【雑文】自生的秩序って何なのかよくわからない

自生的秩序論でフェアトレード市場を考察する、という本があって、こないだやっと読み終わった。

フェアトレードとか倫理的消費とかの文献は、基本的に面白いものが少ない。「こんなすばらしい取り組みをしてますよ」みたいな事例報告とか「回帰分析をしたらこういう属性変数が有意になりました」みたいなマーケティング研究ばかりで、読んでも何も知見が深まった気分にならない。ようするに、「現状はこうなっている」という文献ばかりで、「何が問題なのか」とか「経済現象としてどういう点が新しいのか」といった本質的なことに切り込むものがほとんど見当たらない(あったとしても、筆者の思い込みを並べてるだけだったりする)。

その点、この本はすごくしっかりしている。「社会的経済」「倫理的市場」というふたつのカテゴリーを作った上で、両者を社会学的に丁寧に位置づけ、現実のフェアトレードが前者から後者の方に変化してきたプロセスを実証的に明らかにしている。書き方も中立的で、「フェアトレードはすばらしいです。批判者どもはクソで一掃されるべきです」みたいな偏りがなく、フェアトレードのダメなところもちゃんと整理してくれている。これ1冊読めば、他の凡百のフェアトレード本や論文は読まなくてもいいかもしれない、とさえ思っている。

ただ、この本のタイトルにもなっている「自生的秩序」というのが結局うまく飲み込めなかった。自生的秩序というのは、下のふたつモデルのうち、「倫理的市場」の方にあてはまるものであるらしい。

市場における利己的な経済行為を抑制することによってのみ倫理的に配慮された経済は実現される、という思考が支配的であったといえよう。その思考に基づいているのが「社会的経済」とよばれる経済モデルである。 (p29)

倫理的市場は、自由な経済活動の抑制を通じてではなく、むしろ自由選択を通じて自然環境や社会環境に配慮された経済が維持・形成されるという経済モデルである。 (p27)

で、倫理的市場は次のようにも説明されている。

「倫理的に動機づけられているわけではない行為」を説明の出発点に置くにもかかわらず「倫理的な経済」の成立が説明されるような理論的モデル (p30)

つまり、個々人は別に「倫理的に振る舞おう」と考えていないのだけど市場で自由に経済活動をしていると、全体としては自然や社会に優しい経済ができあがっている、という経済モデルを「倫理的市場」と考えているみたいだ。そして、フェアトレードは、社会運動的な「社会的経済」から、ファッションとしての「倫理的市場」の方にシフトしてきたのだという。

これはただの理論的な話で終わってなくて、ちゃんと実証も試みられている。認証制度に関する論争を考察したり、日本のフェアトレードの変遷を整理したりすると、やはり「倫理的市場」の方にシフトしていることは明らかだ。こうしたことは、消費者意識の調査結果からも裏づけられている。本書の第8章で、日本の消費者相手にアンケート調査した結果を統計分析しているのだけど、人々の公共意識(政治的関心の強さとか)は、フェアトレード商品の購入傾向に対して有意な影響が見られず、むしろライフスタイルへのこだわりとか、個性的な生活をしたいとかの変数の方が有意という結果になっている。つまり、倫理的に振る舞いたいわけでない人たちがフェアトレード商品を買っているわけだ。

人々は別に倫理的に振る舞いたいわけではない。しかしライフスタイルへのこだわりとか、個性的な生活をしたいとかの別の動機によってフェアトレード商品を購入する。にもかかわらず、結果的にはフェアトレードという倫理的取り組みが社会で広く行われるようになる。こういうのを「自生的秩序」と考えているみたいだ。

現在のフェアトレードのあり方を解釈しようとしたら、そういう解釈もある程度妥当だとは思う。でも、引っかかるところもある。

そもそも「何が秩序なのか?」というのを誰が判断するんだろう。「フェアトレードを進めるのは善いことだ」と考える人がいるから、フェアトレード市場が成り立っていることは秩序だと判断されるのではないだろうか。

ぜんぜん別の例で考えてみる。いろんなモノが散乱している部屋を見て母親は「なんでこんなに散らかってるのよ!」と怒る。それに対して娘は「わざとこうしてるの! 勝手に動かさないでよ!」と反論する。この場合、ふたりの考える「秩序」は互いに食い違っている。モノが片付けられているのが秩序なのか、モノが散乱しているのが秩序なのか。客観的に決めることはできない。

フェアトレードだって同じことで、「フェアトレードが行われているのは善いことだ」と考える人にとってはそれは秩序だ。しかし、「フェアトレードは市場をゆがめる」と考える人にとっては、むしろフェアトレードは無秩序をもたらすものになるだろう。

そもそも、倫理的市場の定義の中に「倫理」という文言が入っているのだ。もう一度引用してみよう。

「倫理的に動機づけられているわけではない行為」を説明の出発点に置くにもかかわらず「倫理的な経済」の成立が説明されるような理論的モデル (p30)

ここで、「倫理的に動機づけられているわけではない行為」という風に判断している人は、逆にいえば、何が倫理的であるかがわかっているのだ(「フェアトレードは倫理的に善いことだ」とか)。つまり、何が倫理的に善いことか、ということをあらかじめ前提にしないとこういう定義はできない。

ぐだぐだと何を重箱の隅をつつくようなことを言っているのかというと、ようするに倫理的な人がいないと、秩序は守られないのではないだろうか、ということを言いたいのだ。これが倫理的に善いことだと考える人がいるからこそ、何が秩序かということが定まってくる。そういう倫理的な人を視野から外すと、あたかも「倫理的に動機づけられていない人たちがによって秩序が守られている」ように見える。だけど、そういう風に見ている人自身が、実は「フェアトレードは倫理的に善いことだ」と考えている倫理的な人なのだ。

と、書いていて、ただの揚げ足取りのような気もするのだけど、本質的なところを突いているような気もする。もうちょいと考えてみよう。

思考実験として、人々が義務教育で経済学を徹底的にたたき込まれる社会を想定しよう。完全市場での競争は社会的余剰を最大にする、関税や価格介入は市場をゆがめる悪である、というのをすべての人が常識として身につけている社会だ。こういう社会では、そもそも「フェアトレードは倫理的に善いことだ」という発想は出てきそうにない。また、それだけでなく、「フェアトレード商品を使うことはおしゃれだ」という、倫理的市場が想定するような消費者さえも現れなくなるだろう。むしろ、「フェアトレード商品を使うことは不潔だ」くらいの考えの方が主流になるのではないだろうか。倫理的に問題のあるものを人々が選好する、というのは考えにくい1

もちろん、「倫理」なんて何も気にせずにフェアトレード商品を買っている人はたくさんいると思う。しかし、それはそういう現象だけ見ればそう見えるということであって、もっと背景を見れば、いろんなところに倫理は関与しているのではないだろうか。そもそも「フェアトレードはおしゃれ!」という選好も、広い意味ではその人の倫理観に裏づけられたものかもしれない(つまり、政治意識は高くないけど、困っている人を助けることは善いことだくらいの倫理観は持っている)。そうした倫理観は教育やメディアからの情報や他者との対話を通して育まれたものかもしれない。また、フェアトレードの認証制度を立ち上げ、維持すること、コネも何もないところでフェアトレード事業を立ち上げようとすること。そうしたことは、強い倫理観がないと実現できないことだろう。また、こうした本を書いたり、その本をこうして読んだり書評したりすることも、何らかの倫理観に基づく行為だろう。

じゃあ、あなたは倫理的市場ではなく、社会的経済を支持するのですね? という風に言われそうだけど、そういうことでもない気がする。そうじゃなくて、そもそも市場と社会を対立項として捉える発想に違和感がある。大体、市場というのも社会制度のひとつなわけだし、ヘルマン=ピラートによれば選好さえもが制度の一種だというし。市場と社会を対立項として捉えてる点では、社会的経済も倫理的市場も同じだと思う。わたしは、そういう対立軸自体が違うんじゃないかと思っている2


  1. 「いや、でも8章の意識調査の結果によると、倫理的に振る舞いたいわけでない人たちがフェアトレード商品を買っているんでしょう? だったら、倫理と選好は別の話なんじゃないの?」というツッコミが入りそうだ。でも、この意識調査も、もうちょいとやり方を変えてできそうな気がする。公共意識が強い人のなかでも、フェアトレード購入では社会的問題を解決できない、という風に考える人もいるかもしれない。そういう人たちの存在によって変数の影響が相殺されてる可能性はある。フェアトレードが社会問題解決にどの程度有効だと思うか、みたいな説明変数を追加すれば、公共意識が有意になるということもあるかもしれない。

  2. 筆者は別に経済と社会は無関係だと言っているわけではないみたいだ。たとえばこんな風に書いてある《経済の論理に外在する言葉(たとえば社会正義)を用いた企業批判や産業批判は、経済システムにとってはしょせん「ノイズ」でしかない。もちろん、その「ノイズ」に込められたメッセージは社会的には重要である。だからこそ、社会の側としては、それが「ノイズ」として処理されてしまうのではなく、経済システム内部で重要な問題として受容されるために、そのメッセージが経済システムの関心に持続可能な言語への積極的に翻訳される必要がある。》p289。だけど、翻訳可能なのならそれは「ノイズ」じゃないんじゃないかなあ…。あと、その前のp288だと、《倫理的配慮が人びとのニーズを満たす商品となるだけではなく、政府による法的規制や業界内基準などの整備を通じて、環境や社会の保護が常態化されなければならない》とも書いてある。でも、それはまさに社会的経済そのものでは? やっぱり、何をもって自生的秩序と言っているのかが最後までよくわからなかった。