【感想】電脳コイル(ラスト)

  • 我慢できなくなって最後は4話連続で一気に見た。
  • 最後の方ではおばちゃんたちが早口で一気のこの世界の裏設定を教えてくれるのだけど、いっぺんに言われてあまり頭に入ってこなかった。半年くらいしたらまた最初から見直すかなあ。
  • 以下、今の時点で気づいたところ。

 

ストーリーが進展するうちにキャラへの好感度が大きく変化する
  • 最初の数話の時点では、好きなキャラが全くいない状態だった。とにかく誰にも好感が持てなくて、まるでゼータガンダムみたいな感じ。でも、しばらくするとフミエがかわいく思えてくる。特に夏祭りのあたりからで、多分、普段のガサツさと浴衣を着た時のおしとやかさとのギャップによるものだと思う。中盤になってハラケンとイサコに焦点が当たるようになると、今度はこの2人のことが気になり始める。これもギャップだろう。根暗だったハラケンは案外男らしいし、粗暴だったイサコは意外とセンチメンタルだ。
  • で、主人公のヤサコのことはずっと気に入らなかったけれど、最後の数話で、この物語の主人公はヤサコとイサコだったんだなあ、と納得いくようになってくる。それもまたある意味ギャップによるものだ。あまり主人公らしくなかった2人がそれぞれの名前にふさわしい人物になることで、2人はこの物語の本当の主人公になる。

 

名前を取り戻すことで、主人公らしくなかった2人が本当の主人公になる
  • ヤサコは「優しい子」のはずなのに、物語の後半になるまであまり優しい人には見えない。相手に寄り添うようなセリフは言うけれど、中身が伴ってなくて、根本的なところでは相手を理解していなかったり、相手と距離を置こうとする偽善者的なところがあった。で、実際、そのことを終盤の方で旧友に厳しく指摘されてしまう。
  • 一方、イサコは「勇ましい子」のはずなのに、兄のことを聞かされてからはどんどん落ち込んでいって、ヤサコの前で幼い女の子のように泣きじゃくってしまう。
  • つまり、2人とも名前と実態が伴っていない。非力で、物語を切り開いていく主人公のようにはとても見えない。それが、最後の最後になって、ヤサコは本当に優しくなるし、イサコは本当に勇ましくなる。2人が幼い日に「ヤサコ」「イサコ」という名前を与えられて、その2人の記憶が蘇り、繋がることで、2人は名前を取り戻す。
  • なぜ名前が大事なのか。それはヤサコやイサコのアイデンティティが揺らいでいるからだ。で、なぜアイデンティティが揺らぐかというと、この世界ではそもそも何が現実なのかがとても分かりにくいからだ。

 

何が現実か?
  • この物語は終盤になると、「何が現実か?」と言う哲学的な問いが前面に出てくる。ヤサコの母親は、触れるものが現実だと言う素朴な世界観でヤサコを優しく抱きしめる。「あったかいでしょう?」と言われ、ヤサコは母親の考えを受け入れそうになるけれど、最終的には拒否する。母親の考えを受け入れると、死んでしまったデンスケや通路の向こうに消えてしまったイサコなど、見えない者たちの存在が無かったことになってしまうからだ。
  • ヤサコもイサコも、自分達の名前を親からではなく、電脳世界の階段鳥居で与えられた。そこで2人の幻想世界が繋がることで、2人は生まれた。その意味では、2人ともイリーガルのような存在でもある。「メガネ遊びはもうやめなさい」とメガネを取り上げられることは、見えない世界とのアクセスを閉ざされると言うことであり、自分達の名前を失うことでもある。大人は、メガネがあるから子供たちは現実が見えなくなると考えている。しかし、少なくともヤサコとイサコにとっては、現実とは見えないものによって支えられているのであり、メガネを失うと言うことは、現実を空疎な書割のようなものにしてしまうことと同じだ。そんな世界では、ヤサコは決して優しくなれないし、イサコは決して勇ましくなれない。だから、本当の自分を取り戻すためには、危険を顧みず、見えない世界に降りていって、再び戻ってこなくてはならない。
  • ここら辺は神話などさまざまな古典物語で繰り返されてきたモチーフだと思う。電脳メガネという最先端の科学技術を使って現代版の神話世界を構築しているのだとも言える。

 

ヤサコは巫女?
  • ヤサコは巫女みたいな存在なのかもしれない。受け身だけれど、その受け身性が徹底されることで、かえって主体性を獲得している。別れた人たちと再び会いたいと願うハラケンやイサコと違って、ヤサコはあっちの世界に行く動機があまりない。遠い日の4423の記憶はあるけれど、それもなんとなく気になるだけで、放っておいても本当はよかったはずだ。それが、ハラケンやイサコと関わるうちに、あっちの世界にどんどん深入りしていくことになる。徹底的に受け身だからこそ、2人の切実さにどこまでも応えようとするからだと思う。
  • で、その受け身性によって、他者を自分に憑依させてしまう。カンナがハラケンに言った「好き」という言葉を隠し、ヤサコがハラケンに「好き」と言ってしまう。また、ラストの方では、あっちの世界に取り込まれそうになるイサコに、あなたは勇ましい子のはずだと迫る。まるでヤサコ自身がイサコになってしまったかのような力強い口調で。
  • ヤサコがあっちに引き寄せられやすいのはこの受け身性があるからだろう。そしてその徹底した受け身性が一種の能動性に裏返ることで、物語の強力な駆動力になっているのだと思う。

 

落ち穂拾い
  • ヤサコが痛みをレーダーみたいに使ってイサコのもとに辿り着くのは、痛みというのが私秘的なものだからだと思う。いくら母親がメガネの世界はまやかしであり、触れるものだけが現実だとさとしても、「でも私は確かに痛みを感じる」といえば、母親がなんと言おうとその痛みは現実だということになる。まやかしの痛みなんてものはありえない。まやかしの歯痛を感じている人は、現実に歯が痛いのだ。痛みを持ち出すことで、通路の向こうの世界に再び現実性が与えられることになる。
  • 猫目はなんだったのか、あんまりよく理解できてない。唐突に出てきたキャラのような気がするし、親の名誉を回復するために無辜の子どもたちを犠牲にするという発想もかなり狂っている。なんか、物語にそれっぽい落とし所をつけるために逆算的に生み出されたキャラのような気がする。他のキャラに比べると心のひだが感じられないというか、すごく人工的な感じがする。
  • 子どもたちはメガネを手放して生の現実と触れ合いなさい、みたいなくだらない説教話に堕さなくて良かった。最後までヤサコたちの世界に大人は入ってこれなかったわけだ。入れるのは、オババとかオジジとか、ヤサコの父とか、大人になっても子どもの心を捨て切れてない人たちだけだった。

 

おわりに

スロースターターなもので、最初はなかなか乗れなかったけど、カンナに会う手前あたりから完全に夢中になっていた。まだ拾い切れてないところがたくさんあるはずだから、またいずれ観よう。