環境倫理とは? その1

環境問題を解決しようと思ったら、あなたは何をするだろうか?

クーラーの温度を下げる。部屋の電気をこまめに消す。リサイクルを真面目にやる。レジ袋を断ってマイバッグを使う。

なるほど。それは確かに環境にいいことみたいだ。だけど、それで環境問題は「解決」されたと言えるのだろうか? 

「解決」という言い方はちょっと重すぎたかもしれない。難しい言い方になるけど「緩和」だったらどうだろう。あなたのやることは、本当に環境問題の緩和につながっているだろうか。

環境問題に熱心に取り組む人たちを、影で冷ややかに笑う意地悪な人たちもいる。そういう人たちが好む定番の悪口が、「偽善」だ。あなたは環境にとっていいことをしているつもりになっている。でも、それは環境問題を本当に緩和することになっていない。たとえば買い物でマイバッグを使ったとしても、スーパーまで車を走らせているのなら、石油使用がまったく抑えられていないのは明らかだ。あなたが「いいこと」のつもりでしていることは、環境にとってはちってもいいことではない。それはつまり、偽善なのだ。

人を偽善だと批判するのは簡単だ。でも、それじゃあ環境問題に対して、わたしたちはどう取り組めばいいのだろう?

たとえばある人は「資本主義をぶっ壊せ」と物騒なことを言う。逆に、「資本主義のしくみを生かせば環境問題だって緩和できる」と自信満々な人もいる。あるいは、「人と自然の関わり方を根柢から問い直せ」と小難しいことを言う人もいる。「科学技術を発展させれば環境問題は完全に解決できる」という楽観的な人もいる。

それぞれの方向性はばらばらだ。ただ、少なくとも「マイバッグを使う」とかよりもずっとスケールの大きい話をしているのは確かだ。「主語が大きい」という言い方もできるだろう。「資本主義が~」「人と自然が~」「科学技術が~」などなど。日常生活ではこんな大きい主語、普通の人なら絶対に使わない。飲み会でこんなこと言っている奴がいたら、白い目で見られると思うよ。

こんな風に主語の大きい話の困ったところは、多くの人に環境問題を「他人事」だと思わせてしまうところだ。わたしたちの多くは、社会においてもっとちっぽけな存在だ。政治家でもないし、革命家でもないし、偉大な思想家でもないし、天才科学者でもない。そうではなく、コンビニで数円出してレジ袋を買うか、それともマイバッグを携帯する習慣をつくるか、みたいな些末なことで悩んでしまう、どうってことない存在なのだ。だから、大きい主語が出されたとたんに多くの人は警戒して、「これは自分には関係ない問題だ」と了解してしまうのだ。そして、たとえ偽善だと言われようと、なんとなく環境によさそうなことをして、ちょっとだけいい気分になる。そうして日々の面倒ごとのあいまに一息ついている。わたしたちはそんなどうってことない存在であって、環境問題の前で、わたしたちの主語は圧倒的に「小さい」のだ。

偽善的でなく、なおかつ主語を大きくせずに環境問題を考えるためにはどうすればいいのだろう? そうした意識を持ち始めたときに、人は環境倫理について考え始める。

環境倫理ってなんのこと?」その問題に答えるにはまだ早い。こういうよくわからない言葉を理解するためには、それなりの準備作業が必要なのだ。だって「倫理」って言葉だけでもよくわからないでしょう? だから、次回は「そもそも倫理ってなんのこと?」ということについて考えてみよう。

メモ

わたしがふだん小難しく考えていることを、なるべくわかりやすく、誰にも伝わるように表現するための練習として書いてみた。

書いてて思ったのは、なんか橋本治みたいだなあ、ということ。極端に冗長で、誰にでもわかるように言葉を尽くしているのだけど、書いていること自体は割とややこしい、という文体だ。橋本治の文体を意識的に真似してみてもいいかも。