【読書ノート】 Philosophical Foundations of Climate Change Policy第3章

第3章 Intergenerational Justice(世代間倫理)

イントロ

本章と次章における私の目的は、気候変動問題に対する帰結主義的アプローチを弁護することだ。

私が帰結主義を擁護するのは、功利主義の立場ではなく、契約主義の立場からだ。契約主義において帰結が正統性を持つのは、それが当事者たちの契約によってもたらされたものだからである。この見方によれば、パレート効率は規範原理として魅力的である。なぜなら、パレート効率は人々が合意するであろう一組の帰結を選び出すからだ。

3.1. The Consequentialist Challenge(帰結主義者にとっての課題)

世代間の問題に契約主義を適用すると、一見、問題が生じるようにみえる。われわれは将来世代から直接便益を受け取れるわけではないのに、どうして契約を通して協力することができるというのか? しかしこうした「非互酬性」問題は、互酬性を非常に狭く、直接的に概念化することから生じるものだ。実は協力は、システムや間接的互酬性によって維持できるものなのだ。だから「非互酬性」は契約主義にとって問題とならない。

3.2. The Structure of Intergenerational Cooperation(世代間協力の構造)

社会契約理論において、道徳の導出の出発点として設定されるのは次のような状況だ。人々が互いに関わり合いながら生きている。そうした中では、誰もが自分のしたいようにするわけにはいかない。そこで、コンフリクトや秩序崩壊を避けるために、当事者たちは自分たちの行為を制約するルールを採用する。そして、他者との衝突を最大限抑えた上でひとりひとりが自身の目標を追求できるような取り決めをするのだ。

契約主義にはいくつかバージョンがあるが、これはロールズ的な契約主義だ。しかし、バリーはロールズのこうした考え方を批判する。異なる時代の人々のあいだでは協力は不可能であり、したがって、現在世代と将来のどこかの時点で生まれるであろう人々とのあいだには正義の状況は成り立たない、というのだ。

しかし、バリーは「互酬性」を狭い意味で捉えている。狭い意味での互酬性とは、「あなたが背中をかいてくれるなら、わたしも背中をかいてあげよう」というものだ。つまり、他の人に直接便益を与える行為をして、同じその人物から直接に互酬を受けとる、というタイプの互酬性だ。しかし、こうした構造をもたない協力システムはたくさんある。たとえば市場経済を考えてみよう。これは疑いもなく互酬性のシステムだ。商品は究極的には誰かの商品と交換されるからだ。しかし市場経済はバリーが考えるような直接的な互酬性で機能しているわけではない。その互酬性のあり方は間接的なものなのである。

一方、経済学者たちは世代間協力が困難だとは考えていない。というのは、経済学者たちは「フォーク定理」というモデルに慣れ親しんでいるからだ。これは、繰り返しゲームにおいて協力が維持される状況を特定するものだ。

1回限りの囚人のジレンマを考えてみよう。ここでは「協力」戦略を両プレイヤー選択したときに限り、パレート最適な帰結が達成される。しかし、「協力」戦略は「裏切り」戦略に強く支配されている。つまり、相手がどんな戦略を選ぼうが、協力よりも裏切りの方が常に高い便益をもたらす。したがって、両プレイヤーは「裏切り」を選択するので、パレート最適な帰結は達成されない。

では、これが繰り返しのある囚人のジレンマだったらどうだろう? 普通に考えれば、1回限りだろうが繰り返しだろうが、パレート最適は達成されない。つまりどちらのプレイヤーも毎回のゲームで「裏切り」を選択し続けるだろう。しかし、ここで両プレイヤーが「トリガー戦略」を取るなら、「裏切り」ではなく「協力」が均衡戦略となるだろう。トリガー戦略とは、基本的に「協力」を選択するが、相手が1回でも「裏切り」を選択したら、次のラウンドからは「裏切り」に変更し、その後は永遠に「裏切り」を選択し続ける、というものだ。

このケースでの協力は、直接的互酬性に基づくものだ。なぜなら、プレイヤーが2人しかいないからだ。このゲームにさらに4人のプレイヤーを追加してみよう。6人のプレイヤー全員を1つのテーブルに輪になって座らせる。そして、彼らに対し、左に座っている人に対して協力するかどうかを決めるよう指示するのだ。ただし、ここでもプレイヤーたちのとるのはトリガー戦略だとする。もし誰かが協力選択しなかったら、他のプレイヤーのトリガーが発動されるので、全員がその後のラウンドで「裏切り」を選択しつづけることになる。そうなると便益が減るので、誰もがトリガーが発動されるのを恐れて、「協力」を選択し続ける。この場合、直接的互酬性は成り立っていない(AさんはBさんに対して協力するが、BさんはAさんではなくCさんに協力する)。それでも「協力」が均衡になるのだ。

でも、これだと世代間のモデルとしてはまだ適切でない。というのは、今の例だとプレイヤーたちが輪になってつながってるが、世代間の場合、世代同士は輪になってつながってるわけではないからだ。そこで、この輪を開いてやることにしよう。つまり、プレイヤーたちがときどきランダムにゲームから取り除かれ、別のプレイヤーがランダムに追加される、という風に仮定するのだ。もしプレイヤーたちが取り除かれる確率が非常に高いなら、これはもちろん、協力の崩壊につながる。というのは、それは実質的に、1回限りの囚人のジレンマに近い状況になるからだ。

このモデルをもっと直接的に世代間の関係を表すものに作り替えるならこういう風になる。プレイヤーたちがテーブルに座っている。ゲームのラウンドが終わるごとに、テーブルの上座に座っている人がゲームから取り除かれ(これを「死亡」と呼ぼう)、それぞれのプレイヤーは隣の席に移る(これを「加齢」と呼ぼう)。そして、空いた席に新しいプレイヤーが座ってゲームに参加する(これを「出生」と呼ぼう)。協力戦略は、それぞれのプレイヤーが「より年配の」席のプレイヤーに協力することだ。そしてやはり、全員がトリガー戦略を採用しているとする。

ところが、ここで奇妙な事態が発生する。年寄りからどんどん死んでいなくなっていって、最後にプレイヤーが2人だけになったらどうだろう? この2人のうち、年寄りの方(X)にはもう手番が残されていない(あとは死ぬだけだ)。となると、若い方(Y)はその前のラウンドで「裏切り」を選択するのが合理的だ。なぜなら、次のラウンドで自分を裏切る者はもう誰もいないのだから。となると、次のラウンドで裏切られることが分かっているのだから、Xはまだ自分に手番があるうちに「裏切り」を選択するだろう。こういう風にして、「裏切り」戦略がどんどん他のラウンドの他のプレイヤーにも波及していって、結局は全てのラウンドで全員が「裏切り」を選択することになるのだ1

しかし、もし年寄りが死んだ後、新しい若い世代が生まれる、という風に設定を変えれば、そうした裏切りの波及は止められるだろう。なぜなら、年寄りがどんどんいなくなって、最後には2人だけ残る、という状況が回避できるからだ。このモデルにおいて、まだ「生まれて」いない人々を含めてすべての参加者を協力システムのなかに含まなければならない、と主張するのは全く意味の無いことだ。その人がすでに生まれてるか、まだ生まれてないかは、問題ではないのだ。

3.3. Applications and Objections(応用と難点)

世代間の協力により得られる便益が「上流」と「下流」のどちらに流れるものかを区別してみよう。つまり、より年下の世代からより年上の世代への「上流」の流れか、より年上の世代からより年下の世代への「下流」の流れかだ。「上流」モデルでは、年下世代が年上世代に便益を渡す。「下流」モデルでは、年上世代が年下世代に便益を渡す。

気候変動問題は一般に「下流」モデルで理解されている。しかし、先ほど私が示したゲーム理論の議論は「上流」モデルだ。つまり、若い世代が年上世代に対して協力するかどうかを選択する、という問題設定にしていた。これでは便益の流れが逆だ。実は、先ほどのゲームの便益の流れを逆にして「下流」モデルに作り替えると、協力は均衡戦略でなくなる。なぜなら、もっとも年上のプレイヤー(つまり、これから「死ぬ」人)は、どうせすぐ死ぬのだから、若い世代に対して協力しようとはしなくなるからだ(つまり裏切るだろう)。となると、全員がトリガー戦略を採用しているわけだから、最も年上のプレイヤーの裏切りにより、全員が次のラウンドから裏切りを採用することになるので、協力関係は全面的に崩壊することになってしまう。

このように、下流モデルには協力戦略均衡が存在しないのだ。しかし、だからといってこうした構造を持つ協力システムは構築不可能だということではない。それが意味しているのは単に、このシステムは制度化されなければならない、ということなのだ。

年金システムは間接的互酬性によって維持される世代間協力システムの構造を持っている。年金システムは協力のシステムだ。このケースにおいてそれぞれの個人にとっての「裏切り」戦略は、年金システムに参加せずに、自分のお金を退職後のために貯金しておくことだ。これはパレート非効率だ。なぜなら、その人がいつ死ぬかという不確実性によって、貯金が過剰になるか、逆に過小になるかというリスクが生じるからだ。もし誰もが退職時点での平均余命を参考にして貯蓄するなら、人口のかなりの割合が貯金が無くなるよりも長生きすることになるだろう。しかし、もし人々が年金システムにより退職後の貯金をプールすることに合意するなら、大数の法則を利用することで、誰かが貯金を使い果たしてしまう可能性を劇的に減少させることができる。

このように貯蓄と投資によって成り立つシステムは、上流方向(つまり若い世代から年寄り世代に)に便益をもたらす協力のシステムだ。これは「恩送り(ペイ・イット・フォワード)」という構想によるものなのではない。なぜなら、協力による便益がもたらされる方向は、ほぼ完全に上流の方であって、下流ではないからだ。これはあまり明らかなことではないので、もう少し議論した方がいい。

3.4. Just Savings (公正な貯蓄)

経済学者のフランク・ラムゼイは最適な貯蓄率を求めるために、1928年の論文「貯蓄の数学的理論」において、功利主義的な計画立案者という立場を取っている。この立場では、貯蓄は利他主義的なものになる。なぜなら、功利主義では効用の総和の最大化が求められるので、誰の効用が高められるかは重視されないからだ(つまり、現在世代の効用を多少犠牲にして、将来世代の効用を大幅に高めるというような利他主義的な決定が正当化されるということ)。

しかし、貯蓄を利他的なものだと考えるのはまちがっている。これはロールズにも受け継がれてしまった考え方だ。そのために、おかしな結論にロールズは悩まされることになった。貯蓄を利他的なものだと考えた上で、ロールズの格差原理に基づき最も不遇な世代の消費水準を最大化するとしたら、現在世代は貯蓄率をゼロとすることになるだろう。すると、貯蓄がされないわけだから、投資もされないことになり、次の世代も現在世代と同じくらい不遇な世代となる。すると、その世代もまた貯蓄率をゼロとすることになる。この連鎖がつづいて、すべての世代が貯蓄できず、したがって投資がされないために、すべての世代が永遠に貧困に苦しみ続ける、ということになってしまうのだ。

しかし、現実の人々の振る舞いをみるならば、人々が将来世代への利他的な関心によって貯蓄をしているわけではないのは明らかだ。彼らが貯蓄する理由として圧倒的なのは、自分の将来の消費に使う資金を蓄えるためだ。そのため、どの世代も自らが働いているあいだは貯蓄率ゼロを採用することに決して関心をもつことがない。したがって、ロールズが格差原理を適用するにあたって懸念を抱いていた「永遠の貧困」という結論は、まったくの幻想なのだ。

貯蓄システムに含まれる世代間協力のシステムにあえて名前をつけるなら、それはシンプルに「資本主義」というものだ。つまり、人々はそれぞれの能力を発揮してお金を獲得し、投資し、収益を受け取るのだ。

つまり、経済成長を通して将来世代に提供される便益は、貯蓄と投資のシステムの「副産物」なのだ。私たちは利他的な動機から将来世代のために貯蓄をするのではなく、自分たちのために貯蓄をして、それが投資に使われることで、結果的に、将来世代に便益がもたらされることになるのだ。

もちろん、人々がこのように自分のために貯蓄をすること自体を道徳的に疑うことは可能だ。しかし、そうすることは、私たちが日常的に従っている道徳をかなり大幅に修正することを要求するものだ。それは、気候変動を緩和するという問題を、人口のごくわずかにしか魅力をもたない菜食主義のようなニッチな問題に変えてしまうリスクをもつ。

3.5 Conclusion (結論)

(略)

感想

気候変動でよくいわれる「将来世代の義務」というのが、ここでいう「下流」方向への協力という奴。で、ゲーム理論で分析すると、下流方向を想定する限り、協力関係は成り立たない。年寄りに裏切りのインセンティブがあるので、結果的に、すべての世代が裏切ることになり協力崩壊と相成るから。だけど、「上流」方向、つまり若い世代から年寄り世代への協力関係は成り立つ。

貯蓄すると、リターンがもらえる。そのリターンは、貯蓄されたお金がどこか有望なところに投資されて、投資を受けた人たちが将来的により大きな利益を生み出すこと得られるものだ。この「リターン」を投資してくれた人に返すというのが、ヒースのいう「上流」方向への協力だろう(たぶん)。で、下流の人たちが裏切ってリターンを上流にわたさないとなったら、誰も貯蓄なんかせずに、タンスにお金を貯め込むことになる。

このように貯蓄は「上流」方向の協力関係なのだけど、結果的に、下流に対して便益をもたらしている。なぜなら、先行世代が貯蓄してくれるからこそ、それが投資に使われることで、後の世代が利益を得ることができるから。つまり、「上流」方向への協力関係が、その副産物として「下流」方向への便益を生んでいる。気候変動で問題とされる「将来世代」への責任とか義務というのは、「下流」方向への責任とか義務を言ってるわけだけど、「責任」「義務」と言っている限りは、「下流」方向に便益は流れない。貯蓄・投資という資本主義的制度を活用することで、将来世代への「責任」「義務」なんて誰も考えなくても、彼らに対する便益が実現する。というか、「責任」「義務」を考えないからこそ、将来世代への便益が実現するというべきか。

まとめながら思ったけど、これって「世界は贈与でできている」とか言ってる本への反論にもなってるな。あの本を前に読んだとき、ちょっとモヤッとした気分になった。「この世界は贈与でできてるんだから、贈与してくれたご先祖様やたくさんの無名の人々に感謝しろよな」と言われてるみたいで。その「モヤッ」の正体は、そもそもその「贈与」というやつが利他的な動機で行われたものとは限らないからだと思う。別に贈与してくれた人はわれわれのことを考えてくれたわけではなく、単に老後の生活が心配だから貯蓄してただけで、その貯蓄されたお金が投資に回されて橋が架かったり電柱が立ったりすることで、結果的に「贈与」が成り立っているのだ(昔の郵便貯金をぼんやりイメージしてるけど詳細は知らん)。贈与は資本主義のすきまを埋めるものではなくて、むしろ資本主義の正常な機能なのだ2

一時期、贈与論系の本を集中的に読んでたことがあるけど、理屈にあんまり納得いかなくて飽きてやめてしまった。基本的に「貨幣経済によって疎遠になってしまった人々の関係をより人間らしいものに戻すために贈与が大事だ」みたいな論調の本が多くて。そんな、人々の関係がどうであるかなんて個々人の問題であって他人がとやかく言うものじゃないだろうとかイライラしながら読んでた。ただ一方で、気候変動みたいな問題だと贈与的なものは必要な気もするし…。でも本章の議論だと、気候変動問題に対応するのに贈与は必ずしも必要ないということみたいだ。

ただ今回のは、貯蓄という上流方向の協力関係が副産物として下流方向に便益をもたらすという構造を示しただけなので、気候変動とのかかわりはあまり論じられてなかったと思う。そこは次章なのかな?


  1. ちょっとここ、読んでてよくわかんなかったので、かなり憶測で補ってる。基本は、ゲーム理論の「ムカデゲーム」という奴を応用したものなんじゃないかと思う。ムカデゲームとはこういうもの。プレイヤーAとBに交互に手番がやってくる繰り返しゲームをプレイする。最終ラウンドでAは裏切る。なぜなら、最終ラウンドなので、次のラウンドでBに裏切られる心配がないから。するとBは「どうせ最終ラウンドで裏切られるのなら」と考えて、その手前のラウンドで裏切りを選択する。すると、Aも同じ考えをするので、さらにその手前のラウンドで裏切りを選択する…。そして、互いの推論が連鎖していって、最終的にはすべてのラウンドで両プレイヤーは裏切りを選択することになる。一方、ヒースの場合は、全プレイヤーがトリガー戦略を採っていて、一度でも誰かが裏切ると、次のラウンドでは全員が裏切りに切り替えるという設定を取り入れている。だからここでは、「年寄り世代に協力しない」ことが、イコールすべての世代に対する裏切りということになる。そしてそれは直に協力関係の全面的崩壊につながる。それが怖いので、基本的には誰も裏切らない。ここで、年寄りから順々に死んでいって、最後にプレイヤーが3人だけになったとしよう。1番最後の年寄り(A)の手番はもうないから、ただ一方的に便益を受け取って死ぬだけだ。ところが、2番目の年寄り(B)は裏切るだろう。なぜなら、3番目の年寄り(C)に裏切られるリスクがあるから。次のラウンドに進むと、Aは死んで、プレイヤーは2人だけになる。この状況では、1番年寄りのBにはもう手番が残されていない。とすると、Cとしては、Bにしっぺ返しで裏切られることを不安に感じなくて済むので、Cは安心してBを裏切る。すると、Bはそれを先読みするので、どうせ後で裏切られるのならと、その手前のラウンドで裏切っておく。Bによるこの裏切りは、Cに対してだけでなく、Aに対する裏切りでもある(なぜなら、全員がトリガー戦略を採用いている状況では、ひとりに対する裏切りは全員に対する裏切りと同じ事だから)。すると、今度はAが、どうせ裏切られるのならと、さらにその手前のラウンドで裏切ることになる…という風にして、推論が連鎖していって、結局はすべての世代が裏切ることになる。
  2. 資本主義以前ならどうなのかというと、贈与はほとんどの人にとってはむしろ忌まわしいものだったんじゃないだろうか。たとえば、カーストの最下層(あるいはカースト外)に生まれたら、その人はずっとその身分で生きることを余儀なくされる。そうした負の遺産もまた「贈与」なのだ。そんな世界では、贈与に対して素直に感謝できるのは一部の王族・貴族だけだ。もっと広い層の人々が贈与をポジティブなものとして考えられるようになったのは、資本主義になって、持続的な経済成長が可能になったからじゃないだろうか? 多くの人が飢えや寒さをしのげて、病気になっても適切な治療を受けられるようになったのは、何よりも経済成長のおかげだ。「世界は贈与でできている」というフレーズが肯定的に受け止められるのは、多くの人が経済成長の恩恵を多かれ少なかれ享受していて、それがもはや当たり前になっているからだ。でも、その当たり前から距離を取ってみると、このフレーズは人によって様々な響きを持ちうることに気づく。中世の極貧の人々が「世界は贈与でできている」ということを聞かされたら、それはむしろ呪いの言葉のように聞こえるのではないか。