【読書ノート】『風土学はなぜ何のために』3章

第3章 風土性

 わたし(ベルク)は昔、和辻哲郎の『風土』という本が何を言わんとしているのか、よくわからなかった。とくにわからなかったのは次のようなくだりだ。

この書のめざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。

 「人間存在の構造契機」ってなんだ? 「契機」ってようするに「きっかけ」ということでしょ? 「構造のきっかけ」ってどういうこと?

 あとでわかったのだけど、和辻が使ってる「構造契機」というのは、ドイツ語のStrukturmomentを直訳したものだった。これは、力学的なモーメント、つまり、一対の力からもたらされる動力という意味だった。

 これだけだと、まだ「人間存在の構造契機」という言葉で和辻が何を言おうとしているのかわからない。和辻の考えを理解するには、和辻による「人間」という言葉の分析を引き合いに出さないといけない。

 和辻は、日本語の「人間」という言葉は「世の中」という意味を持つとともに、「個人としての人」という意味も持つと言っている。「人間万事塞翁が馬」とは、「世の中って、いいことも悪いこともあって転変極まりないよね」ということで、このときの「人間」は「世の中」という意味だ。一方で、もちろんひとりひとりの人のことも「人間」という。つまり、人間存在は「関係的半面」と「個人的半面」の両面から成り立つ構造を持つハイブリッドな存在なのだ。これが、「構造契機」ということの意味だ。

 では、風土性が人間存在の構造契機であるとはどういうことか? それは、「風土性とは、個人とその風土によって形作られるダイナミックな対であり、人間存在全体の現実がこの対である」(p34)ということだ。何言ってるかわからない? じゃあ、もう少し説明しよう。

 『身ぶりと言葉』という本がある。人間はもともと猿だったわけだけど、石器のような道具を作るようになり、さらに言葉を通して世界を表現するようになり、少しずつ猿でなくなっていった。猿はただの動物だ。しかし人間は、技術を通して環境を操作することができる(技術による環境の人工化)。また、言葉があるから社会制度が生まれるし、都市も生まれる(象徴による環境の人間化)。これらは人間の動物的身体を越えて環境の中にも人間存在を拡張しているともいえる。いわば、個別的な「動物的身体」に対して外的な「社会的身体」ともいうべきものだろう。

 人間はただの猿として「動物的身体」を持つばかりでなく、「社会的身体」を持つ。ところで、人間は環境としての生態系に含まれているのだから、「社会的身体」という言い方では不十分だろう。そこで、「風土的身体」という言い方をしよう。風土的身体とはわれわれの風土のことである。「そして動物的身体と風土的身体のダイナミックな対――構造契機――が、われわれの風土性なのである」(p39)。

コメント

 さあ、このあたりから予備知識のない人には理解不能なゾーンに入ってきた。とくに、和辻による「人間」の分析とか『身ぶりと言葉』の内容紹介とかを本書ではほとんど端折ってしまっているので、そのまま読んでも理解不能だと思う。上のまとめでは、ベルクが端折ってるところを多少補ってます(和辻の「人間」の分析は『人間の学としての倫理学』の序盤に出てくる)。

 整理してみると、そこまでぶっ飛んだことは言ってないように思った。『身ぶりと言葉』は基本的に考古学の本で、哲学的考察はほとんど入ってないので、誰にでも「ああ、そうなのね」と受け入れられるものだと思う。「社会的身体」という考え方も、アフォーダンスとか分散認知みたいに、身体を単なる肉体から拡張して捉えようとする議論が少しずつ普及してきているので、そこまで突飛には感じない。ベルクは社会的身体に「生態系との関係」という視点を追加して「風土的身体」という新たなラベルを貼っただけだとも言える。

 前回、ベルクによる北海道の稲作の分析をまとめてみて、本当に風土論ってまともな議論なのかどうか不安になったけれど、分散認知のバリエーションのひとつみたいに位置づければ受け入れやすくなるかな? わたしもまだ分散認知はアンディ・クラークの本しか読んでないのだけど。