【読書ノート】『ヘーゲルの実践哲学』三章

いかんいかん、まとめるのがめんどくさくてずっと放置してた。そろそろやんないと。

実は、毎日コツコツ読んではいて、今は8章の途中まで行っている。1日10ページずつ読んでるから、あと1週間くらいで読み終わるのかな?

ただ、この本、というか哲学の本はどれもそんなもんだと思うけど、同じような話が延々と繰り返されて、どこらへんで議論が先に進んでるのかよくわかんない。第8章になっても冒頭の方の議論から何も進んでないようにさえ思ってしまう。やっぱりこうしてメモ取りながらじゃないと、哲学の本って読めないんだと思う。

第三章 自分自身に法則を与えることについて

Ⅰ 「自己立法」原理――カントからヘーゲルへ(p109-)

前章でも、精神(=制度)というのは人々が自分たちでつくるものなのだよ、ということが出てきたけど、これは実はカントの「自己立法」という考え方に遡るものだ。

自己立法というのは不思議な考え方だ。だって、自分たちで決めたルールで自分たちが縛られるわけだから。自由なんだか不自由なんだかわからない。だけど、それは不思議ではあっても神秘的なものではない。そこのところを本章では考えていきたい。

カントの場合、個人がひとりでじっくり考えることで、人が「何をするべきか」とか「何をするべきでないか」というのがわかってくるはずだ、と考える。つまり、自己立法は個人ベースでやるわけだ。

それに対しヘーゲルは、そんなのはフィクションだとカントをディスる。というのは、そもそも人々がそういう風に「何をするべきか」「何をするべきでないか」を考えるとき、すでにその社会にある生活様式とか人々の結びつきとか制度とかをベースにしているのだ。つまり、自己立法は個人ベースではなく、社会における相互承認ベースでやるものなのだ。

Ⅱ カントの「自己立法」の逆説性(p116-)

改めて言うけど、カントの「自己立法」という考えはへんだ。

たとえば「人を殺してはいけない」ということをAさんが自己立法するとしよう。問題は、どうしてAさんはそのルールに従わなければならないのか、ということだ。「自己立法でつくったルールには従わなければならないから」というのは理由にならない。だって、それを認めてしまったら、「じゃあ、『自己立法でつくったルールには従わなければならない』というルールにはどうして従わなければならないんですか?」という反論ができてしまうからだ。

まあ、カントのやりたいこともわからないわけじゃない。だって、「自己立法」という考えが成り立たないとしたら、人はたとえば神様とか偉い人とかのつくったルールに縛られて生きなければならないわけだから。そうだとすると、人は犬畜生と同じであり、自由なんて何にもないことになる。だから、彼としては人間の理性の力だけを頼りにして自己立法ができるのだ、ということをどうしても主張したいわけなんだ。まあ、うまく行っているとは思えないけどね。

Ⅲ 「自己立法」と理性による拘束(p125-)

自己立法というのは、わたしが何かに自分をコミットさせるということだ。たとえば、「人を殺さない」とか「ダイエットします」とか。「コミット」というのは、まあ、「約束する」くらいの意味で捉えておいてくれたまえ。「拘束する」とかの方が近いんだけどね。

Ⅳ 社会によって媒介された実践的アイデンティティ(p139-)

私が何かにコミットするためには、私は「誰か」でなくてはならない。

たとえば、「締め切りまでにちゃんと原稿を仕上げます」というコミットができるのは、締め切り前の漫画家だったり、小説家だったりするわけだ。

あるいは、「ダイエットしてきれいになって、ぜったい彼を振り向かせてみせるんだから!」とか昔の漫画みたいな台詞でコミットするためには、その人は女性でないとならない(いろんなパターンがるので一概には言えないけれど)。

で、そういう「私は誰か」というアイデンティティは、社会の中で得られるものだ。ひとりで部屋に引きこもって「俺は漫画家、俺は漫画家…」とつぶやいていても漫画家にはなれない。だから、社会から切り離された人は何者でもないのであって、何者でもないということは何かにコミットすることもできないのだ。

Ⅴ 社会的・歴史的な「自己立法」の原理(p147-)

自己立法というのは書斎に引きこもった人が演繹的に導き出すものではない。そうではなくて、社会のなかで歴史的に行われていくものだ。

本章で私がやろうとしたのは、カントみたいに個人ベースで自己立法を考えようとしてもうまくいかないというのを示すことだったのだよ。

コメント

かなり端折って要約しました。Ⅲ節に出てくる意志の弱さがどうたらの議論は、この章の中でどういう風に位置づけられるのかよくわかんなかったので省略した(ようするに、カントの議論だとコミットというのをうまく説明できないという流れでの話だと思うんだけど…)。

【読書ノート】『正義のアイデア』第6章

第6章 閉鎖的不偏性と開放的不偏性

イントロ(p193-)

  • アダム・スミスは「公平な観察者」という考え方をする。これが、本章で扱う「開放的不偏性」のベースになる考え方だ。
  • 公平な観察者というのは、「他人から見たらこの問題はどんな風に見えてくるかな?」という思考実験のことだ。
  • たとえば、あなたがマリー・なんとかネットみたいな人だったら、貧乏人たちがパンが無くて苦しんでいるときに「あらあら、パンが無ければお菓子を食べればいいのに。おバカさんたちねえ」とほざくかもしれない。でも、あなたが公平な観察者になって、貧乏人の目から問題を見てみたら、「あ、パンが無いような状況だと、お菓子も無いに決まってるわよね」とすぐ気づくだろう。そうすれば、ギロチンにかけられることもなかったろうに1

原初状態と契約論の限界(p196-)

  • ロールズは正義の二原理を考えるときに、「無知のヴェールの下での原初状態」という思考実験をした。それが何なのかは、まあ、前に書いた気がするからここでは書かないよ。知りたかったらWikipediaでも読んでくれ。
  • ロールズの原初状態で正義に関する議論に参加するのは、「その社会で生まれ、そこで生きていくことになる」人々だ。ということは、その社会の外の人たちは無視されてしまっているわけだね。

国内の市民と国外の他者(p199-)

  • だけど、こんな風に社会の外の人々を正義の議論から閉め出してしまうことには問題がある。問題を下に列挙するよ。ちなみに、ここでは「社会=国」と考えている。

1.正義の問題は国内だけに限定されるわけではない。たとえば女性の権利の問題は日本でもアメリカでも問題だ。
2. 国内での行動が他国に影響を及ぼすことがある。温暖化とか。
3. 国外の人の声を取り入れることによって、国内の偏見を是正することができる。

スミスとロールズ(p202-)

(スミスとロールズはちがうのだよ、みたいな話がだらだらつづく)

ロールズのスミス解釈(p209-)

  • ロールズはスミスの議論を功利主義だと考えていたけれど、それは大間違いだ。だって、スミスは功利主義に大反対してたのだから。
  • スミスの公平な観察者というのは、功利主義ではないし、ロールズみたいな契約論でもない。正義について考えるための第3のアプローチなのですよ。

「原初状態」の限界(p212-)

  • さて、ここで「原初状態」というロールズの考え方の問題をまとめてみよう。

排他的無視:正義は国外の人にだって影響を与えるのに、彼らを議論の場から閉め出してしまう。
包摂的矛盾:どんな風な正義を構想するかによって、その国の構成メンバーはぜんぜん変わってくるはずだ。たとえば、100人の人が集まって、原初状態において正義を考えるとする。そして、「脱成長が正義!」という結論に達したとする。すると、脱成長だと100人も養うことはできなくて、30人くらいしか生きていけないとする。すると、100人で正義を考えたのに、そのうち70人の人たちはそういう正義が現実化した社会において生きられないのだ。これは矛盾だ。
手続き的偏狭主義:議論の場に加わるメンバーを制限しているので偏見が温存されてしまう可能性がある。

  • 以下、これらについて詳しくみてみる。

排他的無視とグローバルな正義(p215-)

  • 正義をある国や社会の中だけで完結させるのはへんだ。
  • 「女性である」「人間である」といったアイデンティティに突き動かされる人々が、国境を越えて、女性の立場を向上させるために尽力したり、人権保護活動に貢献するということはあるじゃないか。

包摂的矛盾と対象グループの可塑性(p232-)

(省略。さっき列挙したところで自分なりの解説を書いたので)

閉鎖的不偏性と偏狭主義(p227-)

(これも省略。とくに新しい話題が議論されてるとは思えない)

コメント

これでやっと第Ⅰ部が終わり。でもまだ半分以上残ってるよ…。平日にちまちま読んで、休みの日に一気にブログにまとめる、というのでこなしてるけど、あと1ヶ月以上かかりそうだなあ。

とにかく、同じような話がえんえんと繰り返されるのでつらい。しかも、「包摂的矛盾」みたいなマニアックな話にページ数を割いていたりするのでうんざりする。

包摂的矛盾って、何が問題なのかよくわからなかった。いや、論理上は問題だというのはわかりますよ。でも、そもそも原初状態で正義を考えるというのはあくまでロールズが『正義論』という本の中でひとりでやった思考実験なのだと思うけれど。別に本当に100人くらいの人を集めて「今日はみなさんに正義について考えてもらいます」なんてことをやるわけではない。なんか話がズレてる気がするんだけど。

10年くらい前に読んだときは良い本だと思ってたけど、改めて読み直すとかなりかったるい本だなあ、とイライラしている。主張自体は素晴らしいと思う。でも、もうちょっとコンパクトにまとめれば良かったのにとも思う。


  1. 改めて調べてみると、これはアントワネットの言葉ではないそうです。まあ、「なんとかネット」って書いといたからいいや。

【読書ノート】『正義のアイデア』第5章

第5章 不偏性と客観性

イントロ(p179-)

  • 一部の人の自由だけ考えて、その他の人の自由を考えないような議論はクソだ。

不偏性、理解、客観性(p183-)

  • いろんな立場の人の自由を考えるというのは大切だ。で、そうなると客観性というのが問題になってくる。
  • でも、そこでいう「客観性」というのは、他の人たちときちんとコミュニケーションができているとか、いろんな立場の人たちの意見をちゃんと考慮しているということだ。「真実とは何だ!」みたいな厳密な話をする必要はありません。

混乱、言語、コミュニケーション(p186-)

ヴィトゲンシュタインがどうしたこうしたみたいなダルい話がつづく。省略)

公共的推論と客観性(p189-)

  • 倫理的客観性に必要なのは、その主張がどういう推論に基づいているのか、そしてその推論が受け入れ可能なものなのかどうか、ということだ。
  • たとえばある人が、「すべての人は私こと田中一郎をあがめ奉り、毎日5兆ドルを寄付するべきだ。なぜなら、私は神だからだ」とほざいているとする。「私は神だからだ」というのはどう考えてもホラだし、仮に神だとしても5兆ドルを納めるなんて不可能だ。だから、この推論は受け入れ不可能であり、彼の倫理的主張には客観性がないということになる。

異なる領域における不偏性(p191-)

  • 私がさんざん言ってきてるのは、不偏性が大事だということだ。「普遍性」ではないし「不変性」でもない。「不偏性」、つまり、偏りがないということだ。おっちょこちょいは読み間違えるかもしれないけれど、チューいせよ。
  • で、この「不偏性」には2タイプある。そいつを次の章で議論するよ。予習しといてね。
    • 閉鎖的不偏性:ロールズ式の不偏性。特定の社会の人々だけで正義について考える。
    • 開放的不偏性:アダム・スミス式の不偏性。社会の外の人の意見も含めて正義について考える。

コメント

  • あのねえ、「ヴィトゲンシュタインは~」とか言ったって、そんなのほとんどの人に通じないでしょう? たぶん著者からしたら、「あ、この議論、ヴィトゲンシュタインの言ってたことともつながるな」と発見してワクワクしちゃったんだろうけれど、その思いつきを読まされる読者からしたら大迷惑だ。原書の編集者はしっかりしてほしいと思う。相手がノーベル賞受賞者の大先生だからビビったのかもしれないけれど、相手がどんな大物だろうとダメな原稿にはちゃんと赤を入れるのが編集者の仕事でしょう? この本、こういう無駄な話をカットしていけばたぶん150ページくらいに収まると思うよ。
  • 前にもニーティとかニヤーヤとか、古代インドの法律の話が出てきたけど、それも議論を進める上でたいして意味の無い話題だった。センさんが物知りなのはわかったけど、脱線はやめてください。みんな迷惑しています。あなたがスナック気分でほいほい脱線しているうちに、なんということか、この本は日本語版で664ページという大著になってしまったのです。「ヤメレ 食っちまうど!」と周りの人たちが言ってやるべきだった。

【読書ノート】『正義のアイデア』第4章

第4章 声と社会的選択

イントロ(p145-)

  • ロールズの正義の考え方はいろいろ問題がある。完全に公正な社会とは何か? ということばかりに集中して、相対的な正義の問題を無視してるとか。国をまたぐような正義の問題をちゃんと考えてないとか。
  • でも、社会的選択理論というのを使うと、ロールズが無視してる問題をもうちょっとよく見ることができるようになるよ。

一つのアプローチとしての社会的選択理論(p150-)

  • 社会的選択理論というのは、個人の判断を集計して、社会的な決定を導き出すような集計方法を考える学問だ。

社会的選択理論の射程(p155-)

  • 社会的選択理論だと、人々の判断を集計して、社会的な決定を順位付ける。つまり、相対的にものごとを判断するということだ。これは、ロールズたちみたいに「最善の正義」を考えようとするアプローチとはぜんぜん違う。

先験主義と比較主義との距離(p156-)

  • 別にロールズみたいな「先験的アプローチ」が無くても、社会的選択理論みたいにものごとを相対評価する上では何も困らない。

先験的アプローチは十分か(p160-)

  • 「最強の正義」について明らかにできても、そいつをベースラインにしてものごとを相対評価することはできません。だって、ベースラインからの「距離」をどういう基準で取るべきかについて、何も考えていないのだから。
  • モナリザが最強の絵画である」ってことをどっかの評論家が言い出したとする。でも、じゃあモナリザをベースラインにして、どうやってピカソゴッホを順位付ければいいんだい? わかんないでしょう? そういうことだよ。

先験的アプローチは必要か(p163-)

  • あと、ピカソゴッホを順位付けるのに、「何が最強の絵画なのか?」という問いに答える必要はない。
  • 同じことで、「最強の正義」を明らかにしなくても、正義の相対的評価はできるわけです。

比較は先験性を特定できるか(p164)

  • でも、相対評価をどんどんやっていけば、やがては「最強の正義」にたどり着くのでは? そういう形で、相対評価と「最強の正義」が関係するということはないのだろうか。
  • 残念だけど、相対評価をどんどんやっていって、「最強の正義」にたどり着くかどうかはわからない。それはケースバイケースだ。
  • ともかく、「最強の正義」なんていらんのですよ。もちろん、人々の意見が合わなくて、うまく合意が導き出せないことはある。だからといって、「最強の正義」を持ち出す必要はない。人々の評価順位に「共通部分」があれば、その共通部分については合意ができるわけです。
  • どういうこと? ということをもうちょい知りたければ社会的選択理論を勉強してください。

推論の枠組みとしての社会的選択(p169-)

  • 正義について考えるときの社会的選択理論の強みをざっと並べてみるよ。
  1. 先験性ではなく、相対性に焦点を合わせる
  2. 「正義ってなんだ?」という問題への答えが人それぞれで変わってくるのは織り込み済み
  3. 判断の再検討を人々に促してくれる
  4. 正義の順位づけは不完全でもOK
  5. いろんな人々の意見を取り入れることができる
  6. やり方が数学的なので推論プロセスが明確
  7. 公共的議論に必要な知見が得られる
  • 7番目のはちょっとわかりにくい。これは、たとえば「不可能性定理」のことだ。不可能性定理というのは、個々人の判断があるパターンだと、社会としてどうするべきかという集計ができなくなってしまうという定理だ。この不可能性定理の問題をクリアするにいは、個々人の判断をなんでもかんでも無際限に認めてはいけないとか、他人の判断も考慮するような寛容な心をぼくたちは育まなければならないとか、そういう風な解決策が考えられる。つまり、そういう風に、公共的議論をうまく進めるために必要な知見が得られるということだ。これが7番目の強みの含意。

制度改革と行動変化の相互依存(p176-)

  • 制度を改革するから人々の行動が変わるというのもあるし、逆に人々の行動によって制度が改革されるというのもある。
  • たとえば女子教育を改革すれば女性が声を上げやすくなる。で、女性が声を上げやすくなれば、女性関連の制度改革も進む。
  • で、社会的選択理論は、そういう風に、制度を変えて、いろんな人の意見を取り入れて、制度がもっとよくなっていくよね、みたいな思想を持っているのじゃよ。

コメント

  • 前章に引き続き、完全な正義を追い求めるよりも、相対的な正義を考えた方がいいよね、という話。ただ、おんなじような話がつづいていて、ちょっと飽きてる。
  • ここの章って、社会的選択理論をまったく知らない人には意味不明なんじゃないだろうか? わたしは初歩的なところだけ一応勉強してるので、「ああ、不可能性定理って、なんかエロ小説をガンコ親父に読ませてやるぜみたいな話だよね」というのがわかるけれど、そういう人は少ないと思う。
  • この本、改めて読み直してみるとかなり不親切なつくりになっていると思う。同じような話が延々とつづくし、その一方で、こういう社会的選択理論みたいなマニアックな話をほとんど説明無しにぶち込んでくる。読む前は、「なんでセンというとみんなケイパビリティの話ばかりで、実現ベースの比較という超重要な話を無視するんだろう?」と不思議だった。でも、だんだんわかってきた。たぶん多くの人は、この本を途中で投げ出してしまうんだと思う。分厚いし。

【アニメ感想】「輪るピングドラム」13話まで

また、気づいたところをつらつらと書いていこう。

「95」の事件を扱う必然性は?

この作品は一見、ほとんどリアリティを無視しているように見える。たとえば陽毬の病気がなんなのかというのは全く語られないし、通行人はみんなピクトグラムだし、あの女優のお姉さんは学芸会みたいな芝居に出てる大根役者なのにスター扱いされている。もちろん、ペンギンとかプリンセスなんとかたちもファンタジーなのだけど、それらは作品の中でも異様なものとして位置づけられている。でもペンギンとかプリンセスなんとかだけじゃなくて、そもそもこの作品のほぼすべての要素が現実的でない。

その中で、「95」の事件だけが例外的に現実と直にリンクしている。サリン事件だと明言はしない。しかし、カルト集団が東京の地下鉄で95年に引き起こした事件なのだから、現実のサリン事件とまったく関係ないとは言い訳できないだろう。

どうしてここだけ現実とリンクさせる必要があるのか? ものすごくデリケートな題材だ。扱い方次第では大炎上することも考えられるし、関係者を傷つけてしまうリスクもある。それでもこの事件を物語に取り入れるというのは、どんな必然性があるのか。

これが単なる「主人公達のトラウマ」という位置づけでしかないのだったら、現実とリンクさせる必要はない。たとえば「ぼくたちの両親はコロニー落としの主犯で大勢の人が巻き添えになって死んだんだ」みたいなフィクションでも良かったはずだ。もちろん、世界観をSFにしなきゃならないけれど、どうせ物語自体がかなり現実離れしているのだから、いまさらスペースコロニーが出てきたってどうということはないだろう。

もちろん、取らなくてもいいリスクを取って現実の事件とリンクさせているのではなくて、必然性があるからこういう選択をしているのだろう。でも、それはどういう必然性なのだろう?

「かえるくん、東京を救う」はなぜ

どういう必然性なのかまだよくわからんので、ちょっと迂回してみる。

陽毬は図書館で「かえるくん、東京を救う」という本を探す。これは村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収められている一編だ。ずっと前に読んだ作品なのでよく覚えてないけど、確かこれは阪神淡路大震災をきっかけに書かれた短編集だったと思う。

この小説のなかで、「かえるくん」という、カエルだけど割とゴツくて日本語を流ちょうに話す生きものが、たしか「ミミズくん」というよくわからない生きものと死闘を繰り広げる。「ミミズくん」は大地震を引き起こすから、「かえるくん」がそれを阻止するために闘うのだ。そして死闘の末に「かえるくん」は勝利し、大地震は未然に防がれ、東京は救われる。だけど「かえるくん」も瀕死の重傷を負ってしまうのだった…というようなお話だったと思う(まちがってたらごめんなさい)。

で、この小説もピングドラムと同様に、運命を扱った作品だと解釈することができる気がする。「かえるくん」は「ミミズくん」と闘い、勝つことで、東京を救う。でも、東京に住む人々はみんなそんなことは知らない。ある意味、「かえるくん」は自分の命を賭けて東京の運命を変えたわけだ。だけど、運命が変わったことを人々は知らない。

こういう、「運命は知らないところで誰かが変えている」という世界観は、『ピングドラム』でも共有されていると思う。プリンセスなんとか、サネトシ先生、そして桃果は、たぶん「かえるくん」や「ミミズくん」と同じような世界の住人達だ。たぶん、プリンセスなんとかと桃果は「かえるくん」側で、サネトシ先生は「ミミズくん」側じゃないだろうか。

で、ここで最初に述べた、なんで「95」の事件だけ妙にリアルなんだ? という問題に戻る。たぶん、ここを「コロニー落とし」みたいなただのフィクションにしてしまうと、「運命は知らないところで誰かが変えている」という世界観がリアリティを持たなくなってしまうのだと思う。

この現実世界で、少なくとも今の日本では、大地震も無ければテロ事件も無い。戦争にも巻き込まれていない。だけど、それはもしかしたらどこかで「かえるくん」が「ミミズくん」と闘ってくれているからなのかもしれない。人間には、そのことを確かめようがない。確かめようがないのだけど、「もしかしたら…」とふと思うことはある。それはたとえば「かえるくん、東京を救う」を読んだり、そして『ピングドラム』を観たりしたときだ。そういうフィクションに触れたときに、この世界の運命をどこかで支えている目に見えないものたちの存在にリアリティを感じることがある。そして、そういうリアリティを確保するためにも、作品のなかで現実の事件とのリンクを示さなければならない。「かえるくん、東京を救う」の場合は阪神淡路大震災と、そして『ピングドラム』の場合は地下鉄サリン事件と。そうして、現実とのリンクを確保しておくことによって、この現実をどこかで支えている「かえるくん」に思いを馳せることができるのだ。

何を早くすり潰すのですか?

さて、話がずれるのかずれてないのかわからないけど、もうひとつ気になっていることを考えてみたい。それは、なぜ「すりつぶし」お姉さんは運命日記を奪ったのか、ということだ。

日記というのは私的なものだ。だから、本人にとっては意味があるし、親しい周囲の人にとっても「桃果はこんなこと考えていたんだなあ」と知ることができるという点で意味がある。だけど、桃果にとって完全な他人である「すりつぶし」お姉さんにとっては全く意味がないはずだ。それなのに、「すりつぶし」おねえさんはあの日記を奪い、マリオさんとやらを助けようとする。そしてマリオさんは、陽毬と同じペンギン帽をかぶっている。陽毬にとってあのペンギン帽は、晶馬たちと水族館に行った思い出だ。だから陽毬にとっては意味がある。だけど、マリオさんにとってはとくに思い出があるわけではないし、意味ないはずだ。

個人にとって意味あるものに他人がぐいぐい食い込んできて乗っ取ってしまおうとする。これはどういうことだろう? 

構図的に考えれば、「すりつぶし」お姉さんとマリオさんは、サネトシ先生側のグループに入ると思う。つまり、陽毬に「罰」を与えようとするグループだ。ちょっとまだ整理がつかないのだけど、おそらく、「すりつぶし」お姉さんが日記に執着するのは、運命の主導権を奪おうとしているんじゃないだろうか。冠葉と晶馬はプリンセスなんとか(=かえるくん)の助けを借りて運命を変えようと奮闘するのだけど、そういう運命の主導権を奪おうとするのがサネトシ先生(=ミミズくん)の助けを借りている「すりつぶし」お姉さんだ。「いやだわ、早くすり潰さなくちゃ」というあのお姉さんの口癖は、運命を変えようとする輩を潰して、きちんと「罰」を遂行させなくちゃ、という風な意味なのかもしれない。運命を変える力の象徴がリンゴなわけだから、リンゴはちゃんとすり潰さないとね、ということなのかな。

……という風にムリヤリ屁理屈をつけて、最後まで観続けよう。

エビデンスを求めるべき場合・求めるべきでない場合

何かというとエビデンスが求められる世知辛い世の中にうんざりしている人々もいるみたいだ。 なんてことをいうと、「そういう人々がいるというエビデンスがあるのですか?」と突っ込まれるのも目に見えている。ああ、世知辛い。エビデンスがなければ言いたいことも言えないのですか。「昔は良かった」と年寄りが呟くだけで、昔はいかに殺人が多かったか、レイプが横行していて子供は過酷な労働に駆り出されていたか、というエビデンスを「ご参考までに」と示してくれる気の利く人たちもいる。うぜえ。

うぜえ、の一言で済ませることができるならいいけれど、そういうわけにもいかない。というのも、実際のところ、エビデンスは大事なものだからだ。エビデンスというものの通用しない世界を想像してみてごらん。例えばあなたは満員電車に乗っていて、突然後ろにいた女性に腕を掴まれ、こいつは痴漢だと罵倒される。あなたに身の覚えはない。あなたは言う。「私がやったというエビデンスがあるのですか?」「そんなものはない。しかし、お前がやったとあたしの本質直観がささやくんだよ…」こうして、あなたは彼女の本質直観によってお縄となってしまうのだ。エポケーなんかするんじゃなかった…と悔やんでももう遅い。あなたはエビデンスの通用しない世界に生きているのだから。

あるいは、コロナワクチンがエビデンス無しのまま使われたらどうなるか。イモリの心臓とトカゲの尻尾と蚊の目玉を炭火でじっくり焼いて粉にしたものを煎じて飲まされても文句は言えないのだ。エビデンスの通用しない世界は、インチキ黒魔術師の牛耳る暗黒世界と同じだ。そんな世界では、血で血を洗う暴力が蔓延するだろう。なぜなら、エビデンスが通用しないということは、対話が成り立たないということだからだ。本質直感でお縄にされてしまうような世の中で自分の身を守るには、とにかく肉体を強化し、武具を揃え、自衛するしかないだろう。エビデンスが力を持たないのなら、暴力に訴えるしかないというわけだ。「エビデンス? なんのことかな。しかし俺は、奴らの首をこんなに集めたぜ。どんなもんだい。首の数? 数なんて知らねえよ。50かな、100かな。ああ、めんどくせえこと聞くなよ。うぜえ。俺はエビデンスを集めてるんじゃないんだから。俺は俺の本質直観を満足させているだけさ」

エビデンスが通用しない世界はカオスだ。でも、かといって、あらゆる場面でエビデンスを求めるのもおかしい。

例えば友達を作ったり恋愛したりするときにエビデンスを求める人はドアホウだ。「あなたが私の彼氏にふさわしいということを示すどんなエビデンスがあるのというですか?」そんなものはない。そういう場面でこそ「私の本質直観です」と言ってやればいい。人が人を好きとか嫌いというのは主観の問題だ。主観の問題にエビデンスを持ち込んで無理やり客観の問題にすり替えようとしても頭のおかしい人扱いされるだけだろう。

あるいは、漫画家や編集者がマーケティング調査を一生懸命やってエビデンスを集め、「今の消費者に求められている漫画」を描いてみても、ろくなものにならないと思う。そこそこ売れるかもしれないけれど、多分誰の心にも残らない暇つぶしみたいな作品にしかならないだろう。なぜなら、これも主観の問題だからだ。よく、好きな漫画や小説のことを「まるで私のために書かれた作品のようだ」という人がいる。例えば太宰治の小説なんか、そういう風な感想を言う人が多いと思う(エビデンスはないけど)。もちろん、そんなのは幻想だ。だって、作者はあなたのことを知らないのだから。それでも、そういう幻想を持つことができるからこそ、その作品は名作なのだ。そう言う時にエビデンスは無力だ1

と言うふうに、「主観」が何よりも大事な領域というのはあるのだ。もちろん、コロナワクチンを作る時には主観は黙っていた方がいい。でも、親しい人と付き合うとき、好きな漫画を読むとき、主観を無くしてしまってはいけない。というのは、主観をなくすというのは、心を失くしてしまうのと同じことだからだ。太宰は小説を書くことを読者への「心づくし」と表現したけれど、「心づくし」はエビデンスでは代替不可能な物なのだ。

だから問題なのは、主観が大事なのか、客観が求められているのかを、その場その場で判断できるセンスだろう。老いた親が「昔は良かった」と言ってる時に、昔がいかに暴力的でひどい時代だったかというエビデンスを出してもしょうがない。そういう時は、利口ぶりたがる自分を抑えて20分くらいでいいから昔話を黙って聞くのが親孝行というものだろう。逆に、「コロナワクチンを打ったら脳が5Gに接続してしまうううううっっっっ!!!!!」と叫んでいる人がいたら、それも黙って聞き流した方がいいのかもしれないけれど、ちょっと勇気を出して、「そんなことないよ」とエビデンスを示してみても良いと思う。

確かに、エビデンスがあちこちで求められるようになって、うぜえ、という気持ちは私自身にもある、というか、かなりある。だけどそれは、主観が大事な場面なのにエビデンスを求められるからうぜえと感じることが多いように思う(エビデンスはないけど)。こんなこと言うと、「どう言う場面で主観が大事で、どういう場面で客観が大事なのか、それを示すエビデンスはあるのですか!!?」と怒られるかもしれないけれど、いや、そんなの知らないよ。「知らない」っていうことが大事なんだと思う。だって、人間から主観は消せないのだしね。主観についてああだこうだ文句をつけてくる人に対して言うべき悪口として「野暮」というのがあるのだけど、最近はこの言葉も流行らなくなってきているようだ(エビデンスはないけど)。


  1. マーケティング調査に頼った漫画がたいして面白いものにならない、というのは別の理由もある。それは、そもそも、面白い漫画の「面白さ」の中には、これまでの漫画にない「新しさ」も含まれているというものだ。そういう未知の新しさについて消費者にあれこれ聞いたところで意味が無い。だって、消費者だってそんなの知らないんだから。その一方で、マーケティング調査に頼った漫画が売れるというのもあると思う。たとえば消費者がかわいい女の子を求めているのなら、かわいい女の子がたくさん出てくる漫画は売れるだろう。だけどそれは過去に売れた作品の劣化コピーをひたすら再生産してるだけのことなので、長期的には業界全体が廃れるだけだと思う。

【雑文】大事なのは「アイデア」と「ブツ」

わたしは話の長い人がとても苦手だ。

さっきも、話の長い人のいる研究会に参加して、終わったのにまだ絶望的な気分がつづいている。元々その研究会には話の長い人が1人いたのだけど、今年の春からもう1人増えた。しかもその人は、誰かが発言するとそれに必ず絡んできて長い話を始めるというやっかいな癖を持っている。そうするともう1人の話の長い人がうずうずしてくるのか、話が終わると待ってましたとばかりに自分の話を始める。そしてもちろん、その話にまたもう1人の話の長い人が絡んでくる。無限ループだ。春から毎週、わたしはこんな絶望的な数時間を過ごしているのだ。ファックだよ…。え? なになに? 何か言った? てめえ、聞こえなかったのか? ファックだっつってるんだよッッ!!! そんな楽しいやりとりは無いけれど、そんなのを夢見てしまうくらいには絶望している。

研究会で話が長い人の特徴は、豆知識をばらまきたがることだ。たぶん連想ゲーム方式で、ある話題を聞いて思い出した豆知識をぜんぶしゃべってしまうのだと思う。それが余談であることは本人もわかっていて、「これは余談ですけど」といちおう断る。でも、余談をやめようとはしない。やめられないのかもしれない。とくに、文系の研究会だとこういう人が多い気がする。前に農村社会学の研究会に出たことがあるけど、若い参加者達を無視してひたすらおじいちゃんたちの昔話がつづく地獄のような時間だった(結局、若い人たちは全員やめてしまった)。

わたしはいちおう文系だけど、ちょっと理系っぽい研究室で育った。教授は計量系の人だし、准教授は社会工学の人だった。その社会工学の先生は、研究はブツを作ってなんぼ、という発想の人だった。つまり、たくさん論文を読んだりたくさん調査したりして知識を集めるのは研究とは言わない。そんなのはクソだ。そうではなく、アイデアを出すこと、そのアイデアを現実化するようなブツをつくること。それこそが研究なんであって、知識をためこんでくだらんウンチクをばらまくようなのは愚の骨頂だ!! いや、愚の骨頂とまでは言ってなかったと思うけど、まあ、言っててもおかしくないと思う。

結局、連想ゲーム方式で豆知識を振りまいたって、世の中変わらないと思うのですよ。純粋に知識をため込む喜びというのはあると思うよ? だけど、社会科学をやっているのなら、知識をため込んでいてもしょうがない。それでいろんなテーマについて「現状と課題」を整理することはできる。でも、それだけだ。で、専門家同士で集まれば豆知識を交換し合って歓談し、おいしいお酒が飲めるのかもしれないけれど、それがいったい何だと言うんだい。

大事なのは「アイデア」と「ブツ」だ。知識はそれらの材料になるものであって、知識そのものに価値があるわけではない。知識を人前にさらすときは、それがいったいどんな「アイデア」と「ブツ」に結びついているのかを意識するべきだし、そういう結びつきのない知識はガンガン省略していくべきだろう。「アイデア」と「ブツ」を意識しないから話が無限に自己増殖してしまうのだと思う。