【感想文】電脳コイル(9話まで)

  • 電脳コイルは相変わらずみていて、おもしろいんだけど、「もうメガネ外しちゃえばいいんじゃないの?」と思ってしまう。メガネがあることでいったいどんな恩恵があるのかもよくわからんし。電脳ペットなんて飼わなくても生身のペットを飼えばいいと思う。

  • ただ、これって逆に現実世界を顧みれば、「もうスマホやめちゃえばいいじゃん」とか「もうSNSやめちゃえばいいじゃん」という言い方もできるな。たしかにどちらも生活と切り離せない存在になっているけれど、無くても実はそんなに困らない。ただ、他の人とコミュニケーションしにくくなるとか話が合わなくなるという問題はある。たぶん、このアニメの世界におけるメガネもそういう存在なんじゃないだろうか。無くても生きていけるけど、無いと他の人と切り離されてしまう。

  • この世界で、大人たちはあんまりメガネを使いこなせてないように思える。授業中に生徒がいたずらしてても先生はぜんぜん気づいてなかったりするし。電脳世界の主な住人は子供たちだ(おばあちゃんもいるけど)。で、その一方で物語自体は電脳世界を主要舞台に繰り広げられるので、大人たちの存在感がめちゃくちゃ希薄だ。主人公の両親はどこにでもいるお父さん・お母さんというテンプレ通りの言動しかしない。あの、死んじゃった女の子のお母さんも、娘が残したメガネをどうしたらいいかわからなくて娘の友人の男の子に託してしまうくらい無力だ。先生たちも、まるで昭和アニメの小学校教師みたいに類型的で個性が無い。その一方で子供たちはメガネの世界に生きていて、大人たちは子供たちがどんな風に日々を過ごしているのかぜんぜん見えていない。ここらへんも、大人たちがネット上での子供の人間関係がぜんぜん見えていないという現実社会のあり方とパラレルになっている(ただ、最近の大人はこのアニメが公開された当時に比べればもう少しネット世界になじんでいると思うけど)。

  • こういう風に考えてくると、案外、このアニメの世界は現実世界と対応づけられるみたいだ。逆に、それじゃあどこが新しいのか、というのがよくわからなくなってくる。

  • イリーガルという、アンダーグラウンド電脳世界の存在を設定することで、あたかも幽霊が具現化したような描写を実現している。人が死んでも、その記憶がメガネに残っているのなら、そいつがアンダーグラウンド世界で幽霊として存在し続ける、ってことなのかな。でもそれは、主が死んでしまったブログやTwitterアカウントが残り続けているのと何がちがうんだろう? たとえば、死んでしまったAさんのツイートを誰かがリツイートしたら、事情を知らない人にはそのAさんが今も生きていてそういう発言をしているように認識される。本人が死んでもデータが消去されず、そうしたデータの断片が誰かに再利用されることで、あたかも幽霊みたいにネット空間で生き続ける。そんな風な形で、電脳コイル的な世界はすで現実化しているんじゃないだろうか。

    • (追記)そんな話が無いかなあと探してみたら、ちょっとそれっぽいのが見つかった。《現代ではマルウェアに感染したインターネット上のゾンビや、スパムボットが“知らない人”になり代わり、死から蘇って手の届くところにいる全ての人について回っている》とのこと。
  • 今のところこんな感想。ビジュアル的には確かに「すげえ!」って思うんだけど、世界観としてそこまで新しいものを提示できてるんだろうか? という疑問がある。公開当時は新しかったかもしれないけれど、もう現実にかなり追いつかれてしまっているんじゃないか、と。

  • あと、だんだん文恵がかわいくなってきた。ときどきおっさん臭い顔になるんだけど(水木しげるキャラみたいに「フハッ」とか言い出しそう)、そこも含めてかわいい。