環境倫理とは? その3

 前にも書いたように、倫理とは「人と人の間の道理」だ。だから倫理はふつう、人間と人間のあいだで起こることがらを問題とするものなのだ。

 だけど、どうも「環境倫理」について考える人たちの頭にあるのはそういうことではないみたいだ。彼らは、人と動物、人と植物、さらには人と岩石、大地、生態系、地球、さらには宇宙との関係について考えるために、環境倫理について論じているのだ。

 「人と動物」ならまだ考えやすいかもしれない。たとえば猫をエアガンを撃つ人がいたら、その人のことをあなたは「非倫理的」だと考えるだろう。だけど、これが「人と植物」になるとどうだろう。樹齢何百年の大樹を伐採するのは悪いことのように思えるかもしれない。でも、そこらに生えてる雑草をちぎったとして、それが倫理的に悪だと言われたら、何を言われているのか理解できないのではないだろうか。そしてこれが岩石、大地、生態系などとなってくると、ますます事態は混迷していく。河原で水切りをしている人は石を虐待しているのだろうか? アスファルトの道路を作ることは大地を窒息させているのだろうか? そんなことを主張する人がいるとしたら、頭がおかしいか、たちの悪いゆすりだと思われるかのどちらかだろう。

 環境倫理をまともに論じ始めるとこんな風にまともではない主張に辿り着きがちだ。最初に環境倫理について考えた人たちは、そんなことは考えてなかったかもしれない。彼らはただ、美しい自然に出会って感動し、そうした自然とともに生きられるような社会を夢想しただけなのかもしれない。あるいは、自然の中で生活する喜びをただ文章として書き留めておきたかっただけなのかもしれない。でも、学問は妥協を許さない。彼らがぼんやりと抱いていた価値観や世界観を厳密に検討していくと、彼らが予想だにしていなかった論理体系が姿を現す。その世界では、自然は「内在的価値」を持ち、われわれは「人間中心主義」を転覆するべきであり、そして自然に人間と同様の「権利」を与えよ、という、到底まともとは思えない教義が当然のように受け入れられている。環境倫理学の教科書の多くは退屈で、読むだけ時間の無駄としか思えないような代物ばかりだ。それは、環境倫理が学問として体系化されるなかで、現実の現実の環境との接点を見失ってしまったからなのだ。

 もちろん、こうした状況の異常さには環境倫理学者たちだって気づいている。これまでも、そうした自己批判の動きはあったし、過去の環境倫理学を乗り越えようという試みもみられる。ただ、環境倫理学が人々の関心を集めていないという状況はいまでもぜんぜん変わってない。そして、環境倫理学の研究成果が環境政策に影響を与えたという話も聞いたことがない。

 それでは、環境倫理について考えることは無意味なのだろうか? そうかもしれない。でも、環境と倫理がまったく無関係だとも思えない。もっというと、人が生きることと環境とは切り離して考えることができない。たとえば、海の近くで育った人は、海のない場所で生活することに物足りなさを感じるだろう。津波で被災した町にスーパー堤防を建てようという話があったとき、そこの住民は「海が見えなくなる」と強く反対したのだという。そこにはその人たちの倫理観が働いているように見える。彼らは、自分たちの命の危険と海とを天秤にかけて、それでも海が見える方を求めているのだ。彼らの切実さは、「岩にも権利を与えるべきか?」のようなくだらない思弁とはまったく次元がちがう。そのことについてはもう少し考えるべきだと思う。

 環境倫理の立派な体系を築く前に、人が環境と関わるなかでどんなときに倫理が浮上してくるのかを、きちんと見定める必要がある。そうした作業をサボった環境倫理は、どんなに壮麗であっても、誰の関心も引かない無力なものに留まり続けるだろう。