【アニメ感想】『映像研には手を出すな!』 ラストまで

  • 『映像研』の3人は、どう考えても高校生レベルではない。だから「手を出すな!」ってことなんだろうけれど、それじゃあ逆に、なんでこの人たちは高校生をやっているんだろう? 
  • 最終話が近づくにつれて、高校生であることはもはや足かせでしかなくなってくる。イベントでDVDを販売することが学校側に問題視され、しかしそれも、映像研の取り組みがSNSを通して世間に知られるようになると学校側も止められなくなって、結局うやむやになってしまう。金森氏の言うとおり、教育指導要領には馬鹿しか教師になれないと書いているんじゃないかと思えるくらい、学校側はただただ、足を引っ張ることしかしていない。
  • 学校を舞台にした漫画というのは無数に存在する。一番の理由は、読者の大半が学生だということだろう。自分たちの日常と近い世界が舞台で、自分たちと同じくらいの年齢のキャラが登場しないと、読者としては共感しにくいのだ。しかし、『映像研』には、現実の高校生にとって共感できるようなシチュエーションはほとんど描かれていないと思う。恋愛は無いし、文化祭はあるけど「クラスのみんなでがんばって成功させました!」みたいなのとはかなりノリがちがう。他の人たちが文化祭で青春をやっているのに、映像研の3人はその輪から外れて、次はどんな作品をつくろうかみたいな全然違う話をしている。はっきり言ってもはや「プロ」であって、高校はただ部室を貸してくれる場所くらいの意味しか持っていない。
  • それじゃあ、高校生という設定はやめて、完全にプロになってしまった3人を描けばいいじゃないか、という気もするけれど、そういうものでもないのだと思う。というのは、そもそもアニメをこんなに自由につくることは、現実のプロの世界ではほとんど不可能なことだからだ。
  • 金森氏は厳しいけれど、「納期に間に合わせる」ということさえ守るのなら、浅草氏と水崎氏にかなり自由に作品を作らせている。ストーリーも絵コンテも完成していないのに作品を作り出すとかって、現実世界でできるのは宮崎駿くらいじゃないだろうか? 3人がプロになってしまったら、宮崎駿方式で作品をつくることはまず不可能なのだ。
  • だからこの作品では、「アニメに賭ける女子高生たちの青春」が描かれているわけではない。そうではなく、「宮崎駿のようにアニメをつくる人たちの自由」が描かれているのだ。高校生であることは、その宮崎駿的な自由さを担保するための言い訳でしかない。「女子」であることさえも、あんまり重要ではない気がする。単に、男3人だと画面が重苦しいというだけの理由じゃないだろうか。
  • アニメ版は見終わってしまったけど、原作はまだ続いているみたいだ。アニメ版は、浅草氏の描く作品世界がどんどん現実世界を侵食していって、最後には町全体にまで波及するというところで終わっている。これでラストなのは納得できるし、これ以上話をつづける必要があるのか、という気もする。いずれ原作も買うけど、どんな風になってるのかなあ。映像研の活動が拡大するにつれ、外の社会からの制約がどんどん強くなっていって、それを乗り切るために金森氏が暗躍するようになる。そして最終的にはアニメ界のゴッドファーザー的な地位につき、「スタジオ映像研」を設立するとかかなあ。