身体に根付いた「善いこと」

 人が何か善いことをするときの心のありようについて考えてみたい。

 気候変動を緩和するために、個々人がなるべく化石燃料への依存を減らした生活を送るのは「善いこと」だと思われている。でも実際には、多くの人はそんなこと気にせずに生活しているだろう。たとえばクーラーの温度を下げすぎないとか、使っていない部屋の電気を消すとか、それくらいならやるかもしれない。だけど、ドライブやアウトドアの好きな人が気候変動対策のために泣く泣く車を処分した、なんて話は聞いたことがない。そして車を使い続けることに罪悪感を持っている人もほとんどいないだろう。そもそも車を使わないことが「善いこと」だなんて考えるのは変わり者だけなのだ。たとえそれが、クーラーの温度や部屋の電気なんかを気にするよりも、気候変動緩和にずっと効果的なのだとしても。

 では逆に、なぜクーラーの温度を高めにしたり、使っていない部屋の電気を消すことは「善いこと」だと思われがちなのだろうか? とくに、使っていない部屋の電気を消すことについては、そんなことしてもエネルギー消費の節約量は微々たるものだし、むしろこまめにつけたり消したりする方がかえってエネルギー消費が増えるという意見もある。その場合、「善いこと」と思って電気をこまめに消したのに、かえって環境に悪いことをしていたということになってしまう。

 しかしそれを言われても、電気をつけっぱなしにしておくことに何となく居心地の悪さを感じる人はいるだろう。自分は何か悪いことをしているのではないか、という罪悪感だ。なぜか。それは、そのように教わってきたからではないだろうか。子どものころ、電気をつけっぱなしにして親に叱られた経験は多くの人が持っているものだろう。小さい頃に叱られたことは、大人になってからもやることに躊躇する。私は北海道出身で、家にクーラーなんてなかった(必要なかった)から、クーラーの温度について親からとやかく言われた経験はない。だから、クーラーの温度を割と躊躇なく下げる。でも、小さい頃からクーラーのある家で育った人は、クーラーの温度を下げすぎると罪悪感を持つのかもしれない。

 善悪の判断基準は、子どものころにだいたい出来上がってしまうのではないかと思う。刃物を人に向けてはいけないとか、食べ物で遊んではいけないとか。小さい頃に教わったことは、大人になってからも身体に染みついている。それで、とがめる人が周りにいないときでも、せっせとクーラーの温度を高めに設定し、使っていない部屋の電気をこまめに消すのだ。

 それでは、その善悪の判断基準は、大人になったらもはや変更不能なのか? 必ずしもそうではないと思う。たとえばコロナ禍のとき、マスクをせずに人前に出るのは「悪」だった。マスクが鼻を覆っていないだけで、周りから白い目で見られたものだ。

 ただ、こうした新しい善悪の判断基準が有効に働くためには、周囲の目が必要だ。周りから排除されたくないという打算から、マスクをしなければならないという道徳意識が保たれている。だから、コロナ禍のときだって、仲間内だけで集まってマスク外して飲み会やってる人は普通にいたはずだ(私もしていた)。マスクをするかどうかは、身体に染みついた道徳ではなく、単に外部から押しつけられたものにすぎないのだ。だからマスクをすることについては、「善いこと」であるのは頭ではわかっていても、どこか馬鹿馬鹿しいと思っている人も多かったのではないだろうか。反マスクとかいう思想的なことではなくて、単純に、マスクをするのが善いことだという感覚がわからないということだ。

 気候変動もコロナも、人類がその歴史上初めて出会った問題だ。だから、親から教わった善悪の判断基準だけではとても対処できない。それで、「クーラーの温度を下げすぎないようにしよう」「人前ではマスクをちゃんとしよう」という新たな道徳が生まれる。しかしそれは身体に根付かない頭でっかちの道徳なので、それを実効的にするためには周囲の目が必要になる。ところが周囲の目はいつもそばにあるわけではない。それに、自分と何の関係もない他人の目なんて、無視したって構わないものだ。だから、新しい道徳に従わない人が必ず出てくる。身体に根付かない新しい道徳は脆弱なものなのだ。

 これからも人間は、未知の問題に出会う度に、新しい道徳を作り出さなければならなくなる。そしてそのたびに、それを守らない人々に対処しなければならない。道徳を守らない人に道徳を訴えてもしょうがない。だから、罰則を設けるなど、新しい制度を作ることが必要だ。しかし、その新しい制度は、そもそも人々が支持しなければ成り立たない。気候変動対策が遅々として進まないのは、そうした制度を人々が支持しないからだ。そうした制度を成立させることが「善いこと」だと、人々は身にしみて実感することができないのだ。投票の際には周りの目を気にせずに入れたいところに入れることができる。だから人々は、口先では気候変動対策が大事だと言いながらも、気候変動をそれほど重視しない候補者に票を入れるのだ。

 新しい道徳をどうやって身体に根付かせるか、というのが重要なのだと思う。時間がかかるし、効果が見えにくいとしても、やるしかない。それがどんなに「善いこと」だと言われても、人は、自分の身体で納得できないものを「善いこと」だとは思えないのだ。

コメント

 少し前までは、アマルティア・センの影響で、新しい道徳や倫理をつくるには公共的討議(ようするに理性的な対話)をすればいい、という風に考えていた。だけど、どうもその路線で考えるのはかなり無理があるんじゃないかと最近は考えている。たとえば反マスクの人にどれだけマスクの重要性を訴えたところで、相手は聞く耳を持たないと思う。そしてマスクをしている人たちだって、「みんながしてるから自分もなんとなく」というのでしているだけだったりする。

 ところで、コロナ禍が終わってもまだマスクをしている人はそれなりにいるのだけど、そういう人たちは、マスクをすることがもう当たり前になって、身体にしみついてしまったのかもしれない。大人でも、何年も同じ行動をしていれば、「それをしないのが気持ち悪い」というレベルにまで道徳を身体に根付かせることができるのだろう。

 ただ、コロナ禍でのマスクみたいに半ば強制的なやり方を取ることはほとんどの場合無理だろう。だから、やっぱり道徳に関しては子どものころの教育が重要になってくると思うのだ。周りの大人たちがやっていることを、子どもはそういうものだとして自分の身体に覚え込ませていく。それは洗脳ではないのか? まあ洗脳ですね。でも洗脳抜きで、実効性のある道徳を成立させることはできるだろうか? 身体に根付かない道徳は、あまりに脆弱だと思う。そこらへんが、私がセンの公共的討議に疑問を持つようになった理由だ。