ネットニュースで、「女性が怒っているとき実は泣いているのだ」という女優の発言が名言として紹介されていた。
ふーん。なるほどねえ。知らなかったよ。自分はこういう女心がわからないからダメなんだろうなあ。これからはこの名言を胸に刻んで女性に配慮のできるイケメンとして生きていくよ。と素直に感心した。
でも、しばらくして考え直してみると、「別にそんなの女性に限らないじゃん」と気づいた。
自分は男なのだけど、誰かに対して怒るときはだいたい泣きたい気持ちでもある。話をして通じる相手なのなら冷静に話をするだけだ。話が通じない相手だから怒るしかない。で、話が通じない人を相手にするときは絶望しているわけだから、泣きたい気持ちでもある。つまり、「男だって怒っているときは実は泣いているのだ」ということになる。
となると、正確には「人が怒っているときは実は泣いているのだ」ということになるだろう。でも、これでは名言として弱い気がする。あえて「女性は」と限定してみた方が名言になりやすいのかもしれない。
いろいろ試してみよう。
「人はお腹が空くと怒りっぽくなるものだ」 → 「女性はお腹が空くと怒りっぽくなるものだ」
「人はパンのみにて生きるものにあらず」 → 「女性はパンのみにて生きるものにあらず」
「人は嘘をつく生きものである」 → 「女性は嘘をつく生きものである」
うん、なんとなく名言っぽくなっている気がする。
逆に、こういうのは名言にならない。
「人がゴミのようだ!」 → 「女性がゴミのようだ!」
なぜこれが名言にならないかというと、「○○は××である」という風に「法則」を述べる形式の文になってないからだろう。
それでは、なぜ「女性は」という限定をつけると名言になりやすいのか。
男性からすれば、女性が実際のところどんなものなのか、よくわからないというのが原因だと思う。つまり、男は男である以上、女性が怒ってるとき、本当に怒っているのか、それとも泣いてるのか、わかりようがない。だから、「女性というのは怒っているとき泣いているのですよ」と言われたら納得するしかない。納得しなければ「女心のわからないショボい男」というレッテルを貼られてしまう。その強制力によって、月並みな発言は名言になる。
また、もうちょっと言えば、女性だって女性がどんなものなのかわかるわけがない。だって、女性っつったっていろんな人がいるでしょう? 他の女性がどんなこと考えてるのかなんて、女性にだってわかんないよ。だから女性だって、「女性というのは怒っているとき泣いているのですよ」と言われたら、「そのとおり!」と認めるしかないわけだ。それを認めなければ「お前は女性なのに女性の気持ちのわからない救いのねえ野暮天だ」なんてレッテルを貼られてしまう。だから、女性相手にもこの手の発言は強制力を持ち、名言になるわけだ。
つまり、「女性は」式の発言を認めないと、何らかのレッテルを貼られるリスクがあるのだ。逆に、「人は」式の発言は、そういうレッテルを貼られにくいのだと思う。「女心がわからない」という言葉はあるけど「人心(ひとごころ)がわからない」なんて言葉は無いし(「人心(じんしん)」という言葉はあるけど、それは今は関係ないと思う)。
で、「男は」式の発言も、たぶん認めなくてもレッテルは貼られないと思う。「男はつらいよ」という発言に対して、「いや、女性もつらいですよ」と反論するのは定番だし。「女心」がわからないのは馬鹿にされるけれど、「男心」なんてわからなくてもあまり問題にならない。だから、少なくとも今の時代は、「男は」式の発言は名言になりにくいのだ。
でも、こういう楽しい文化もいずれは消えていくのではないだろうか。「女性は」なんてことを口にしただけで「差別発言だ!」と大炎上する時代はもうすぐそこまで来ていると思う。こういう名言が生まれるということは、まだまだ今は牧歌的な時代なのだろう。