【研究ノート】仏教的自然観にもとづく環境心理学の構想

 環境意識に関する調査をすることになって、具体的に何しようかあれこれ考えているのだけど、うまくまとまらない。最終的には、新しい環境教育のあり方を提案するというところまでつなげる予定で、その準備作業としての調査という位置づけだ。

 それで環境心理学の本を読んで勉強しているのだけど、だいたい研究し尽くされているのだなあという感心する気持ちもある一方で、そもそもこれ、環境の学問になってないじゃんという不満もある。

注:上の本のタイトルに環境心理学という文言はないけど、本文を読むと、環境心理学の一分野として環境行動の社会心理学があると述べられている。

 たとえば上の本の中で、環境行動に関する社会的ジレンマは、環境悪化が進んで人々の危機感が高まってくると解消されるという研究が紹介されている。それはそれで大事な知見なのだろうけれど、それって別に環境でなくても同じような議論ができてしまうのでは? たとえば、幕末のころも、列強によって日本が滅ぼされてしまうのではという危機感があったからこそ、本当は仲の悪い藩同士が協力関係を結ぶことができた、みたいなのはあったと思う。他にも、環境配慮行動を他者に説得するという行為を通して逆に自身の環境配慮行動へのコミットメントが高まるという研究が紹介されていたけれど、これも、別に環境配慮行動である必要はない。宗教の勧誘とかでも同じような議論が成り立つと思う。

 環境心理学は環境の学問になってない。環境以外の対象にも当てはまる一般的な議論を環境に適用しているだけだ。もちろん、それ自体は何の問題もない。あくまで重要なのは環境問題の解決なのだから、人々の環境配慮行動を説明したり誘導したりするのに有用な知見が得られるのなら、別に環境の学問である必要性はない。とはいえ、わたしとしては物足りなさを感じてしまう。「環境」を冠した学問なのだから、もっと環境を真正面から捉えるべきなのではないだろうか。

 話をあえてずらしてみる。最近、わたしはマインドフルネスにはまっている。もともと不安を感じやすい気質なのだけど、毎日瞑想の時間を持つようにすると、だいぶ気持ちが落ち着いてきた気がする。瞑想が終わった後、目を開いて、窓の外の木や空を見たり、日光を浴びたりすると、いつもよりずっと自然が身近に感じられる。図と地が反転して、それまで背景に退いていた自然がぐっと目の前に迫ってくるような感覚がある。

 マインドフルネスつながりで仏教の入門書も少しずつ読み始めた。仏教では、すべては縁起だとされている。目の前に見えるものは現象であり、空(くう)だ。一切が空であり、あるのは縁起だけなのだという認識に移行することが悟りなのだ、というようなことで今は理解している。自然の存在に気づくのも、悟りに似たような状態なのではないか。自分に対するこだわりから解放されて、自然との境界線がなくなってしまうような体験だ。なんだかオカルトのような話になってきているけれど、こういう、自他の関係性の変容みたいなところまで踏み込んでいかないと、本当に自然に関する学問をしていることにはならないのではないだろうか。

 その点でいうと、「人間非中心主義」という主張をする環境倫理学は、真正面から自然を捉えようとしている学問なのだといえる。もちろん、環境倫理学の主張は極端すぎて、多くの人にとって受入不能なものになっている。だけど、環境心理学やさらには環境経済学なんかに比べれば、環境をずっと本質的なところで捉えようとしているのだとはいえると思う。これらの学問はあくまで、「公共財に対する人間行動」を扱う学問に過ぎず、環境の学問にはなっていないのだ。

 それでは、「環境の学問」という立場から環境意識研究をするとしたら、どういうものになりうるのか? そして、それはどんな意義があるのか?

 環境心理学では、人々の環境配慮行動を促すためのヒントを見つけるために環境意識研究が行われている。どんな風に環境意識が形成され、それがどういう風に環境配慮行動に影響するかを明らかにすれば、人々の環境配慮行動を促すために必要な働きかけ方が分かってくる。それはもちろん有意義なことだ。でも、物足りない。とりあえず、環境心理学について考えられる難点を思いつくままに箇条書きにしてみよう。

  • 人々の環境配慮行動を促すことが本当に環境保全に効果があるかどうかはよくわからない
    • 少なくともそれを検証している研究は見たことがない。レジ袋を使わずにマイバッグを使う程度のことが気候変動抑止にどれだけの効果を持つかは、かなり疑わしい。
  • 「正しい環境配慮行動」の存在を前提にしている
    • 正しい環境配慮行動という前提があった上で、それを促すためにはどう働きかければ良いかを明らかにしようとしている。
    • しかし、さっき挙げたレジ袋の例からもわかるように、本当にその環境配慮行動に意味があるかどうかというのは、案外よくわからないものだ。「レジ袋を断るのは良いことだ」と簡単に断定してしまって良いものだろうか?
  • 文化差をあまり考えていない(?)
    • 国や地域、宗教によって自然観には文化差があるだろう。そういうのは文化心理学でも明らかにされていることだと思うけど、環境心理学との間で交流はあるのだろうか?
    • まあ、ありそうな気はするし、ちょっと検索したらそれっぽいのも出てくるんだけど…。リスク認知の文化差とか。ただ、あくまで限定的なトピックについてしか研究されていないのでないかという印象がある(まだちゃんと調べてない)
    • ところでこの問題は「環境そのものを扱ってない」という最初の批判にも関連しそうな気がする。たとえば、環境を「公共財」という視点からしか捉えられないのは、環境心理学が西洋で生まれた学問であるためではないだろうか。自然と人間を切り分けて考えがちな西洋の自然観が、学問の前提自体に忍び込んでいる可能性はある。本当は、自然と人はそんな簡単に切り分けられるものではなくて、地と図の関係のように、もっと一体的に捉えられるべきではないだろうか。
    • 仏教的な自然観をベースにした環境心理学というのもつくれるのでは?

 今のところ面白そうだと思ってるのは、最後に出てきた、仏教的な自然観にもとづいた新しい環境心理学だ。その場合、研究の狙いは人々の環境配慮行動を促すための方策を提案することではなくて、人々にライフスタイルや自然との日々のつきあい方を見直すきっかけを与える方法を考えるようなものになるのではないか。自然と人間のあいだの縁起に気づいてもらう、というようなことだ。

 それが結局何になるのか? とりあえず、利己性を減らすことにはなると思う。最初にちょっと紹介した環境心理学研究では、環境悪化が進んでくると環境をめぐる社会的ジレンマが解消されるみたいな話だった。でもそれは、人々の利己性自体には踏み込んでないわけだ。人々は利己的だから、環境が悪化して自分の利益が危機に陥ると、周りとしぶしぶ協力するようになる、というロジックだと思う。そうではなくて、自然との関係性の縁起構造に気づくことで、自己へのこだわりが減り、利他的になることで、社会的ジレンマが発生しにくくなる…みたいな論理は成り立たないだろうか? 無理筋か?

 人々に仏教徒になれっていうこと? いや、そういうことじゃないんだけど…。ぜんぜん具体化できないけれど、この方向性で何か出てきそうな気もする。もうちょいと考えてみよう。

 ちなみに、仏教的な自然観を環境保全をめぐる合意形成のきっかけにできないか、ということが以下の本で主張されていて、わたしのしようとしている研究ともつながってきそうな気がする。

 この本では、仏教そのものというより、「共生」という概念が日本人にとって受け入れやすいものなのではないか、ということが言われている。ヒースが書いてたけど、既存の環境倫理学の問題点は、その主張の多くが人々にとって合意しがたい極端なものである、というものだ。でも、「共生」というキーワードを持ってくれば、その問題点をクリアすることは可能かもしれない。仏教を鍵にして、環境倫理学と環境心理学の合いの子みたいな研究ができそうな気がしている。今のところはただの世迷い言だけど。