環境倫理とは? その2

 「倫理」という言葉を聞いて、ピンと来る人はあまりいないと思う。日常生活の中でこんな言葉を使う人はまずいない。あなたのお父さん、お母さんが「倫理」なんて言葉を使ったことが一度でもあるだろうか? たぶん、ないはずだ。

 「倫理観の欠如」みたいな言葉は聞いたことがあるかもしれない。「猫をエアガンで撃つなんて、あいつはなんて倫理観のない奴なんだ」とかね。この場合、「倫理観がない」は「クレイジー」とか「いっちゃってる」とほぼ同義語として使われているだろう。

 企業活動やスポーツに関して「倫理」という言葉を使うことも多い。あなたのお父さんが見ている退屈なニュース番組で、そんなような表現を聞いたことがあるかもしれない。そういう場合、倫理を持ち出すのは、何らかのインチキをとがめる人だ。不正会計をしたとか、スポーツ競技でドーピングしたとかね。そういうインチキをする人たちは、別に「いっちゃってる」わけじゃない。ただ、やってはいけないルールを知っていながらわざと破ったという点でその人たちはとがめられている。この場合の倫理は「ルール」に近い意味を持っているだろう。

 あるいは、「倫理」という言葉にもっと精神的な意味合いを込めることもある。『チ。』という漫画の重要場面で、「きっと迷いのなかに倫理がある」という言葉がある。ためしに検索してみると割とヒットするから、多くの読者がこの台詞に感銘をおぼえたのだと思う。前後の文脈はすごく複雑なので、ここでは紹介できない。ただ、倫理という言葉が、その人の生き方と切り離せない何かとして示されているのはなんとなく伝わると思う。

 こんな風に、倫理の意味は多様だ。しかしここで気づくのは、倫理というのが、何らかの意味で「社会」を意識した言葉だということだ。

 倫理観のない人がクレイジーなのは、社会不適合者がクレイジーだというのと同じことだ。また、不正をすることで倫理が問題になるのは、社会のルールがないがしろにされているからだ。最後の『チ。』の名言はちょっとわかりにくいけど、これも、「社会というこのままならないもののなかで、いかに最善の道を選んでいけるか」という、社会の中における個人の生き方を表す表現なのだと捉えれば、やっぱり社会が絡んでくる。

 哲学者の和辻哲郎は、「倫理」という日本語の成り立ちを考察して、倫理とは人と人の間の道理である、というようなことを言っている。「倫」という文字がそもそも「人と人の間」を意味するから、「倫理」は「人と人の間の道理」ということになるわけだ。ここでいう「人と人の間」を言い換えると「社会」ということになる。

 「社会」というと、なんだか自分とは関係ないもののように思える人もいるかもしれない。たとえば俗に「社会人」なんて言い方がある。つまり、就職して働いている人たちのことだ。でも、それを「社会人」と言ってしまったら、まだ働いていない子どもや、退職したお年寄りたちは、社会に生きていない「非社会人」ということになってしまう。もっといえば、働いている人たちだって、休日はもちろん休んでいるわけだから、「非社会人」ということになるだろう。つまり、「働いている=社会に生きている」という風に捉えてしまうと、多くの人にとって、社会が自分と関係ないものになってしまうのだ。

 でも、社会とは本当をいえば、「人と人の間」なのだ。だから、家庭だって社会だし、学校だって社会だし、老人ホームだって幼稚園だってSNS上での小競り合いだってぜんぶ社会だ。つまり、働いている人も働いていない人もひっくるめて、わたしたちはみんな、社会において生きているのだ。

 こう考えると、「倫理」が一気に身近な問題になってくるのではないだろうか? たとえば、ケーキをめぐって兄弟げんかすることも倫理の問題だ。そして、三角関係や浮気にも倫理がからんでくる。夏目漱石の『こゝろ』という小説では、三角関係から身をひいた男が自殺して、そのずっとあとでもうひとりの男も自殺しているけれど、それは、恋愛と友情のジレンマのなかで苦悩した上での倫理的判断だ。まさに「迷いのなかに倫理がある」というやつだ。ここまで劇的な倫理問題に直面した人は少ないかもしれないけれど、多くの人にとって、倫理はどうしても関心を持たざるを得ないものだし、強く興味を惹かれるものだ。だから、世の中で売れている漫画やアニメ、ドラマや映画を見てみれば、その多くはなんらかの倫理問題を含んでいることがわかるだろう(まあ、最近はみんな疲れてるのか、そういうめんどくさい作品がだんだん敬遠される傾向はあるけれど)。

 わたしたちが倫理問題に惹きつけられるのは、倫理問題には簡単な答えがないことが多いからだ。「迷いのなかに倫理がある」という言葉が示すように、倫理問題を前に、人は迷うものだ。そして、最終的な決断をくだした後でも、「本当にあれでよかったのだろうか」という自問自答はつづく。なぜ人は迷うのか? それは、わたしたちがAIではないからだ。わたしたちは心を持っている。偶然かもしれないけれど、夏目漱石のあの小説のタイトルが「こゝろ」なのは、あの作品が三角関係という倫理問題を扱うものだからだとわたしは思う。倫理問題について考えていけば人の心の問題に辿り着くし、人の心の問題に深入りすれば倫理問題が現れてくる。

 ここで言っている「こころ」とは、心理学が扱うような心理現象のことではない。人間の人間らしさみたいなもの。「魂」という言い方もできるだろう。魂なんて非科学的? その通り。倫理は科学の範疇を超えているのだ。科学は迷わない。倫理は迷いのなかにある。

コメント

 自分の考えをわかりやすく表現してみよう企画第2弾。でも、わかりやすいのか、これ? 自分の文学癖がかなり出てるな。こういうのを敬遠する人は多いと思う。それでも、これがわたしなのだから引っ込めるわけにもいかない。

 夏目漱石、また読み直してみたいなあ。わたしは文学作品は倫理問題を扱うべきだと思ってるし、夏目漱石はそれを極限まで追い詰めた作家だと思っている。倫理学の教科書みたいな無味乾燥なもの読むよりも夏目漱石を読むべきだ。あと『チ。』もね。