【愚痴】わかりやすく親切な人になるための練習

薄々気づいてたけど、わたしは授業がへただ。最近、そのことを改めて気づかされる出来事があって、このままだとかなりまずいんじゃないかと危機感を持つようになっている。

授業がへただと何か困ることがあるのか? 本質的なところでは、まあ、別に困ることはない。学生が困るのかもしれないけれど、でも大学って、そもそも授業で何かを学ぶところではないし…。授業はあくまで「こんな学問があるんだ」ということを気づかせてくれるための場であって、本当に学びたいのなら、自分で本なり論文なり読めばいいと思う。たとえば統計学を授業で身につけるなんて、それがどんなにわかりやすい授業だとしても不可能だ。手を動かさないと話にならないだろう。大学受験に受かってる時点でそれなりに読解力はあるはずだし、勉強自体は自分でやればいいんじゃないのかな、と思っている。いずれにしても、いずれ卒論やら修論やら書かなきゃいけないわけだし、受身で勉強する癖を無くさないとあとで困るんじゃないか。

でも、そういう考えはもはや古臭いものになっているみたいだ。今の学生は学問に打ち込むほど暇じゃない。やりたいことも、やらなければならないこともたくさんある。学問はその中のほんの一部に過ぎず、そこに無尽蔵にリソースを投入することなんてできないのだ。だから授業はなるべくお手軽なものである必要がある。スマホいじりながらぼんやり聞いててもわかるもの。そして、楽しいものでなくてはならないのだ。

たまーに優秀な学生がいて、そういう人はむしろわたしのようなやり方の授業を面白がってくる。でも、そういう人はとても少ない。手取り足取り式の親切な先生を影で馬鹿にしてる偏屈学生もいる(そういう学生とは割と気が合う)けど、数は少ない。わたしはだんだん孤立無援になってきている。

そろそろ研究者を辞めたいと思ってませんか? 思ってますよ。わたしは、学問というのは徒弟制じゃないと身につかないものだと思っている。手取り足取り教えてあげるというのでは、その先生の劣化コピーみたいな人しか育たないと思う。わたし自身、師匠が言ってることがよくわかんないから、あれこれ自問自答しているうちに、気がついたら研究者になっていたのだ。そしてその自問自答は、師匠のもとから独り立ちしたあともつづく。わたしの師匠は今年の初めに亡くなったけれど、わたしは今でも、「あのとき師匠はなんであんなことを言ったんだろう?」と考え続けている。

そういえば師匠も授業がへたくそだった。言っていることがところどころで脱線して、かと思えば話が堂々めぐりになって、そして突然難解な数学がでてきたりして、ほとんどの学生はついていけてなかった。でもわたしは師匠のそういうあり方が好きだったし、こういう人になりたいと思っていた。わたしは今でもああなりたいと思っているのだろうか? 思っていると思う。でも、ああなれないから、つらいのだと思う。

大学に居場所がないなら、別の居場所を探すしかない。そういうことなんだろう。

ただその前に、「わかりやすく、親切に」というのをできる限りやってみようと思う。このブログの記事も、そうしたものに変えてみよう。それをどれだけ自分が面白がれるか、あるいは空しさを感じるだけなのか、ためしてみる。自分に才能のないことに手を出してもろくなことにならないのは経験上わかってるけど、とりあえずやってみよう。