エビデンスを求めるべき場合・求めるべきでない場合

何かというとエビデンスが求められる世知辛い世の中にうんざりしている人々もいるみたいだ。 なんてことをいうと、「そういう人々がいるというエビデンスがあるのですか?」と突っ込まれるのも目に見えている。ああ、世知辛い。エビデンスがなければ言いたいことも言えないのですか。「昔は良かった」と年寄りが呟くだけで、昔はいかに殺人が多かったか、レイプが横行していて子供は過酷な労働に駆り出されていたか、というエビデンスを「ご参考までに」と示してくれる気の利く人たちもいる。うぜえ。

うぜえ、の一言で済ませることができるならいいけれど、そういうわけにもいかない。というのも、実際のところ、エビデンスは大事なものだからだ。エビデンスというものの通用しない世界を想像してみてごらん。例えばあなたは満員電車に乗っていて、突然後ろにいた女性に腕を掴まれ、こいつは痴漢だと罵倒される。あなたに身の覚えはない。あなたは言う。「私がやったというエビデンスがあるのですか?」「そんなものはない。しかし、お前がやったとあたしの本質直観がささやくんだよ…」こうして、あなたは彼女の本質直観によってお縄となってしまうのだ。エポケーなんかするんじゃなかった…と悔やんでももう遅い。あなたはエビデンスの通用しない世界に生きているのだから。

あるいは、コロナワクチンがエビデンス無しのまま使われたらどうなるか。イモリの心臓とトカゲの尻尾と蚊の目玉を炭火でじっくり焼いて粉にしたものを煎じて飲まされても文句は言えないのだ。エビデンスの通用しない世界は、インチキ黒魔術師の牛耳る暗黒世界と同じだ。そんな世界では、血で血を洗う暴力が蔓延するだろう。なぜなら、エビデンスが通用しないということは、対話が成り立たないということだからだ。本質直感でお縄にされてしまうような世の中で自分の身を守るには、とにかく肉体を強化し、武具を揃え、自衛するしかないだろう。エビデンスが力を持たないのなら、暴力に訴えるしかないというわけだ。「エビデンス? なんのことかな。しかし俺は、奴らの首をこんなに集めたぜ。どんなもんだい。首の数? 数なんて知らねえよ。50かな、100かな。ああ、めんどくせえこと聞くなよ。うぜえ。俺はエビデンスを集めてるんじゃないんだから。俺は俺の本質直観を満足させているだけさ」

エビデンスが通用しない世界はカオスだ。でも、かといって、あらゆる場面でエビデンスを求めるのもおかしい。

例えば友達を作ったり恋愛したりするときにエビデンスを求める人はドアホウだ。「あなたが私の彼氏にふさわしいということを示すどんなエビデンスがあるのというですか?」そんなものはない。そういう場面でこそ「私の本質直観です」と言ってやればいい。人が人を好きとか嫌いというのは主観の問題だ。主観の問題にエビデンスを持ち込んで無理やり客観の問題にすり替えようとしても頭のおかしい人扱いされるだけだろう。

あるいは、漫画家や編集者がマーケティング調査を一生懸命やってエビデンスを集め、「今の消費者に求められている漫画」を描いてみても、ろくなものにならないと思う。そこそこ売れるかもしれないけれど、多分誰の心にも残らない暇つぶしみたいな作品にしかならないだろう。なぜなら、これも主観の問題だからだ。よく、好きな漫画や小説のことを「まるで私のために書かれた作品のようだ」という人がいる。例えば太宰治の小説なんか、そういう風な感想を言う人が多いと思う(エビデンスはないけど)。もちろん、そんなのは幻想だ。だって、作者はあなたのことを知らないのだから。それでも、そういう幻想を持つことができるからこそ、その作品は名作なのだ。そう言う時にエビデンスは無力だ1

と言うふうに、「主観」が何よりも大事な領域というのはあるのだ。もちろん、コロナワクチンを作る時には主観は黙っていた方がいい。でも、親しい人と付き合うとき、好きな漫画を読むとき、主観を無くしてしまってはいけない。というのは、主観をなくすというのは、心を失くしてしまうのと同じことだからだ。太宰は小説を書くことを読者への「心づくし」と表現したけれど、「心づくし」はエビデンスでは代替不可能な物なのだ。

だから問題なのは、主観が大事なのか、客観が求められているのかを、その場その場で判断できるセンスだろう。老いた親が「昔は良かった」と言ってる時に、昔がいかに暴力的でひどい時代だったかというエビデンスを出してもしょうがない。そういう時は、利口ぶりたがる自分を抑えて20分くらいでいいから昔話を黙って聞くのが親孝行というものだろう。逆に、「コロナワクチンを打ったら脳が5Gに接続してしまうううううっっっっ!!!!!」と叫んでいる人がいたら、それも黙って聞き流した方がいいのかもしれないけれど、ちょっと勇気を出して、「そんなことないよ」とエビデンスを示してみても良いと思う。

確かに、エビデンスがあちこちで求められるようになって、うぜえ、という気持ちは私自身にもある、というか、かなりある。だけどそれは、主観が大事な場面なのにエビデンスを求められるからうぜえと感じることが多いように思う(エビデンスはないけど)。こんなこと言うと、「どう言う場面で主観が大事で、どういう場面で客観が大事なのか、それを示すエビデンスはあるのですか!!?」と怒られるかもしれないけれど、いや、そんなの知らないよ。「知らない」っていうことが大事なんだと思う。だって、人間から主観は消せないのだしね。主観についてああだこうだ文句をつけてくる人に対して言うべき悪口として「野暮」というのがあるのだけど、最近はこの言葉も流行らなくなってきているようだ(エビデンスはないけど)。


  1. マーケティング調査に頼った漫画がたいして面白いものにならない、というのは別の理由もある。それは、そもそも、面白い漫画の「面白さ」の中には、これまでの漫画にない「新しさ」も含まれているというものだ。そういう未知の新しさについて消費者にあれこれ聞いたところで意味が無い。だって、消費者だってそんなの知らないんだから。その一方で、マーケティング調査に頼った漫画が売れるというのもあると思う。たとえば消費者がかわいい女の子を求めているのなら、かわいい女の子がたくさん出てくる漫画は売れるだろう。だけどそれは過去に売れた作品の劣化コピーをひたすら再生産してるだけのことなので、長期的には業界全体が廃れるだけだと思う。