【用語集】功利主義

津波てんでんこと功利主義

 「津波てんでんこ」という言葉がある。津波が来たら、周りの人を助けようとせずに、自分だけで逃げろという意味だ。

 過去に津波に襲われた経験のある地域では、おそらく、家族や友人を助けようとして自分も津波に飲まれてしまった人々がたくさんいたのだろう。「津波てんでんこ」は、そんな光景を目撃した生き残りの人々が言い伝えてきた経験知なのだ。目の前に親や子どもがいても、助けないで自分だけ逃げる。残酷なように思われるけれど、結果的に、その方が助かる人の数を最大限高めることができる。

 もちろん、助からない人も出てくる。本当は助かっていたはずなのに、見捨てられて死んでしまう人も少なからずいるだろう。だとしても、トータルで見れば死ぬ人の数はずっと少なくなる。後ろ髪引かれる思いであっても、見捨てるべきなのだ。感情を押し殺し、周りを助けず自分だけ助かるという行為にコミットする。そのために、この言葉は伝承され、人々にすり込まれてきたのだと思う。

 「津波てんでんこ」は、功利主義と呼ばれる判断基準と同じような発想だ。行為の善悪をどのように判定すればいいのか? 功利主義を初めて提唱したしたベンタム(1748-1832)によれば、行為の善悪は、その行為の影響を受ける人々の幸福の総和を増大させるかどうか(あるいは不幸の総和を減少させるかどうか)によって決まる1津波てんでんこの場合で考えるなら、周りを見捨てて逃げる行為は善だ。なぜなら、そうすることで、「津波にのまれて死ぬ」という不幸の総和を減少させることができるからだ。

功利主義サイコパス

 この話を聞いて、「なるほど、じゃあ、ボクも今日から功利主義の教えに従って生きることにするよ」とか思ってしまう人は、サイコパスとして生きていく可能性が高い。

 というのは、功利主義がもたらす結論はサイコパス的なものになりがちなのだ。たとえば、「太った男を突き落として5人の男を助けるか」という思考実験がある。トロリー問題の別バージョンだ。トロリーが暴走していて、このままではその先で(なぜか)寝ている5人の男たちをひき殺してしまう。あなたは線路をまたぐ歩道橋の上にいて、ちょうど目の前に太った男がいる。こいつを歩道橋から突き落とせば、トロリーは太った男の肉布団に受け止められて停止するだろう。よかった5人助かる。しかし男の肉布団は千切れ、はじけ、血と内蔵と骨が飛び散り、う゛ぇう゛ぇう゛ぇう゛ぇう゛ぇう゛ぇう゛ぇう゛ぇとか変な声を上げながら男は絶命する。それでも男を突き落とせ、というのが功利主義の教えだ。「だって5人と1人では5人の方が多いでしょ?」その通り。でも、あなたは間違いなくサイコパス野郎だ。

 今のはただの思考実験だけど、現実世界でもこんなサイコパス的思考は見られる。たとえば広島・長崎への原爆投下を正当化する論理として、「その方が戦争を早期に終わらせることができるから、全世界で死ぬ人の数を減らせる」というものがあったと言われている。つまり原爆投下を功利主義に基づいて正当化しているわけだ。でも、原爆が落とされた街で人々がどんな姿になっているか、少しでも想像できた上でそう言っているのだとしたら、かなりのサイコ野郎だと言って良いだろう。

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功利主義の問題点

 という風に、功利主義に従った行為はサイコパス的なものになりがちだ。「サイコパスだったら何が悪いのさ。それとも、1人死ぬより5人死ぬ方が良いって言うの?」という反論はあるだろう。確かに、サイコパス的判断に対する嫌悪感に目をつぶればいいだけなのかもしれない。それでも、功利主義にはやはり何か大きな問題がある気はする。その点について、もう少し考えてみよう。

 アマルティア・センは、次の3つが功利主義の構成要素だとしている。

  1. 効用主義
  2. 帰結主義
  3. 総和主義

 「功利主義」と「効用主義」は似たような言葉なので、混乱するかもしれないけど、あくまで別物だ。功利主義の構成要素のひとつとして、効用主義があるということなのだ。「効用」とは、人々の満足とか幸福とかのことだ。ここでは、人々の快楽や苦痛という意味で使われている。ようするに、人々の主観に注目するということだ。だから、「お前は自分が幸せと思っているかもしれないが、客観的に見ればそうではないのじゃよ」などと説く賢人の出る幕はない。私がハッピーだと思うのなら、私は本当にハッピーだ。あなたはシェイクスピアを朗読するとハッピーかもしれないが、わたしは自分の爪の臭いを嗅ぐとハッピーだ。特に左の薬指がたまらない。主観最強。こんな風に、効用主義は人々の効用の高級さを差別しない。

 帰結主義とは、物事の帰結(結果)にしか注目しないということだ。プロセスは一切無視だ。「お前、自分の親を見殺しにしただろ?」みたいな批判は受け付けない。「でもそれによって助かる人の数は最大になったでしょ? 帰結を見てよ、帰結を」と反論すればいいのだ。

 総和主義とは、ものごとの総和をみるということだ。功利主義の場合なら、人々の効用の総和をみる。で、総和がなるべく大きくなる行為が善ということになる2

 センは功利主義に批判的で、この3つの構成要素ごとに功利主義の問題点を指摘している。

 まず、効用だけに着目するのはおかしい。たとえばドラッグや新興宗教にはまっている人みたいに、本人がハッピーでも、周りからみるとどう考えても放っては置けないという状況はある。そういうときは、その人の効用が下がるとしても、ドラッグや新興宗教をやめさせるべきだろう。主観最強とか言ってる場合じゃない。

 また、帰結しかみないのもおかしい。帰結主義を認めるなら、たとえばテロリストに拷問することは正当化されることになる。プロセスに問題があっても、「何万人もの人々をテロから救う」という帰結が得られるからだ。しかし、こうしたプロセスを大事にすることは民主主義社会の基本だ。

 総和だけをみるのもおかしい。それだと、深刻な格差や差別があっても、トータルとしてみて許容されてしまいかねないからだ。原爆を落とすことで戦争が早期に終了したというのが仮に事実だったとしても、それではなぜ広島と長崎の人たちが犠牲にならなければならなかったのか? 彼らが犠牲者となるべき理由なんて何もないのだ。

 という風に、功利主義で行為の善悪を評価しようとすると、いろんなところで問題が出てくるのだ。

功利主義に全面的に従う必要はない

 では、功利主義は捨て去るべき誤った判断基準なのか? 必ずしもそうではない。津波てんでんこの話を聞いてサイコパスだと思う人はあまりいないだろう。

 また、似たような話として、トリアージというのがある。コロナ禍の病院や、あるいは戦時下の野戦病院では、大勢の患者に対して医療資源が切迫している。人もモノも時間も限られていて、すべての人を救うことはできない。そういうとき、患者を緊急度に応じて選別して、治療の優先順位を決めるのだ。緊急度の高い患者は赤色タグ、それより緊急性の低いのは黄色タグ、緊急でなければ緑色タグを付け、もはや治療が不可能な場合は黒色タグを付ける。そして、黒は無視して、赤色タグから順番に治療を行っていくのだ。こうすることで、助かる人の数を少しでも多くしようとしているのだ3トリアージに関しても、サイコパス呼ばわりする人はあまりいないと思う。

 どう考えればいいのか? ひとつのやり方は、人々が従う倫理を文化的な産物だと考えるというものだ。津波てんでんこは、別にその地域の住民が功利主義を本で勉強してつくりあげたルールではない。むしろ、その地域で自然に生まれ伝承されてきた文化に、学者が「功利主義的だね」と後付けでレッテルを貼っているというのに過ぎない。人々はケースバイケースで様々な倫理に従っている。同じ人が、ある場面では功利主義的に行動している一方で、別の場面では義務論のような別の倫理に従って行動することは普通に見られることだ。学者はそれを「矛盾だ!」と批判するかもしれない。でも、そんなことはそうした倫理に従って生きている人にとってはどうでもいい。「常にひとつの倫理に従って生きなければならない」という倫理はないのだ4

 功利主義について勉強すると、人々の判断基準が理解しやすくなるというメリットはある。また、自分や他人の判断基準について批判する際にも、功利主義の知識があると便利だろう(センは功利主義を勉強したから功利主義的な考えをする人たちを批判することができたのだ)。でも、別に功利主義が唯一の正しい倫理であるなんてことはない。あくまでそれは文化の産物としての倫理に学者が「功利主義」という名札をつけただけのものなのであり、その時々のシチュエーション次第で異なる倫理が柔軟に適用されるものなのだ。そうした倫理を分類してみたり、それぞれの倫理に従うとどんな判断をするべきかを検討するのに倫理学は役に立つ。でも、それ以上のことはできない。だから、一部の倫理学者がどれだけ功利主義の素晴らしさを論理的に説明したとしても、そこにあなたがサイコパスの匂いを嗅ぎ取り、嫌悪感を持つなら、それに従う必要は何も無いのだ。

メモ

 関連する話題として効果的利他主義もいつかまとめようかな。あと、脳科学者のグリーンが「メタ道徳としての功利主義」というのを提唱しているけれど、これもいつか検討したい。


  1. 品川哲彦(2020)『倫理学入門』を参照した。
  2. もちろんここでツッコミは入るだろう。「どうやって効用の総和を求めるのですか?」と。さっき、効用は主観だと書いた。主観は最強であって、他人に文句を言わせない、というのが効用主義の発想だ。だとしたら、自分の効用と他人の効用を足し合わせるなんてできるわけがない。功利主義関連の入門書をちょこちょこ読んではいるのだけど、今のところ、あまり良い説明には出会ってない。経済学者も「効用」概念を扱うけれど、彼らは個人間で効用を足し合わせるのは不可能だと考えている。効用の個人間比較を裏付ける根拠は何もないし、それを認めてしまったら科学にならないからだ。
  3. 児玉聡(2016)『功利主義入門』
  4. ここらへんはヒース『ルールに従う』の第9章の議論を参考にしている。