【雑文】常識の渦中にいて常識を疑う

わたしは常識があんまりない。人からも言われるし、自覚もある。

院生時代に後輩たちと飲みに行って、座敷席に案内され、誰も座らないからしばらくぼーっと立っていたら、「先輩が先に座らないと誰も座れないじゃないですか!」と女子学生にキレられたことがある。

これは今でも、なんでキレられたのかわからない。座りたかったら好きなところに座ればいいのに。こちらとしては、みんなが座った後に、苦手な人の近くを避けてなるべく隅っこの方に座ろうと思っていたのだ。だけどそんなことを言ったりしたら「常識がない」と怒られるのに決まっているので黙っていた。

だから、わたしにとって常識は基本的に敵だ。だけど、世の中は常識の味方をする。必要があってここのところヘーゲル哲学を勉強してるのだけど、ヘーゲルが言ってることは単純化すると「みんなが正しいと承認するものが正しい」と言うものだ。つまり、「常識が正しい」と言っているわけだ。勉強しながら、なんだかヘーゲルに説教されてる気持ちになってくる。

そんなわたしに追い風が、と言ったら語弊はありそうだけど、近頃は常識が原因で生産性が落ちたり人が迫害されたり家族が離散したりと言うことが問題になっているようだ。

例えば、今日ネットで見た記事だと、凶悪犯罪者の実家というのは実はサザエさん一家みたいに常識的な家族なのだと言う(←今、確認したら正確には「普通の家族」みたいな表現だった)。

いや、サザエさんというのは当時としてかなり先進的なエキセントリックおばさんであって、他のメンバーも必ずしも常識的ではないのでは、第一、下の名前がみんな海産物由来という時点で相当キてる家族だと思うんだけど…というツッコミを入れたいのだけど、そんなツッコミを入れると非常識と思われそうだからやめる。重要なのは、常識的な家族は子どもを知らず知らずのうちに抑圧し、凶悪犯罪の加害者に育て上げてしまうこともあるということだ。

非常識なわたしの実感からすると、常識的な人たちと一緒にいるのは相当ストレスが溜まる。だって、自分の一挙手一投足にダメ出しされるのだから。忌野清志郎の歌で、「君の歩き方へんだよ」みたいなフレーズが出てくるのだけど、まさにそんな感じだ。わたしの場合は、走り方がへんだと子供の頃からかわれていた。

一方、常識というのは変わるものだ。昔の常識は今の非常識になる。例えば、今の時代、飛行機や新幹線の中でタバコを吸う人がいたら、完全にヤバい人ということになるだろう。いや、これは常識というかルールだから、ちょっとズレてるかもしれない。ごめんなさい。常識ないので、あんまりいい例が思いつかないんだけど。じゃあ、ゴスロリとか。多分、ゴスロリが出てきた頃は、彼女らとすれ違う人たちは大体くすくす笑ってたと思う。だけど、今は誰も笑わないでしょう? 田舎だったらまだ笑う人もいるかもしれないけれど、今はそういうので笑う方が非常識で、田舎者丸出しな恥ずかしい反応になってきてると思う。

だから、常識を信じすぎるのも良くない。ましてや、それが生産性や迫害や一家離散の原因になるのだとしたら、なおさら常識は疑うべきだ。

だけど、常識を疑うのは難しい。なぜなら、常識というのは正しさの足場だからだ。何が正しいかを常に客観的に決められるとは限らない。「ナイフの先で心臓の辺りをぐりぐりすると大抵の人は血を流して死ぬ」というのはそこそこ客観的だ。だけど、「ゴスロリ服で街中を歩いても良い」というのは客観的に決められない。今は、ゴスロリ服で歩いてもいいかもしれない。でも、50年後はどうなっているだろう? それは誰にもわからない。また昔みたいにゴスロリの人を笑うのが常識になることだってありうる。つまり、「ゴスロリ服で街中を歩いても良い」というのも、新たな常識に過ぎないのだ。常識である以上、いつ変わるかわからない。それでも、常識がないと人は物事を判断することができない。ずっと判断を保留して、「ゴスロリ。ああ、ううん、ええと、ゴスロリねえ。うん、いや、やぶさかではないよね」と要領を得ないことを言ってる奴はただのばかだ。頼りない常識であっても、常識を物差しにして物事を判断しないと話が進まないこともある。だから、常識を完全に捨てるのはたぶん不可能だ。

非常識なわたしも、多分いろんな常識を無批判に受け入れている。例えばわたしは平安女子を可愛いと思わない。平安時代の下膨れ顔をいいと思っていないのだ。でも、それは結局、今の常識に染まっているからそう思うだけだ。平安時代の人たちからしたら、今の人たちの顔はどれも汚らしい貧乏人たちのようにしか見えないだろう。痩せこけていて、目ばかりギュンギュンに突き出ていて、なんと令和の女子(おなご)どもは粗野な面(つら)つきをしておるのだろう、ああ、いと見苦し、と。

これが、アダム・スミスの言う「公平な観察者」と言うやつだ。え、これってどれ? つまり、今の「平安時代の人からしたら」というくだりのことだ。今、この社会とは別の社会の人から見たら、この常識はどう見えるだろう? そういうふうに、この社会から離れてみて、物事を客観的に考えてみるという思考実験を、アダム・スミスは「公平な観察者」と呼んだ。

公平な観察者というのは、多分一種の能力だ。つまり、想像力のない奴には使いこなせない。だから、わたしのような無能な一般市民は訓練を積む必要がある。やり方はいろいろあるだろう。例えば今の例のように平安時代の人たちの視点に立つというのは、古典文学とか歴史の勉強をすれば良い。あるいは、SF小説を読みまくるとか哲学を勉強してみるとかも効果的かもしれない。肉体派の人たちは海外で自分探しの旅をして見るのもいいだろう(もっとも、今の時代どこの国もグローバル化しちゃってるからあんまり意味ないかもしれないけど)。

ただ、公平な観察者をやるのはしんどいことだ。かわいいものをみて「カワイイ!」とクラクラしてる方が絶対楽しいしドーパミン出る。「いや、平安時代だとこれは間違いなく醜女(しこめ)ですよ」なんて言ってたら友達失くすし、下手したら殴られて顔面陥没する。

しかし、公平な観察者としての発言は、単なる非常識な発言ではない。そうではなく、常識批判の発言なのだ。非常識はただの間抜けだけど、常識批判は世の中を変革していくための強力な武器になる。橋本治が『「わからない」という方法』という本の中で、「へん」は常識をひっくり返す梃子になるということを言っていたけど、そういうことだと思う。常識を押し付けてくる人たちの中で被害者意識を後生大事に抱え込んでいるよりも、しんどくても公平な観察者であった方がいい。「公平である」というのは「普通である」ということはなく、むしろ「へんである」ということなのだ。