風土とは?

 ここらで、風土とは何かということをきちんと整理しておいた方がいい。そうしないと、風土にもとづく環境倫理といっても、それが何を指しているのか誰にもわからなくなってしまう。

 しかし、風土論はなかなか難解な学問だ。哲学者の和辻哲郎が生み出し、それを地理学者のオギュスタン・ベルクが発展させた。今でも、風土について論じる本や論文はぽつぽつと生み出されている。ところが風土論を勉強しても、それを他人に伝えるのは非常に難しい。和辻やベルクの著作はいずれも厳密な学問というよりも、美しい文体で描かれた文学作品のような印象を受ける。読んでいるときは面白いし、何か極めて重要なことが論じられているという感じがする。しかし、それを整理して他人に伝えようとすると、かなり無味乾燥で退屈なものになりがちだ。実際、ふたりの風土論について論じる著作の多くからは、オリジナルが持っていた魅力がほとんど失われてしまっている。

 なるべく専門用語を使わない方が良いと思う。論理よりもイメージで済ませた方がいい部分も多いはずだ。風土論を解説するというよりも、風土論に触発された文学作品を書くような気持ちの方がいいだろう。

 「故郷」について考えてみたいと思う。

 老後は故郷に帰って暮らしたい、と考える人はそれなりにいる。私もそういう感覚を持っている。しかしこれは改めて考えると不思議なことだ。なぜ人は故郷に帰りたくなるのだろう? 知っている人がほとんどいなくなってしまっていても、そこが今住んでいる地域よりも不便であっても、それでも故郷に帰りたいというのだ。

 故郷に愛着があるからだ、というのがひとまずの答えになるだろう。しかしそれだったら、「故郷」にこだわる必要はないのではないか? 生きている中で、人が愛着を持つ対象はいくらでもある。本に愛着を持つ人もいれば、美少女フィギュアに愛着を持つ人もいる。故郷だけが特別なわけではない。また、なぜ「暮らす」ことにこだわるのか? ときどき故郷に遊びに行けばいいだけの話ではないだろうか。なぜ、今住んでいる場所を引き払ってでも、故郷で暮らしたいと考えるのだろうか。

 ひとつには、その方が「しっくりくる」からだ。たとえば私は北海道出身なのだけど、雪のほとんど積もらない本州の冬はしっくりこない。雪かきはもちろん面倒だ。だけど、大学に入るまでの20年近くを北海道で過ごした私にとって、冬は雪が降るのが当たり前なのだ。そしてその雪は払えば落ちる粉雪で、本州のような牡丹雪ではない。本州の冬は私にとっていまだにしっくりこない。

 「しっくりくる」と「愛着がある」は似たようなことのようにも思える。でも、少しニュアンスがちがう。「しっくりくる」の方が、身体感覚にアクセントがある。たとえば、小説を書くときいつも同じ万年筆を使っている小説家は、その万年筆に愛着があるというよりも、その万年筆を使うことが「しっくりくる」のだ。自分の身体になじむ、という言い方もできる。

 しっくりくる道具を使っているとき、その人の身体と道具とはほとんど不可分になっている。あまりに身体になじみすぎて、自分がその道具を使っているという意識もない程に。小説家は、万年筆のペン先を自分の指先の延長のように感じている。

 これと同じように、故郷にいるとき、自分の身体と環境とが不可分になっているような感覚がある。路面が凍りついているとき、私はスパイクなしの靴でもすいすい歩くことができる。路面の状況を見れば、どこが滑りやすそうかというのは簡単に判断できるし、万一滑っても焦らず対処すれば転ぶことはない。そしてそれは、私が冬道の達人だということではなく、北海道で生まれ育った人だったらだいたいできると思う。私は北海道で育って、冬道で何度も滑ったり転んだりしているうちに、適切な歩き方を学んでいったのだ。私の歩き方は北海道の冬道に最適化している。それが、自分と身体と環境が不可分になっている、ということの意味だ。

 こうした物理的なレベルだけでなく、美的なレベルでも同じような関係が成り立っている。夜中、街灯に照らされて雪が音も無く降り続けるのを見ているとき、朝になって雪がやみ空が澄み渡るような青になっているのを見るとき、私は幸福感に満ちた安らぎを感じている。それが、私にとって「しっくりくる」風景だからだ。美しい風景は世界中にいくらでもある。しかし、そこに安らぎはない。故郷の風景を見ているとき、私は自分が幼いころに見ていた風景を思い出している。そばには家族がいて、子どもの私は安心しきって目の前の風景に没頭している。

 故郷を失うことを、文字通り自分の身を切られるようにつらく感じる人々がいる。たとえその補償金が十分に与えられたとしても、それでも消えない傷のようなものがその人には残るだろう。それは、その人にしかわからない傷だ。だから、表面的には、何も問題はないように見える。本人も何も言わないだろう。社会には、その傷を明かせる場もなければ、数量的に評価する手法もないからだ。でも、見えないからといって、存在しないということにはならない。「見えないもの」こそが、その人の故郷を故郷たらしめているのだ。

コメント

 風土論であれば風土の歴史性の話は欠かせないのだけど、うまく組み込むことができなかったからちょっと触れておこう。

 これは職人の比喩で考えた方がわかりやすいかもしれない。職人の技術は、その人がひとりで作り上げたものではなく、代々の職人たちの創意工夫が少しずつ積み重なって形成されたものだ。だから職人の身体の使い方には過去の職人たちの身体も関与していることになる。風土も同じで、その人の身体と自然環境との関係には、その土地で生きてきた過去の人々の身体が関与している。たとえば、その人は冬道での歩き方を親から教わったのかもしれないし、親はそのまた親から教わったのかもしれない。

 今回論じたようなことが現実の環境政策に影響を与えるとはとても思えない。感傷的なポエムとして片付けられて終わりだろう。ただ、こうしたポエムにも居場所のあるような遊びのある社会の方が良いと思う。今の社会はなんでも「見える化」しようとして、「見えないもの」を駆逐しようとしているように思える。その方がものごとが効率的になってみんな幸せになれるという考えなのだろうけれど、遊びがないと、いろんなことが狂ってしまう気がしてならない。