【雑文】合理もキツいし、非合理もアレだし。

合理性というのは、必ずしも経済合理性のことではない。「理に適う」というのが合理性ということだ。100円と200円を差し出されたとき、200円を選ぶのは理に適っている。たとえ100円しかほしくないとしても、とりあえず200円もらっておいて、100円は貯金しておけばいい。だからどんな人だって200円選んだ方が理に適っているように思える。だけど、「お金に意地汚いと思われるのが嫌だから」という理由で100円を選ぶのも理に適っているように思える。つまり、相手にきちんと理解できる理由を言えるのなら、それは理に適っているのであり、合理性があるということなのだ。

また、合理性は、科学的であるということともイコールではない。遺伝子組み換え作物の健康への悪影響は科学的には実証されていないという。だとしたら、遺伝子組み換え作物の普及に反対するのは非科学的な態度だということになりそうだ。だけど、「実験室実験で実証されたことが、実験室外でも長期的に妥当かどうかはわからない」と予防原則的な立場から反対するのはそれなりに説得力のある理由だ。あるいは、「われわれの文化では遺伝子組み換えは不自然なことだ」というのも理由としてありうる。もちろん、なんかかんか理由を言ってゴネれば全部通ってしまうわけではない。「遺伝子組み換えが不自然だとか言ってるけど、じゃあ、品種改良のために異種交配することはなんで不自然じゃないんですか?」と反論すれば、相手はぐうの音も出なくなるかもしれない。「だって、不自然なものは不自然なんだからキモくて嫌じゃないですか!」みたいな返事が返ってきたら、それは合理的な回答とは言えないと思う。

ここで私が考えている合理性は、アマルティア・センとかブランダム(そしてブランダムに全面的に依拠しているヒース)とかが言ってる合理性であって、ようするに、「自分の主張について、相手に理解できる理由をきちんと言える」という意味での合理性だ。経済学や科学は強力な「理由」を提供してくれるけど、必ずしも無敵ではない。自分の子どもが事故で亡くなって悲嘆に暮れている人に、「まあ、今どき子ども1人育てるのはマンション1部屋買うくらいお金かかるんだし、育ったとしてもあなたの老後の面倒を見てくれるわけでもないし、経済的にはかえってラッキーだったんじゃないですか? 浮いたお金で株でも買いましょうよ。それに、そうやって悲しんでたって人は死んだら無なわけで、あなたの繰り言はあなたのお子さんにはもう届かないですよ。圏外なんです。悲しんでいたらストレスがたまって病気になりますから、ラーメンでも食べたらどうですか? ラーメン。脂っこいものは健康に良くないですが、今あなたに必要なのはドーパミンですから、おいしいものを食べましょうよ。ラーメン、あるいはステーキ」とか言って慰めたりしたら、たぶん相手は怒りを通り越して、恐怖のまなざしであなたを見つめるだろう。この場合、場違いなシーンで経済や科学を持ち出したあなたの方が非合理な狂人と成り果てているのだ。

ここで言っている合理性を保証するもののひとつに「常識」が挙げられる。非常識な発言をすると、非合理な人だと見なされる可能性が高まるだろう。だけど、だったら非常識なことは一切認められないというわけでもない。それでは、この世界にイノベーションは一切発生しないことになってしまう。世の中の人々の大半に理解されない考え方でも、数人の人が認めてくれるなら、そこからじわじわと社会全体に普及していって、数年後、数十年後には新しい常識に変わっているということもありうる。パラダイムシフトみたいな話だ。もちろん、大半は普及しないまま消えていく。それは、常識が頑丈だからというのもあるだろうし、その人の考え自体があちこちに穴があって論破されまくりのみじめなものだったということもあるだろう。ただ、合理的に常識をひっくり返すことは不可能ではない。常識は合理性を保証するけれど、合理性によって常識を点検し直すこともできるのだ。

こう考えると、合理性はなかなか良い物のように思えてくる。合理的な人は冷たいとか心が無いとか言われがちだけど、それは合理性を狭く考えるからだ。子どもが死んで悲しんでいる人に経済や科学を持ち出す人は確かに冷たい。でも、経済や科学ばかりが合理性ではないのだから、合理的な姿勢を崩さずに人に優しくすることだってできるだろう。

ただ、そうはいっても、悲しんでいる人相手にあれこれ合理的に何か主張して慰めようとしても、上滑りになってしまいそうな気がする。そういう場合、むしろ沈黙するべきなんじゃないだろうか。

私は元々ブンガク人間で、大学で研究室に入ってから初めて社会科学を始めたような人間なので、心の奥底では合理性よりも沈黙の方に惹かれている。理屈からいえば合理性は大事だ。センやブランダムみたいに合理性を広く捉えれば、経済学や科学よりももっと繊細に人々を理解することができるし、多くの人にとって納得のいく社会のあり方を提案することもできるだろう。そうなのだけど、それでも時々、合理性ってなんか息苦しいよなあ、と思ってしまう。理由を言えることが合理性だ。だけど、理由なんてないと言いたい時は普通にある。内田百閒の有名なエピソードで、芸術院の会員に内定したから会員になれと言われたときに、「いやだからいやだ」と言って断ったというのがある。出所不明なのだけど、ネットで適当に検索するとこんなのが見つかる。

「なぜと云えば、いやだから。なぜいやか、と云えば気が進まないから。なぜ気が進まないからと云えば、いやだから。」

この合理性の全面的放棄にしびれる。「いやだからいやだ」はトートロジーであって、理由になってない。合理的に断るのならきちんと相手にわかる理由を言うべきだ。「いろんな義務が発生してめんどうくさそう」とか「そういうのは私のキャラに合ってない」とか、そんなのでもいい。それさえも言わない。実際のところ、「いやだからいやだ」なのだろう。

「いやだからいやだ」を幼稚だと言う人もいるだろう。でも私は、「いやだからいやだ」は捨ててはいけないことだと思っている。で、たぶんそれは、吉本隆明がある講演のなかで言っている「沈黙」に近いものだと思う。

僕が芸術言語論ということで第一に考えたことは、 言語の本当の幹と根になるものは、 沈黙なんだということです。 コミュニケーションとしての言語は、 植物にたとえますと 樹木の枝のところに花が咲いたり実をつけたり、 葉をつけたりして、季節ごとに変わったり、 落っこちてしまったりするもので、 言語の本当に重要なところではないというのが、 僕の芸術言語論の大きな主張です。

吉本隆明芸術言語論 ――沈黙から芸術まで」

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吉本さんによると、言語の幹や根は沈黙であって、コミュニケーションとしての言語は枝葉でしかない。となると、センやブランダムのいう合理性というのは、言葉の枝葉の部分しか見ていないということになるのではないだろうか。他人に分かるように理由を示せる。そういう合理性が成り立っているからこそ、コミュニケーションは成り立つ。しかし、それはあくまで枝葉のことであって、言語の沈黙の部分はそこには現れていない。

「いやだからいやだ」という内田百閒の言葉は、どちらかといえば「沈黙」に近いと思う。トートロジーというのは論理的には何も言ってないのと同じ事なのだから、コミュニケーションを放棄しているという点で「沈黙」だ。しかし、沈黙だから無だということではなくて、その沈黙には何か簡単に否定できない魅力がある。

つまり、偶然のように、ある読者は、ある事を考え、偶然ある本を読み、そしたら、そこに書かれていることは、自分と同じようなことを考えてる人がいるんだなとを読者の人に思わせたとか、自分はこう思ったけども、同じようなことを考えたけども、ここまでしか考えられなかったのに、この人は、もっと奥を考えてるなということがわかったとか、そういう偶然と偶然の、それも、偶然と偶然と、しかも自己表現と自己表現が、たまたま出会ったときしか、文学芸術の感銘っていうのは、ないわけなんですよ。それ以外の力っていうのは、ないわけですよ。

吉本隆明芸術言語論 ――沈黙から芸術まで」

文学作品には非合理な主張が満ち満ちている。トートロジー、論点先取、矛盾、飛躍などなど。論理的に解釈していったらわけがわからなくなる。だけど、そういう作品を読みながら、「自分と同じようなことを考えてる人がいるんだな」と思うことはある。論理的には全く納得させられないのに、そこに書かれていることが本当だと思えて、逆に、論理的につじつまの合う合理性の方がうさんくさく思えてしまう。子どもが死んだ人にぺらぺら話しかけて慰める人はうさんくさいだろう。沈黙は、理由を明示してないという点で非合理だ。だけど、その沈黙の方がむしろ本質であり、合理性は枝葉に過ぎないと思えることはある。

かといって、「合理性はクソ。やっぱり芸術だよね」みたいな風にも言いたくない。合理性批判はわりかし「資本主義の否定」や「科学の否定」につながりがちだし、さらには「分かる奴に分かればいい」という独断にもつながりがちだ。そうした流れが政治的な分断を招いたり、意味不明な陰謀論が温存されたりして、結果的に社会に害悪を成していると思う。ただのブンガク好きの人が、気がついたら何の意義があるのかよくわかんないデモに駆り出されてたなんてこともあるだろう。

まあ、バランス感覚が大事、という安直なことしか言えないのだけど、バランス感覚って人間というバイアスまみれの生物に一番欠けているものだと思う。私としては、「合理性は社会にとってすごく大事だけど、でも合理性ばかりだと息苦しいから、非合理なものにも居場所は必要だし、ていうか非合理なものこそが本質だよね?」と言いたいのだけど、そういうフニャフニャな日和見野郎の意見はノイズとして流されるか歪曲されて解釈されるだけで終わりだ。

「ようするにワクチン打つなってことでしょ?」そうじゃないよ。公衆衛生は大事です。「じゃあ、あなたは功利主義の信奉者なんですね?」だからちがうって。人の意見を簡単に「ようするに」とか「じゃあ」でまとめないでください。人間は持ち前のバイアスとヒューリスティクスを活用して楽したい生き物なので、「ようするに」と「じゃあ」が大好きなのだ。

「主義」とか「信念」とかにのめり込むとろくなことにならないってことが言いたいだけです。最近はピンカーとかの影響で「合理性」勢の方が強くなっているみたいだけど、これだって「合理性主義」になってしまったらたまったものじゃない。「いやだからいやだ」っていつでも言えるように、内田百閒を読みましょう。