【読書ノート】 Philosophical Foundations of Climate Change Policy第4章

第4章 The Case for Carbon Pricing(カーボンプライシングの課題)

イントロ

前章で議論したように、気候変動を世代間正義の問題として考えるのはミスリーディングである。もし将来世代の厚生を促進することが義務でないのだとしたら、温室効果ガス排出はなぜ「悪」なのだろう? 先に回答を述べておこう。それは、温室効果ガス排出によって「負の外部性」が生み出されるからだ。

4.1. Market Reciprocity (市場の互酬性)

市場は間接的互酬性に基づく複雑な協力システムである。

市場は財の巨大なプールとして思い浮かべることができる。このプールに対して、個人は貢献することもできれば、何かを引き出すこともできる。それぞれの個人が寄与する価値がその人が引き出す価値とおおむね等しくなるときに、互酬性が満たされる。しかし、近代社会では分業が行われているため、財集合はほとんど気が遠くなるほどに多種多様なものとなっている。ここで、互酬性の条件が満たされているかどうかをチェックするために、特定の貢献や共有プールからの特定の引き出しの価値がいかに評価されるべきかを決めるという問題が発生する。つまり、何らかの共通尺度が必要なのだ。

そうした尺度として一般的に知られているのが価格である。われわれの社会における一般的な価格システムは、ざっくり言うと、財の価格はそれにより生み出すことのできる満足の量と、その生産に関わる不都合の量という、ふたつの要素のバランスを反映しなくてはならない、というものとして成り立っている。

われわれの社会が価格を制度化する主な方法は、市場を利用するものだ。しかしこうしたやり方は多かれ少なかれ不完全なものである。たとえば外部性が存在する。 負の外部性とは、個人が他者に厚生上の損失を与えうるが、大気のように財産権が確立されていないものを通して損失が生じているために、相手に補償を行う義務がない場合に発生するものである。

この問題を考えるひとつのやり方は、市場価格を謝罪モデルで捉えることだ。

あらゆる消費行動は、ある種の「良さ」を以前より少なくするという意味で、社会に対してコストを引き起こす。私がコーヒーを一杯注文し、飲んだら、この世界からコーヒーが一杯少なくなり、それを他の人はもう享受することができない。現代社会に存在する複雑な分業が持つ主要な利点は、私がこのような仕事を何もかもしなくても、他人にやってもらうことができることができることだ。

どうせ誰かにコーヒーを入れてもらえるのなら、私は好きなだけガブガブコーヒーを飲んでもいいのだろうか? つまり、「過剰消費」をしてもいいのだろうか? それはダメだ。というのは、私にはコーヒーの対価を支払う義務があるからだ。この義務があるために、私は消費の対価として何か(つまり、金銭とか、その金銭で買えるはずだった物)を諦めなければならない。これにより、私が消費することによる社会的コストは内部化される。

コーヒー一杯のような何かの代金を支払う義務は、私が消費することで迷惑をかけたすべての人に「謝罪」することだと考えることができる。私が支払う追加金額は、事実上、私にコーヒーをつくるために時間、エネルギー、資源を費やしてくれた人たちに対しての謝罪であるといえる。私が謝罪しなければならないのであれば、時間、エネルギー、資源、労力の現在の配分を維持するよりも、消費を縮小する方がましだろう。

しかし、迷惑をかけられた人全員に謝罪しなくてもいい状況はたくさんある。たとえば、私からの迷惑をこばむ権利を相手が持っていないような状況だ。ギャレット・ハーディンの「コモンズの悲劇」論文が描くのはそういう状況だ。

ハーディンの議論はよく誤解される。そうした誤解は、インフォーマルなコモンズではコモンズの悲劇は発生しないという、ハーディンに対する批判にみられるものだ。エリノア・オストロムによれば、単にコモンズが存在する(つまり私有財産権がない)というだけでは、必ずしも悲劇を生み出さない。もし、その集団がインフォーマルな規範や道徳的な制約など、その他の制度的な取り決めによってフリーライドを防ぐことが可能であれば、それは問題を解決するための完全に合理的な方法となる。

しかし、そうしたインフォーマルなコモンズで成り立つことは、一般的に言って拡張性に欠ける。 つまり、人々が互いによく見知っていて、信頼し合っている小規模な定住型コミュニティではうまく機能したとしても、関係者の数が多くなるにつれて維持が難しくなる。見知らぬ人々の間ともなれば実質的に維持が不可能になるだろう。

このため、私有財産制度が実施できない場合のコモンズ問題の標準的な解決策は、法的規制(国家による強制的なルール付与)を実施することである。 この種の規制は様々な形式を取り得る。その中には、「価格を修正する」という方法もある。この場合、負の外部性の生産にかかる費用を個人に強制的に支払わせることになる。 これは、このようなアプローチを提案した経済学者アーサー・セシル・ピグーにちなんで、ピグーと呼ばれている。温室効果ガス排出量は、ピグー税をかける対象として理想的な候補である。

気候変動の場合は問題の時間的な次元が違うため、ピグー税の適用は不適切だという意見もある。 私たちの行動によって不利益を被る人の多くは、まだ生まれていない将来世代だからだ。思考実験として、こういう社会を想像してみよう。時間がシーズンごとに離散的に区切られていて、交換取引では季節ごとに生産される財の集合だけが用いられる(先物契約はない)農耕社会だ。このような社会では、あるシーズンに財を販売する人は、そのシーズンに市場に参加する人だけで構成される協力システムに参加することになる。したがって、協力が成り立つのは1つのシーズンのあいだだけだ。この制度的状況において、人々が社会的コストを後のシーズンの人々に押しつける(外部化)するのは当然だろう。つまりこの場合、ピグー税は役立たずということになる。

しかし前章の分析で示したように、私たちの経済は一連の個々の交換によって成り立っているのではなく、むしろ未来の方へ無限に広がる世代間協力のシステムである。このような経済の重要な特徴は、貯蓄を奨励することである。この貯蓄と投資のシステムは、離散的な協力交換の集合でしかなかったものを、将来世代を含むオープンエンドな協力システムへと変貌させる。

現在、私たちがほとんど、あるいは全く抑制することなく温室効果ガスを排出しているという事実が意味しているのは、投入しているものの価値に対し、私たちが自分たちの割り当て以上のものを取り出しているということだ。 したがって私たちは、自分たちと将来世代を結びつける世代間協力のシステムにおける互恵性条件に違反しているのだ。これが、われわれが温室効果ガス排出にピグー税を課すべき理由なのだ。問題は、われわれがフリーライディングしているということなのである。気候変動は帰結主義者たちが典型的に考えてきたような「世代間正義」の問題ではない。シンプルに、普通の正義の問題なのである。

4.2. Carbon Pricing (カーボンプライシング)

この問題に対し最も広く支持されている政策対応は、化石燃料の価格、もっと一般的に言えば温室効果ガスを排出する活動の価格を引き上げ、これらのコストが完全に内部化されるようにすることだ。これを実現しようとする規制的アプローチはいずれもカーボンプライシングと呼ばれるものだ。

カーボンプライシングの基本的アプローチには、キャップ&トレード炭素税という2つがある。キャップ&トレードは排出量の軸に規制介入するものであり、炭素税は価格の軸に規制介入するものだ。キャップ&トレードなら(排出量に上限を設ける許可制を導入することで)供給量を変えることになり、すると(取引によって許可価格が決まるので)価格が調整されることになる。一方、炭素税なら(炭素排出活動に課徴金を課すことにより)価格を変えて、量を調整させることができる。このように、キャップアンドトレードは間接的に炭素に価格をつけるが、炭素税は直接的に価格をつける。しかし、どちらの場合も、重要なのは炭素価格である。というのも、これにより排出量削減のインセンティブが生じるからである。

環境の外部性を制御する上で、価格づけ制度の構築が常に正しいアプローチではないことを認識しておくことは重要である。 場合によっては、国が直接的に禁止や排出規制に取り組んだ方が良い場合もある。しかし、そうしたやり方の柔軟性のなさが問題になるケースもある。例えば、技術が急速に変化している場合、特定の技術を義務付けることは開発を阻害し、場合によっては達成可能なレベルよりも高い汚染レベルを固定化する可能性がある。あるいは単純に、具体的なルールの策定が難しいことが問題である場合もある。

例えば、アメリカで好まれる自動車である「スポーツ・ユーティリティ・ビークルSUV)」の開発は、厳格な環境規制が逆効果を生むことを示す好例といえるだろう。アメリカ政府は燃料に重い税金を課す代わりに、自動車メーカーに対して燃費の達成目標を規定している。しかしこれによって問題が生じている。というのは、自動車にはさまざまなサイズ、さまざまな用途があるため、妥当な燃費基準を定めるのは困難だからだ。そのため、販売される自動車全体の平均燃費のみを規制し、具体的な自動車モデルについては自動車メーカーが独自に判断できるようにした。 しかし、こうした基準をすべての車に適用できるわけではない。例えば配送トラックなどの商用車には、乗用車と同じ排出基準を課すことはできない。これによりグレーゾーンが生まれ、農家が昔から乗っていた「ピックアップ」トラックは商用車として分類され、乗用車の燃費基準から除外された。これは燃費法の巨大な抜け穴となり、消費者は乗用車としてこうしたトラックを購入するようになったのだ。これに対し自動車メーカーは嬉々としてSUVを販売するようになり、旧式のステーションワゴンを廃止した。というのも、大型車を取り除くことで、他のあらゆるカテゴリーにおいて燃費の悪い車を販売することができるからだ。 このように、アメリカの環境規制は、路上を走るアメリカ車の平均燃費を低下させるという逆効果をもたらしてしまったのだ。アメリカ政府が直接規制するのではなく、燃料税を上げていたら、このようなことはいっさい起こらなかっただろう。

それでは、カーボンプライシングのために、キャップ&トレードと炭素税、どちらが好ましいだろうか。それは、炭素税の方だ。キャップ&トレードにはいろいろ問題がある。 まず、気候は排出量に対して特に高い感度を示すわけではない。1、2ギガトンの炭素排出を追加しても、気候には全体としてそれほど大きな違いは生じないかもしれないのだ。次に、キャップ&トレードは不況の時期に逆効果を生み出す。例えば2009年の金融危機に引き続いて、欧州取引システムにおける炭素排出権の価格が急落した。経済活動が停滞すると(炭素排出が停滞するため)、許可証価格が下がる。そのため、キャップ&トレードが排出量の増加を刺激してしまったのである

こうした懸念に対する標準的な対応は、許可証の取引価格に下限を設けることである。しかし、企業はむしろ許可証価格の変動によって生じる不確実性を嫌っている。不確実性のために、エネルギー集約型分野では長期的な計画に取り組むことが困難になるからだ。そのため、現在ではキャップ&トレードの一番良いやり方は、価格がある価格水準から上下しないように許可証の価格に下限と上限の両方を設けるというものになっている。しかし、取引価格にこのような制約を課すと、結局のところ、キャップ&トレードは炭素税により近いものとなる。

だから、キャップ&トレードのように特定の排出量目標を立てることよりも、炭素税のように行動の全コストを内部化することの方がはるかに重要なのだ。

こうした問題に対し、哲学者たちはどう考えているのだろうか? 彼らもカーボンプライシング自体は否定していない。しかし、彼らはそれだけでは不十分だと考え、政府がより直接的に規制したり計画を立てたりするべきだと主張している。たとえば哲学者のヘンリー・シューは「最低限」と「贅沢」と呼ぶ排出量を区別し、後者は大して必要でないが、前者の排出量を生産する権利なら人々は持つと指摘した。

これは賢明な見解ではあるが、結局はカーボンプライシングで対応可能なものである。まず、ほとんどの排出物は、最低限と贅沢のあいだにあり、必要なものと不必要なものの区別をつけるには、非常に繊細な判断が必要だ。次に、ある人にとって必要なものが、他の人にとっては不必要に思えることがある (贅沢な消費について語るのなら、哲学者たちは、国民の大多数が哲学の学位が軽薄な嗜好品であると考えていることを念頭に置くべきかもしれない)。そのため、自分の消費量を調べてどこを削減するかを決めるのに最も適した立場にある個人自身に、削減の義務を課す方がずっと良いのだ。これこそまさにカーボンプライシングが達成することだ――車の運転を減らすべきか、暖房の設定温度を下げるべきか、クーラーの温度を高めにするべきか、牛肉を食べる量を減らすべきか、会議に出席する回数を減らすべきか、その他、二酸化炭素排出量に大きな影響を与えうる無数の変化を個人自身に決断させるのがカーボンプライシングなのだ。

しかしシューは、この結論を引き出すのを控える。彼は哲学者の帽子をかぶりながら、カーボンプライシングは帰結の分配的正義を保証しないから受け入れられないと宣言する。分配的正義が保障されていない以上、裕福な西洋人は高級車を乗り続け、農家はわずかばかりの米を生産することを強いられるかもしれない。「子供を養うためにその田んぼを必要とする人はいる。しかし高級車なんて誰も必要としない。それなのに、それらに違いはないというのか!?」

そうはいっても、じゃあ他にどんな代替案はあるのだろうか? どこを削るかという決定を個人ができないのであれば、政府が行うしかない。政府は何を削るかをどうやって決めればよいのか?  シューが支持するのは、経済活動を農業と工業の2つのセクターに分け、排出規制は工業のみを対象とするべきだという提案を多少手の込んだものにしたものだ。「実現可能であるなら、発展途上国の必要な産業活動は管理対象から外す一方...先進国の不必要な農業サービスとその余分な産業活動を管理システムの下に置くという、より繊細な分割をするとなお望ましい」

環境規制に関わる課題を熟知している人なら、この提案の不条理さに気づくだろう (最も明白な問題だけを指摘すると、工業と農業を合わせても米国のGDPの20%しかなく、80%近くはサービス業である。したがって、シューの提案にしたがえば、米国経済の大部分を手つかずのままにすることになる)。

アスベストや水銀、ヒ素など、限られた用途にしか使われない危険性の高い物質に対する規制でさえ、その使用状況の多様性を反映させるために、気の遠くなるような複雑な規則体系を構築する必要があったのだ。これに対し炭素は経済の文字通りあらゆる部門で産出されているため、中央計画に近いものが必要になってくる。官僚たち、ましてや世界的な気候変動条約の交渉担当者たちが、「不要」と判断された農産物のリストを作成し、それらを農家が生産することを禁止するという考えはまともではない。

このようにシューは、不愉快なほど粗雑で政治的に実行不可能な規制の代替案を推し進めるために、効率的なカーボンプライシング制度を放棄することを望んでいるのだ。 この問題は究極的には、実行可能なスキームを除外してしまうような哲学的な見解を彼が抱いていることに起因する。効率性よりも平等主義的なコミットメントを優先させることは哲学文献では一般的なスタンスであるが、政策的な文脈では実行不可能な勧告を生み出すことになる。

カーボンプライシングが分配的正義の懸念を満足させないのは、市場が平等ではなく、効率を達成するように設計されているからである。私たちは通常、市場が生み出す結果を分配的正義の観点からより許容しやすいものとするために、課税と移転という手段に頼っている。このシステムは、カーボンプライシングの分配的影響に関する懸念に対処するために容易に拡張することができる。

哲学的見解を政策提言に変換しようとするとみすぼらしいものとなってしまうのは、哲学文献における風土病のようなものなのだ。

4.3. Example: Food (事例:食)

カーボンプライシング制度がいかにエレガントな解決策であるかを示すために、ここではある事例をより詳細に検証してみたい。近年、食に関する問題、特に食料生産と流通システムが環境に与える影響に焦点を当てた社会活動が多く行われている。これにより、地産地消ロカボリズム)、農業技術の否定(オーガニック、アンチGMO)、動物福祉への関心(フリーレンジ、ベジタリアン、ビーガニズム)など、さまざまな食のムーブメントが生まれている。 これらの効果をより詳細に検証すると、環境に有害な行為を対象とする効果的でシンプルな食ルールを策定することがいかに困難であるかが明らかになる。

たとえば、地産地消運動について考えてみてよう。「すぐ近くのブドウ畑で育ったブドウではなく、チリから輸入したブドウを食べているなんて狂気の沙汰だ」と彼らは言う。 これは一見もっともらしく聞こえるが、さらなる精査にはとても耐えられない代物だ。

第一に、食料の移動距離ばかりに注目し、輸送方法には全く目を向けていない。卸売輸送に限って言えば、最も深刻な環境破壊を生み出しているのはトラック輸送である。 トラックは鉄道に比べ、輸送トンキロあたり10倍もの温室効果ガスを排出する。一方鉄道はというと、船舶の約2倍の温室効果ガスを排出する。事実上、船は他のすべての輸送手段と比較して温室効果ガスをほとんど生み出していないのだ。したがって、世界の食料貿易が環境に与える国際的インパクトはまったく重要でない。その理由は単純に、排出される温室効果ガスのほとんどが(温室効果排出量の少ない)船によるものだからだ。さらに、地産地消運動は食品輸送における最も重要な排出源に注意を向けていない。それは、小売業者と消費者の家との間の「最後の1マイル」だ。この1マイルでは食品を大量輸送することがもはやできないので、最も非効率な区間となる。

第二の大きな問題は、食料生産の環境負荷の重要な構成要素は輸送だとする仮定にある。これは大間違いだ。自分の食べ物がどれだけの距離を旅してきたかは、それがどんな食べ物か、どのように生産されたか、さらにはどのように調理されたかということと比べても、はるかに重要性に劣る。ある試算によると、北米の食料供給に関連する排出量のうち、輸送は約11%しか占めておらず、残りの89%は生産プロセスから発生するものである。例えば、野菜が暖房を効かせた温室で栽培されているかどうかは、それがどの地域で生産されたかよりも環境負荷の点ではるかに大きな問題である。さらに、その食品の種類によって、排出される二酸化炭素の量も劇的に違ってくる。赤身肉と乳製品は最悪で、消費額1ドルあたり約2.5kgのCO₂を排出する。平均的なアメリカ人が赤身肉の消費量を約20%削減した場合、「最後の1マイル」をゼロにするのと同等の二酸化炭素排出量の削減を達成できるのだ。

したがって食事を地元産のものに限定するというアイデアは、環境にとってまったく重要でないのだ。 個々の食品に移動距離を明記するラベルを義務付けるという一部の地産地消団体による提案は、環境という観点からは明らかに不十分である。もし、カーボンフットプリントを最小にする食を目指すのであれば、消費者は食品の単なる移動距離だけでなくより詳細な情報を必要とするはずだ。どのような食品であっても、その消費に関連する正確な社会的コストを知る必要があるのであり、それにはどのように輸送されたかという情報だけでなく、その生産に何が投入されたかも含まなければならないのだ。

しかしもちろん、私たちはすでに食品にこの情報を提供するラベル、つまり価格を持っているのだ。農家がトラクターを走らせたり、穀物を出荷したり、温室を暖めたりするたびに、お金がかかる。この価格は、食品を食卓に届けるためにあらゆる人々が被る不都合を考慮したものであり、その不都合をひとつの尺度に換算したものなのだ。したがって、チリからブドウを輸入することができ、しかもそれがとんでもなく高価というわけではないという事実は、地球の裏側からブドウを輸入することが狂気の沙汰ではないことを示しているのである。

4.4 .The Case for Carbon Pricing(カーボンプライシングの課題)

炭素税制を導入しても未解決の問題は数多く残る。最もわかりやすい問題は、価格設定は炭素排出の負の外部性にのみ対処しするということだ。つまり、炭素隔離することにより正の外部性を促進することについては何もしないということである。理想的には、後者には補助金を出すべきであるし、場合によっては炭素価格制度に統合することもできる。例えば、炭素回収・貯留(CCS)のようなネガティブエミッション技術(NET)に投資する化石燃料ベースの発電所には、炭素税のうちいくらかまでを払い戻すなどだ。

しかし現時点では、こうした技術が現実の問題に役立つものとなりそうな気配はない。 したがって、現在利用可能な最も効率的なNET技術は、「石炭を燃やさない」ということなのである。これなら、世界のある地域では1Ct(二酸化炭素トン)あたり10ドル以下というお値打ち価格で大気から炭素を除去することができる。NETが炭素削減と競合するようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

また、政府にできることもある。例えば、白熱電球よりもLED照明の方が明らかにコスト面で有利であるにもかかわらず、多くの消費者はLEDの初期費用の高さに尻込みしてしまい、非効率な電球を購入し続けている。 しかしこれはまったく容易に解決できる問題だ。この場合、穏当なパターナリズム的立場を取ったとしても、白熱電球の規制禁止を正当化することは可能である。同様の問題を挙げよう。化石燃料は燃料補給のインフラがすでに整っているため、輸送において大きなネットワーク外部性を享受している。電気自動車への移行を阻むのは、充電スタンドが足りないことだ。 だから、ゼロエミッション技術に役立つ同等のネットワーク効果を生み出すために、やはり直接的な補助金は正当化できるかもしれないのだ。

最後に、気候変動によって引き起こされる害のほとんどは、未来に発生するものだということを忘れてはならない。つまり、炭素税による現在の税収は原則として、将来損害を被る人の費用負担に充てるべきだということだ。そして、将来世代に補償するためのメカニズムこそが経済成長なのだ。 もちろん、炭素税で集めた資金を特別な投資基金に充当し、その基金発展途上国の成長率を高めるために使われたり、耐久性のあるインフラに使われたりするようにすることも可能だ。しかしこうしたことはまったく不必要だ。なぜなら将来世代は、一般的な経済成長から莫大な利益を得られると予想されるためからだ。

したがって、各国政府が炭素税を単に一般的な歳入を増やす方法として利用し、より非効率な税金を削減する機会として用いることで経済成長を促進するのは、正当なことなのである。これはとくに発展途上国において重要な論点だ。そうした国の人々は先進国並みの炭素税を支払う余裕がないとも言われているからだ。もしこうした税金が他の税金の削減という形で人々に全額還元されるなら、平均レベルよりも排出量を減らす意思のある人なら誰であれ、その課税額は手頃な負担だと思えるだろう。

このような分配的正義の問題に加えて、コンプライアンスに関わる膨大な問題がある。国際レベルでコンプライアンス問題が発生するのは、炭素価格政策を採用しない国が、採用した国に対しただ乗りする立場にあるからだ。2015年に採択されたパリの枠組みは、どのような排出削減を義務とみなすかは個々の国に任されており、明らかに不十分な代物である。 これではまるで、大人数の集まるパーティーのレストランで、それぞれのお客に自分が支払うべきだと思う金額だけを支払わせるもらうようなものではないか(私の経験上、これは必要な金額の半分以上を集めることさえめったにない徴収方法だ)。 このように、国際レベルのフリーライダー問題は、依然として重要な未解決の問題である。

この問題に対処するための魅力的な提案として、ウィリアム・ノードハウスらが擁護する気候クラブという考え方がある。ノードハウスが推奨するのは、気候変動の緩和に取り組む国々が集まって、炭素の適切な価格に合意し、クラブを結成することである。 その炭素価格に基づき国内で課税する気がある国なら、どんな国でもクラブに歓迎する。そしてクラブのメンバーは、メンバー以外のすべての国からの輸入品に一律の関税を課す。 これにより、非常に柔軟性の高い、分散型の炭素削減政策の実施メカニズムが構築されるのだ。このメカニズムの実現に国際的な合意は不要である。気候変動クラブの構造では、意見の合わない国々が独自の道を歩み独自のクラブを結成することも可能である。しかし貿易の機会を失うためそのコストは十分に大きく、派閥を作ろうにも大したものは期待できない。

4.5. Conclusion (結論)

カーボンプライシングの基本原理は、環境哲学者の間でも広く受け入れられているものだ。 論争を呼ぶものがあるとすれば、それは私がカーボンプライシングで十分だと主張していることだ。 大気における負の外部性が価格システムによって完全に内部化されれば、他者に対する我々の基本的な義務は満たされたことになるのだ。

この結論の論拠として最も協力なのは、気候変動はコモンズの悲劇の端的な例であり、環境規制の関連領域ですでに成功を収めている同じ政策枠組みを用いて対処すべきだという主張である。 しかしこの主張は残念ながら、この問題に関して発生するすべてのノイズの中で失われる危険性がある。

感想

今回、記事にまとめる前にいったん1章まるごと全訳してみた。章全体が30ページくらいで、DeepL翻訳に雑な修正を加えるだけなら2時間ちょっとで5ページ訳せるから、1週間でぜんぶ訳せるはず…と思ってたらそんなことなかった。あれ? でも、ずっと訳してると軽いトリップ状態みたいになってきて結構楽しかった。

ヒースの文章って、出版された訳書を読んでても思うけど、論理がアクロバティックなので、どこを省略していいのか判断がつきにくい。「ここは切ってもいいかな」と思ったところが実はのちのち重要な伏線だった、ということもあるから、結局は全訳した方が早い、というのでやってみた。まあ、このドマイナー本の訳書がいずれ出版されるとはとても思えないし、とくに問題はないだろう(なお、本章の訳文は全部で33,000字で、今回の記事は10,000字くらいにまで縮めた。わかりにくいところは論旨から脱線しすぎない範囲で超訳してる)。

本章の議論は、環境経済学の教科書を勉強したことのある人だったら、まあ常識的なことじゃない? という感じではある。環境に関して政府による直接規制はしばしば非効率を生む(政府の失敗)というのは教科書に普通に出てきます。なので、何を今さら、という感じのある議論ではあるけれど、環境経済学の教科書自体がまったく読まれないものなので(大型書店に行って頑張って探してみるといい)、知らない人には新鮮だと思う。

ただ、環境経済学の教科書よりもヒースはもっと積極的なことを言っている。それは、「炭素税をかけてしまえば、将来世代に対する義務は十分に果たしたことになる」と言っているところ。その根拠は前章で示されている。つまり、将来世代に対する「下流方向」の協力関係はゲーム理論的に成り立たない。しかし、現在世代が自分たちのためにきちんと貯蓄し、そのお金が投資に使われ経済成長することで、副産物的に将来世代は便益を受け取れる。そういう、市場を活用した間接的互酬性が、現在世代と将来世代のあいだには成り立っている。ところが、今はカーボンプライシングがきちんと行われていないので、現在世代は市場においていわばフリーライダーとして振る舞っている。こうしたわれわれのフリーライダー行為をやめさせるためにカーボンプライシングが必要なのであり、そしてそれ以上の義務はわれわれにはないのだ。

ところで、こうして市場を間接的互酬性を達成するための道具として捉えるところは、『啓蒙思想2.0』で出てきた「外部足場」という考えの応用版みたいなものなのかなと思った。将来世代に配慮できるような合理性をわれわれは持っていない。だからその貧弱な合理性を補完するために、外部足場として市場を活用することで、「経済発展の副産物」という形で将来世代への配慮を実現することができる。

『人新世の資本論』みたいな本が間違っているのは、人間の合理性を過信しすぎているところなのかもしれない。私的財を「コモン」にして気候変動を抑えるというアイデアは、集合行為問題を真剣に捉えていない点で完全な誤りだ(つまり、フリーライダー対策が何も考えられていない)。哲学者たちがちゃぶ台をひっくり返すみたいな極端な主張ばかりするために環境政策に対して何の影響力も持たないというのは、日本でも外国でも同様みたいだ。ヒースの言うように、それは哲学という学問の「風土病」なのだろう。