老女がいれば、お肌をぷりぷりさせるためのサプリを開発すれば良い、という風に。だけど、老いや死に関しては、むしろ問題を解決しないという対応が必要だ。なぜなら、老いも死も解決できない問題だから。というか、解決してはいけない問題だ、といった方がいいかもしれない。老いや死のない世界を描いたSF作品というのはあるけれど、たいていはディストピアが描かれていると思う。『銀河鉄道999』もそうだし、施川ユウキの『銀河の死なない子供たちへ』もそうだ。『銀河の死なない子供たちへ』の主人公は、最後には人間として、ちゃんと歳を取り死ぬことのできる道を選択する。そういうものなんじゃないだろうか? 老いも死も生きることの一部であって、それらを消去してしまったら、生きることさえもできなくなってしまう。『ゲド戦記』でも、老いと死を克服したはずのクモは、がらんどうのゾンビになってしまっていたではないか。アンチエイジングとか脳内情報のアップロードとかメタバースとか言ってるお利口な愚か者たちは、『ゲド戦記』と『洗礼』を交互に百回ずつ読んで出直してきた方が良いと思う。

老いや死に関してとるべき態度は、解決することではなく、受け入れることだ。そのために、昔は「ご先祖様システム」があったのだけど、今はそんなシステム残ってない。だから、個々人の才覚や努力でなんとかしなければならなくなっている。そこがこの問題のきつさだろう。老いた両親とコミュニケーションできないきつさというのは、いずれ自分もそうなることを受け入れがたいが故のきつさでもある。

大学院時代のわたしの師匠がある難病にかかって、あと半年持つかどうかという状況らしい。そんな状況なのに、師匠は死を恐れるでもなく、落ち込んでいる風でもなく、毎日哲学書を読んでいて面白おかしく暮らしている、と言っている。みんながこういう境地になれればいいけれど、自然とこうなるものではないのだと思う。何が必要なのだろう? 哲学? それとも文学? 結婚して子どもや孫ができたからといって、こんな境地になれるわけでもないと思う。だって、「ご先祖様システム」はもう無いのだから。老いや死を受け入れるというのは、人類に残された最大の難問なんじゃないか。だけど多くのお利口な人たちは問題を取り違えて、老いや死を消去することが問題だと思い込んでいる。今必要なのはお利口さじゃなくて、もっと野暮ったい、土の匂いがするような知性だ。岡本太郎は「芸術はいやったらしいものでなくてはいけない」とか言ってたけど、それに近い話だ。今の社会はお利口な人や、お利口な人に憧れる人が増えすぎていると思う。東大生ブームとか、知性の退廃としか思えない。