【読書ノート】『ルールに従う』第7章

アトピーみたいな謎の奇病にかかってしまって、しばらくセーフモードで生活していたけど、そろそろ日常に戻らなくては。胸が痛痒くてしょうがないし、肌を刺激するのが怖くて髭も剃れない(顎がフサフサしてきた)。この本が何の本だったのかも忘れつつある。でも乗りかかった舟だし、なんとか最後まで読みます。

第7章 超越論的必然性

イントロ

本章の目的は、動機的懐疑主義の問題を扱うことだ。

動機的懐疑主義とは、ある行為が「正しい」とか「間違っている」と判断できるとしても、どうしてその人がそういう判断にもとづいて行動する動機があるのかがわかんない、というタイプの懐疑主義だ。

たとえば、困っている人を助けるのが正しいことだとしても、自分が実際にするかどうかは別の話だ、という風に動機的懐疑論者は疑う。でもこの問題は、私が前章で示した規範同調性の議論を使えばうまく解決できるだろう。

7.1 懐疑論的解決

ヒュームの懐疑論的解決とは、懐疑論者たちの主張を受け入れたとしても、生活上は別に困らないよ、ということを示そうとする解決策だ。ヒュームにとって、人は習慣にしたがって動く生き物だ。だから、何が正しいかなんてわからなくても、人々はそういう風に動くのだ。何か問題ありますか?

問題あります。ヒュームによれば人々がそういう風に習慣的に動くのは、人々が互いに共感しあって動くからだということだ。だけど前章で議論したように、人間の超社会性というのはそういうものに基づいてはいない。共感はもっと狭い範囲で働くものであって、人間の超社会性を説明できるようなものではないのだ。

7.2 懐疑論的解決の問題点

懐疑論的解決は、「道徳の根拠がわからなくても、人々は習慣に従ってとにかく動いているのだから、何も問題ないでしょう?」という風にして、懐疑論の問題を解決する。

でも、われわれは必ずしも習慣に従って動くばかりではないはずだ。自発的な感情的反応に従うのに抵抗をおぼえることだってある。たとえば昔の人は拷問を楽しんで見物していたけれど、今の時代だと、そういう反応は社会的にアウトな反応だ。自発的な感情反応を克服しないとならないことはあるし、それに応じて規範も変化しないとならないこともある。

じゃあ、そうやって自発的な感情反応を克服できるのだとしたら、自分が持っている利他的性向を完全に捨ててしまうこともできるのではないだろうか? たぶん、ある程度は捨てられるだろう。しかし、規範同調性だけは捨てることができない。なぜなら、道徳性と合理性の間には内的連関が存在するからだ。

7.3 超越論的論証

道徳に従う理由なんてないよ、という懐疑論者に直接反駁することは難しい。でも、そもそもそういう懐疑自体が認知的にアクセス不可能なんだよ、という風に懐疑論的疑いを中立化することはできる。これは、カントのいう超越論的論証という奴と同じタイプの議論だ。

カントの「因果関係」を考えるのに超越論的論証を使っている。

ヒュームによれば、因果関係なんてものは存在しない。われわれが見るものは一連のバラバラな出来事にすぎず、観察だけからは因果関係を見つけ出すことはできない。

しかしカントによれば、因果関係とはわれわれが知覚する何かではなく、われわれが経験に「読み込む」ものだ。因果関係を読み込むからこそ、われわれは対象の知覚的経験を概念化することができる。「因果的連関がない世界」は論理的に可能だけれど、そんな世界はわれわれにとって認知不可能なものだ。だから、「因果関係が存在する」と積極的に主張することはできないけれど、「因果関係は存在しない」という懐疑論的疑いは中立化することができる。なぜなら、そんな懐疑論者に対しては、「じゃあ、そもそもそういう因果関係が存在しない世界をあなたはどうやって認知したのですか?」と言い返してやればいいからだ。

で、こういうカントの考え方はヴィトゲンシュタインにも共通している。ある状態がわれわれにとって認知的に可能であるためには、われわれがその状態が何であるかを言うことができなければならない。それでヴィトゲンシュタインは「言語の限界が私の世界の限界である」と主張するのだ。

7.4 論証

さて、規範同調性に話を戻そう。ここで問題になるのは、規範同調性に結びついた動機の構造は超越論的に必然的なのかどうかという点だ。もしそうなら、先に述べたように、規範同調性を捨てることはできない、ということになるだろう。

規範同調的性向に対する超越論的正当化を、つぎの3つのステップで論証してみよう。

  • ステップ1. 言語は社会的実践である

    • したがって、主体には発話に伴うコミットメントを引き受けたり逃れたりする能力が無くてはならない。
    • となると、義務的制約を作り出し、尊重できる主体のみが意味のある発話をなすことができることになる。
  • ステップ2. 志向的状態は義務的地位である

    • どういうことか? 信念というのは志向的状態だ。そして、「ある人がpであることを信じている」というのは、「この人がpという主張にコミットしている」ということだ。だから、信念を持つというのは義務的地位だということになる。
    • ところで、義務的地位に反応できるのは規範同調性を持つ個人のみだ。
    • したがって、規範同調性を持つ個人のみが志向的状態を持つことができる。

      • 規範同調性を持たなくて、義務的地位を無視する奴は、「俺は明日雨が降ると信じている」と主張する一方で、「俺は今日地球が滅びると信じている」というような矛盾した主張をするだろう。そういう奴は自分の主張にきちんとコミットしてないわけだから、何らかの信念を持っているとは言えない。したがって、志向的状態を持っているとも言えない。
  • ステップ3. 純粋に道具的に推論することを意思決定し、そうすることは、義務的地位に反応することとなり、したがって規範的コントロールの実践となるだろう

このように、規範的コントロールシステムは、合理的反省のプロセスを遂行するために発動しなければならない能力なのだ。だから、こういう能力を疑問視することは、認知的に無意味なのだ。規範的コントロールは思考の可能性の条件なので、合理的主体は決してそれを消し去ることができない。

7.5 反論

この論証に対して、いろいろ文句のある人もいるだろう。次の3つのタイプの反論について、それぞれ検討してみたい。

反論1:このことがすべて正しいとしても、われわれは言語能力を構成する実践に参加するために必要とされる義務的地位だけを尊重する性向を持つ可能性がないだろうか?

反論1への回答:人々は、一般的に規範に同調する性向を持っているのだ。ひとたび開かれた模倣的性向が発達すると、進化上、それをより選択的な性向に修正するのは難しい。それは、ひとたび複眼が発達すると、水晶体を持った眼を進化させる方向に移ることが難しくなるのと同じ事だ。

反論2:この論証は説明しすぎのリスクを冒していないだろうか。われわれは規範同調的選択性向を本当に欠いているような合理的人々にときどき会っているということはないのだろうか。

反論2への回答:規範的考慮に対して本当に何らの重みも割り当てない大人は、そもそも社会化に失敗した人なのだ。そういう人は確かに存在する。しかし彼らは合理的討議に反応する能力も失っているものだ。あと、一見、規範的考慮に対して重みを割り当てていないように見えても、本人は割り当てているつもりということもある。たとえば、何かを盗んだとき「ちょっと借りただけですよ」と合理化する人はいる。多くの人から見たら彼は悪だが、本人は規範から逸脱していないと考えているのである。

反論3サイコパスはどうなのか?

反論3への回答サイコパスといってもいろいろありましてね。1次的サイコパシーの人たちは、共感能力は欠如しているけど、道徳性そのものまで欠如しているわけではない。一方、2次的サイコパシーの人たちは、規範的コントロールが弱い。そして彼らは、「行動コントロールの弱さ」「現実的な長期計画の欠如」という特徴も持っている。つまり、彼らは道徳性が欠如することによって、合理性も欠如してしまっているのだ。だからやっぱり、規範同調性は個人の認知的能力を傷つけることなく取り出せるようなものではないのだ。

7.6 結論

規範同調性を克服しようとするどんな試みも形式的に排除される。なぜなら、そうした意思決定は、合理性そのものを拒否することになるからだ。

感想

前章では、規範同調性を仮定すれば、人間の合理性(志向的計画システム)の起源を説明できる、というのを進化論から裏づける議論が行われた。で、本章ではこの「人はルールに従うから合理的なのだ」という主張を哲学の方から裏づけようとしてるのだと思う。その論証をコンパクトにまとめたのが次の一文だ。

この論証の鍵となるアイディアは、合理性は言語の使用を含むのだから、また言語を学習することは規範的に規制された社会的実践をマスターすることを必要としているのだから、規範的コントロールは合理的主体性の前提条件となるということである。 p374

ようするに、合理的に考えるためには言語が使えないとならない。で、言語はひとりで好き勝手に使ってはいけなくて、他の人に通じるものでなくては意味がない。だから、言語を使える人は、規範的コントロールに従っている。したがって、合理的に考える人は、規範的コントロールに従っている(ルールに従っている)ということになる。

個人的には、前章より本章の方が納得いく議論のように思える。前章は進化論とか赤ちゃん相手の実験研究に依拠したものだ。でも、私は進化論とかあまりよくわかってないので、本当にそうなのかなあ、という気持ちが拭えなかった。新しいデータが出てきたら結論がひっくり返ってしまったりしないのかなあ、と。でも本章はひたすら理詰めなので、かえって受け入れやすかった。

残りあと3章。体が痛痒くてしょうがないけど、まあ、しょうがない。頑張ろう。