【アニメ感想】『イノセンス』素朴な心身二元論

はじめに

  • 電脳コイル』を見終わったあと、次に見るものがなくてしばらくアニメ鑑賞を休んでた。ひさしぶりにアマゾンプライムを漁っていたらこれが見つかった。

  • もともと攻殻機動隊シリーズにはあんまり興味ない。とにかく、わたしはかわいいものが出てこないと気持ちが萎えるので、漫画版テイストのタチコマが出てこないとなるとモチベーションはだだ下がりだ。で、これもそんなに期待しないで見始めた。

  • 見終わってみて、やっぱり夢中にはなれなかった。でも、思うことはいろいろあったので、考える練習としてつらつら書いてみたいと思う。

  • なお、攻殻機動隊に関する自分の知識は、中学生のころにみた最初の映画版と、大学生のとき友人に借りた原作1巻だけです。それ以降のはすべてスルーしてきました。

あまり新しさを感じない

  • もう20年も昔の作品に新しさを求めるのは酷かもしれないけれど、見ながらずっと、「古臭いなあ」と思っていた。

新しい「霊魂観」を提示できてない

  • たとえば「ゴースト」っていうのが、「霊魂」とか「自我」みたいなものとして設定されているのだと思うけれど、その描き方が割と適当なように思う。つまり、すごく素朴な心身二元論みたいな仮定のもと、身体(脳)や人形、あるいはネットワーク全体を乗り物みたいにして魂が行き来するようなイメージで描いていると思う。だけどそれって、ドラゴンボールで人が死んだら魂があの世に行くというのと、実質的にはあまり変わらないんじゃないか。魂の行き先がネットワークなのか界王様の元なのか、という程度の違いに過ぎないと思う。そもそも身体を無くした状態でゴーストは維持できるのかとか、ネットワーク上でゴーストはデータとして存在しているのかとか1、そういうところまで突っ込まないと、わざわざこういうややこしいSF設定を導入する意味が無いと思う。つまり、ゴーストを描くのなら、素朴な心身二元論とはちがう画期的な「霊魂観」を提案しないと、SFはただの雰囲気作りのための道具に堕してしまうのだ。

素朴な心身二元論と、その反動としてのイノセンスへの憧れ

  • また、全体として、身体に対する憎しみというか、潔癖さがあるような気がする。で、その反動として人形とか犬とかを無垢な存在(イノセンス)として描き、身体にとらわれた人間にとっての憧れの対象として描いているのではないだろうか(つまり、人形も犬も、魂を持たない純粋に身体だけの存在として描かれているように思う)。とはいえ、イノセンスの世界はカオスでもあるので、公安であるバトーとしてはイノセンスに惹かれながらも人間世界に踏みとどまろうとする(逆に、イノセンスの方に踏み込んで消えてしまったのが少佐だろう)。しかし、こうした「身体から解放された新しい人間」みたいなイメージもまた古臭いと思う。これもまた、例の素朴な心身二元論に由来するものだろう。素朴な心身二元論では、身体は醜く不完全であり、永遠である魂を閉じ込める檻のような位置づけになってしまう。だけど、アフォーダンスだとか分散認知だとかが明らかになってきた今の時代の科学からすると、むしろ心は身体があるからこそ成立するのであって、身体と分離した心なんてあり得ないということになるだろう2

イノセンスへの憧れが裏返った自意識過剰の人間中心主義

  • あと、心身二元論がそのまま人間中心主義になってしまっているように思う。人形や犬がイノセンスな存在として描かれるのは、彼らが魂無き存在だからだ。バトーが憧れるのは、少佐のように身体の無い100%魂だけの存在か、あるいは人形や犬のように魂の無い100%身体だけの存在だ。だけどその憧れがうらがえって、人間だけが特別な存在であるという自意識を生み出しているようにも思う。つまり、心身の分離に悩む人間こそが特別な存在なのだということだ。だけど、そもそもそういう人間観自体が自意識過剰の厨二病的なものなのではないか。
  • この作品に比べると、『小林さんちのメイドラゴン』の方がずっと優れていると思う。『メイドラゴン』でドラゴンたちは、わざわざ窮屈な人間の身体になって、人間たちと共生しようと試みる。『イノセンス』の人間たちは身体を忌み嫌うのに、『メイドラゴン』のドラゴンたちはわざわざ人間の身体で生きることを選ぶ。なぜならそうすることで、人間とドラゴンのあいだを超えて、本当の意味で自由に生きることができるからだ(「わたしはメイドになりたかったんです」とトールは言う)。自分たちが特別な存在だと思い込むことは、かえって自分たちを不自由にしてしまう。身体を忌み嫌い、他者の存在を「イノセンス」として遠ざけ、孤独の道を歩むことになる。『イノセンス』から十数年後に公開された『小林さんちのメイドラゴン』は、むしろ人間の身体を肯定的に描くことによって、『イノセンス』の孤独を「異種間交流」という形で完全に乗り越えていると思う。

犬はファッションではない

犬をもっと大事にしてよ

  • 犬が出てくるのだけど、犬の描き方がなんだかなあ、と思う。個性も何にも無くて、ただいるだけ、って感じ。動物は無垢(イノセンス)であるという、そういう作品のテーマ的なことを語るための道具として使われていると思う。電脳コイルだったらデンノスケというのがいるけど、たぶんデンノスケは、あの作品の中でいちばん愛されているキャラだ。もちろん作品上の役割というのはあるにせよ、その役割を超えて、「デンノスケがいて良かった」と思わせてくれるキャラになっている。

伝統芸能や古典をちゃんと掘り下げて

  • 同じようなところで、伝統芸能や民謡(?)がほとんどファッション的なものとして使われていることも気になった。あと、いろんな古典の引用がちりばめられるところもそうだな。犬にせよ、伝統芸能にせよ、古典にせよ、それらは決して作品テーマにとって都合の良いメッセージを担わせる道具として用いられるべきではない。古典を引用するのなら、その内容をもっと深く掘り下げてほしい。伝統芸能を出すのなら、それがどういう人たちによって伝承されてきたものなのかを描いてほしい。そして犬を描くのなら、犬をちゃんと描いてほしい。そもそもあの犬、名前が何なのかWikipedia見ないとわからなかったよ。

まとめ

  • いろいろ書いてみて、どうやら自分は、倫理面でこの作品に反感を持っているらしいというのがわかってきた3。自意識過剰の人間中心主義的な発想とか、犬や伝統や古典をファッションにしてしまう軽薄さとか(そしてその軽薄さを深遠なもののように見せかけているところにも苛立ちを感じる)。

  • イノセンス』に比べると、同じように「あっちの世界」を描こうとした『電脳コイル』の方が圧倒的に優れた作品だと思う。『電脳コイル』では、「あっちの世界」と身体との関係性がもっと複雑に描かれているし、素朴な心身二元論の立場を取らないことで、人間中心主義的な見方も乗り越えられている(デンノスケのためにヤサコは涙を流せる)。古典引用で目くらましをすることもなく、あくまで知識の無い子どもたちの世界で、「あっちの世界」とは何であり、身体とは何なのかを突き詰めていこうとしている。つまり、むしろ「イノセンス」であるはずの子どもたちの方が、バトーたちよりもこの世界の謎に誠実に向き合っているのだ。「イノセンス」とはしょせん、厨二病をやめられない大人たちの憧憬でしかない。


  1. で、もしゴーストがデータなのだとしたら、データは複製できるから、ゴーストも複製できることになる。だけど、魂というのは唯一無二のものではないだろうか(唯一無二というのは、ほとんど魂の定義みたいなものだと思う)。だから、ゴーストが魂みたいなものだとしたら、ゴーストは複製できず、したがってデータではないことになる。しかし、だとしたらゴーストはネットワーク上でどういう形で存在しているのだろう? そういうことが、少なくともこの作品の中では描かれていなかった(もしかしたら原作漫画とかだと描かれてるのかもしれないけど)。

  2. たぶん。分散認知をちゃんと勉強してないのでちょっと違うかも知れないけれど。ともかく、こういう「醜い身体を脱ぎ捨てた新しい人間」みたいなイメージってどう考えても古臭いとしか思えない。個人的に、今はやってるメタバースにも同じような古臭さを感じる。「身体ってなんだ?」というのをきちんと考えずに、身体の表面的な醜さや不完全さばかりあげつらって「あっち」へ行ってしまおうとするのはどう考えても短絡的だし、はっきり言って人間観が薄っぺらいと思う。で、そういう薄っぺらさを誤魔化して深遠さを醸し出すために作品中でさまざまな古典作品からの引用がちりばめられているわけだけど、もっとひとつひとつの古典ときちんと向き合ってほしい。

  3. フィクションに「倫理」とか言うのもへんな話だけどね。フィクションなんて無法地帯であって、「見たい人は見る。見たくない人は見ない」という棲み分けをきちんとやっている限りは何やったって良いとは思うし。ただ、芸術作品としてフィクションを提示する場合は、現実に対する異議申し立ての妥当性とか、新しい世界観の提示がうまくいっているかとか、そういう視点で評価することが必要になってくると思う。つまり、現実社会との関わりをどこかで意識しているべきだということで、そこで一種の倫理性が入ってくるんじゃないか。